神に対して怒る
Angry with God
April 24, 2019
トミー・パルチョウスキー
「あなたはまるで馬の前に人参をぶら下げるように、約束を私の前にぶら下げているではないですか!」 私は腹を立てていました。
「私が落胆する時、あなたは私の目の前に人参をもう一本置いて、あと数日戦い続けるようにさせるのです!」 寝室中を歩き回りました。
「でも私はヒーローなんかじゃありません。克服者のタイプではないのです。ただ、普通の生活が欲しいだけです!」 一度ぐらいは自分の望む方に人生が進んで欲しいと思ったのです。
「あなたはなぜ、すでに与えてくださった約束を果たさずに、代わりにもっと多くの約束を与えるのですか? ドイツのあの教会で、あなたが私と同じ症状の人を癒されるのを、私は見ました。彼はとても喜んでいました。では、私はどうなのですか?」 大声で抗議しました。
「長年の間、あなたに仕えようと努めたのに…」 そこまで言いかけて、私は荒れた言葉を発するのをやめました。自分のしていることに気づいたのです。
私は神を怒鳴りつけている、神に怒りをぶつけているんだ、そう気づいて衝撃を受けました。なんて愚かなのだろうと思いました。
私は、神が与えられた約束について大声で不平を言っていました。それらの約束は、私の人生において最も貴重なものなのに。
心からの祈りとして始まったものが一方的な不満の言葉へと発展し、私はそれが手遅れになるまで気づきさえしませんでした。どうしてそんなことがあり得たのでしょう。
ふと、古代イスラエルのことが思い浮かびました。私はかねがね、ユダヤ人が荒野であれほどもつぶやいていたことに驚いていました。正直なところ、彼らがモーセの指導下にあってどれほど感謝の気持ちに欠けていたかは、私にとって理解しがたかったのです。彼らは一体どうして主が彼らのためにしてくださった奇跡、世話、供給について不平を言うほど愚かだったのでしょうか。
「私ならそんなこと、絶対にしない!」という、うぬぼれた態度でいたものです。
それなのに、私はこの霊的な荒野のど真ん中にいて、神の約束について不平を言っていました。灼熱の炎天下、焼け付くような砂だらけの土地に囲まれてさえいなかったのに。私は電気、ガス、水道が完備されたアパートの、安全で快適な寝室から不平を言っていたのです。私を追いかけるエジプトの軍隊もいませんでした。
これと似たようなことをしたのは、人生で一度しか思いつきません。それは、数年前、私がやけっぱちのティーンエイジャーかつパンクロックバンドのリードシンガー(要するに叫んでいるだけ)だった時のことです。ある曲につけた歌詞の中で、私が神の受け身的態度とみなしたものについて神に食ってかかったのでした。私はなぜ神はこの世界のあらゆる残虐行為を許したのかと尋ねて、神の善良さと正義に異議を唱えました。それはどう考えてもおかしく思えたので、黙っているわけにはいかないと決めたのです。
ポーランドはほぼカトリックなので、私はカトリックの祈祷文である「アヴェ・マリアの祈り」を歌詞に含めることによって、自分の意見を主張しました。「アヴェ、マリア、恵みに満ちた方。主はあなたとともにおられます。でも、なぜ私と共におられないのですか?」 私は歌の最後まで繰り返しました。「なぜ私と共におられないのですか?」 しかし、それは私が若かった頃の、悩み多き日々のことでした。当時、私は自分が地球上で最も頭のいい人間の一人だと思っていて、まさにそのように振る舞いました。その後まもなく私は新しく生まれ変わり、人生が劇的に変わったのです。
でも、当時はそうだったとして、救われてから34年経った今はどうでしょう。その間に何かを学んだはずではないですか? 「人の怒りは神の義を実現しない」[1] ことを、私たちは知っています。では、自分の振る舞いはどんなものであったと言えるでしょうか。
モーセが荒野でただ岩に命じるだけでなく、岩を打った時のように、私は境界線を越えたのでしょうか。ことによると私はそれよりも悪いことをして、気づきさえしないうちに、折り返し不能地点を超えてしまったのでしょうか。
私は自分がとったような振る舞いについて聖書がなんと言っているかを思い出そうとしましたが、私を弁護するために役立つような言葉は何も思いつきません。聖書には、自分の運について神に不平を言った人が何人かいましたが、その一人として、正しくはありませんでした。
私は過去にも数多くの愚かな行動を取りましたが、今回の振る舞いも、やはり愚かな行動と言えるだけの、ありとあらゆる特徴を備えていると気づきました。これは単に、「まことに人の怒りはあなたをほめたたえる」[2] というケースだったのでしょうか。あるいは、「わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった」[3] というケースなのでしょうか。もしかすると、「人は自分の愚かさによって道につまずき、かえって心のうちに主をうらむ」[4] ということだったのでしょうか。
あるいは、それよりも悪いことだったのでしょうか。ことによると、私はヨブの妻の「神をのろって死になさい」[5] というひどいアドバイスを実行に移していたのかもしれません。
すぐに謝罪すべきだろうか、そうすれば今回は逃げおおせるだろうか、それが、もう一つの、いまいち賢くないアイデアでした。
ついに、私はその状況でできる唯一のことをしました。つまり、何もしないでいることです。そして、待ちました。驚いたことに、主は冷静であられました。最初のうち、私の緊張は募るばかりでしたが、神は重い皮膚病や失明でもって私を打ったりされませんでした。
それから神は私の心に語られました。「あなたはとうとうそれを吐き出した。気分が良くなったかい?」 まるで、主はそれを待っておられたかのようでした。
「あなたは自分を空にした。今なら、わたし達はコミュニケーションできる。これからもこうありなさい。わたしの前では、いつも正直になりなさい。」
これこそ、悪い状況の中に良いものを見るということだ、と私は思いました。「私はずっと前からこうしているべきだったとおっしゃりたいのですか? これは遅すぎるくらいだと?」 私は安堵に胸をなでおろしました。
私は受け入れられたと感じ、警戒心が和らぎました。理解してもらえた、愛されているんだと感じ、敵意は消え去りました。
それが今回もっとも素晴らしかったことです。神に対する私の攻撃に対して、神は、それを私たちの関係を深めるための招待状に変えるというかたちで返してくださったのです。私の爆発の結果は、神との友情を育むための機会として使われました。
本当の私が受け入れられました。私の真の性格を隠したままでなくてもよかったのです。本当の自分でいられる自由がありました。私は感情面で、全くの不意を突かれたのです。
「恵みはわが身のおそれを消し、まかする心をおこさせたり」は、アメイジング・グレイスという賛美歌からの、お気に入りの歌詞です。私は再びこの恵みを経験していたのであり、それは心地の良いものでした。
私は誰かにとって重要な存在だと感じ、それは違いを生じさせました。真に私の友になることを望んだ人にしか、そのような反応は思いつかないでしょう。私にはまだ友なる主がいて、その友を改めて見出したところです。私は主にフラストレーションをどさっと投げかけたのに、主は動揺されませんでした。
またしても、自分が愚かに感じられました。でも今回のは、好ましく喜ばしいタイプの愚かさです。「罪に定められることがない」[6] のです。