乏しい時も豊かな時も満足する
Being Content Whether Abasing or Abounding
August 6, 2024
引用文集
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使徒パウロは、多くの人の想像を超えるほどの苦しみを味わい、快適な生活とは縁のない人でした(2コリント11:23–28)。しかし、彼は満足することの秘訣を心得ていました。「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:12-13)。ヘブル人への手紙の著者は、こう付け加えています。「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、『わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない』と言われた」(ヘブル13:5-6)。…
「自分の持っているもので満足しなさい」とは、信者は神を信頼し信用すべきだということであり、それは、神はあらゆる良いものを与えてくださる方で(ヤコブ1:17)、私たちの信仰が本物であることを示すために、困難でさえも用いてくださるのだと知っているゆえなのです。神は、万事を共に働かせて、神を愛する者たちにとって益となるようにしてくださると、私たちは確信しています(ローマ8:28)。—GotQuestions.org [1]
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神が日ごとにくださる未来の恵みがあるので、パウロは満腹することも空腹でいることも、栄えることも苦しむことも、豊かでいることも貧しく暮らすこともできます。
「何事でもすることができる」とは、ただ簡単なことだけでなく、実際に「何事でもすることができる」という意味です。「何事でも」とは、キリストによって、「私は空腹でいることも、苦しむことも、貧しく暮らすこともできる」という意味です。このことは、ピリピ4:19の「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」という驚くべき約束を正しい見方で捉えています。
ピリピ4:11-12に照らした時に、「あなたがたのいっさいの必要」とは何を意味するのでしょう。それは、「神に栄光を与える満足に必要なすべてのもの」という意味です。その中には、空腹や欠乏の時も含まれるかもしれません。ピリピの信者たちに対するパウロの愛は、神にあっての満足から生じたものであり、彼の満足は、豊かな時にも欠乏している時にも必要なものはすべて神から与えられるという、未来の恵みへの信仰から生じたものなのです。—ジョン・パイパー [2]
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パウロは、ピリピの信徒たちに対する感謝の言葉を続けていますが、そう言ったのは、自分が信徒たちからもっと多くのものを欲しがっていたからではないと念を押しています(ピリピ4:11)。彼は、自分が質素な生活をし、満足していることを示したかったのです。パウロは、基本的な必需品以上の地上の必要があってもなくても、生きることができました(ピリピ4:12)。
質素に生きることに加えて、パウロは自分の境遇に関係なく満足するという概念に焦点を当てています。満足は自然に生じるものではなく、生まれながら持っている態度でもありません。むしろ、それは身につけたスキルなのです。さまざまな宣教の経験で、パウロには豊かな時もあれば、欠乏の時もありました。それゆえに、パウロは自分の境遇にかかわらず、喜びを見出す方法を学ぶことができたのです。
ローマ帝国の獄から書簡を書いていたパウロは、非常に困難な時にありました。それでも、パウロは喜びと満足の気持ちを表しています。パウロが投獄されていた期間が短くなかったことを思い起こすのは重要です。パレスチナでの数年に加え、ローマでは2年間も拘束され続けていたのです。パウロがこのような状況の中で幾らかでも喜びを見出すには、満足することが不可欠だったのです。—BibleRef.com [3]
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物事が思い通りに進んでいる時に、神を信頼していると主張するのは簡単です。けれども、実際に神を信頼しているかどうかを示す最善の指標は、あなたが人生における混乱、ことさら、自分の力では困難な状況を解決できない時にどう対応するかでわかります。
聖書は、人生の山や谷を通して神を信頼するよう求めています。パウロはこれを「足ること」と言っています。私は、足ること、満足するとはどういうことなのかを深く考えていて、ピリピ4:11-12を読み返しました。「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」。…
実は、満足とは自然に生じるものではありません。パウロはそれを「学んだ」のです。つまり、満足は私たちが身につけなければならない美徳であり、私たち全員がこの訓練に励むべきです。—トレバー・バドレック [4]
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ピリピ4章で、パウロは満足の秘訣を学んだと語っていますが、それは私が思っていたものとは異なっていました。その秘訣とは、自分の必要や欲求を否定することではなかったのです。彼は満足したふりをしていたのではありませんでした。また、彼の境遇が完璧だったから満足したのでもありません。そうではなく、彼が見出した満足は、自分の力ではなく、キリストのうちに見出されたのです。
満足とは、神の豊さのうちに生きることです。つまり、私たちのいる状況とは無関係に、満足を得られるということです。だからといって、欲求がないわけではありません。キリストにあって満たされていても、何か他のものを望むことだってあります。
もしあなたも私のように、このことに頭を悩ませているなら、聖書は欠乏している時に満足するための実践的な方法を示しています。
敬信的なことに思いを留める。(ピリピ4:8)
神がすでに成してくださったことを思い出す。(詩篇103:1–2)
神に語りかけ、欲しいものを求め、祈りで神の御心を求める。(マタイ7:7–12)…
生きている限り、私たちはイエスが来て、万物を新しくしてくださるのを待っています。もっと何かを欲しいという私たちの切望はなくなることがありません。けれども、私たちはどのような境遇にもかかわらず、満足を感じるのを聖霊が助けてくださると信頼できるのです。…
満足とは、私たちが何を望んでいるかに正直になりながらも、神が私たちから最善を差し控えてはおられないと信頼することに似ています。神は私たちが今いるところで人生を謳歌するための強さを与えてくださいます。神は私たちにキリストを与えてくださったのですから。—メーガン・ライアン [5]
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生涯を通して、あなたは2つの特別な場所に身を置くことになる。豊かさという場所と、乏しさという場所だ。パウロはピリピ4:12で、豊かさと乏しさについて書いている。「わたしは貧[乏しさ]に処する道を知っており、富[豊かさ]におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」。
乏しさの場所と豊かさの場所、その両方があなたの人生の異なる時点で必要とされ、その場所にいる間、どちらもあなたの人生において重要な働きをする。そして知っているだろうか。あなたの信仰が、周囲の状況ではなく、わたしとわたしの言葉に根ざしているなら、あなたはどちらの場所でも満足することができる。
どんな状況であろうと、どんな状態であろうと、何を持っていようと持っていまいと、何があろうと、あなたは心と思いに平安を持つことができ、あなたの力となるわたしの喜びを持つことができる。どんな状況に置かれても、あなたはなおわたしと共にいる。いや、わたしはなおあなたとともにいると言ったほうがいいだろう。もしわたしがあなたとともにいるなら、あなたはわたしの喜びも含めて、最終的に何一つ事欠くことがない。
豊かな場所にいるよりも、乏しい場所にいる方が難しいだろうことはわかっている。しかし、乏しい時、足元がぐらついているように感じる時には、わたしにもっとしっかりと信仰を置くことを学べる。あなたはわたしにもっとしっかりとしがみつくことを学ぶ。わたしのもとに来ることを学ぶ。このような時を通して、あなたの信仰は試され、強められる。
もし、あなたが人生のある側面において、乏しさの場所にいることを経験しているなら、あなたがいるどんな場所においても、わたしがともにいることを知って、励まされることだろう。あなたが直面しているどんな状況を通してでも、わたしに近づくことを選ぶ時、あなたは心を開いてわたしの喜びを経験するだろう。—イエス
2024年8月アンカーに掲載 朗読:ジョン・ローレンス 音楽:ジョン・リッスン