私の腕に抱かれた小さな赤ちゃん
A Tiny Babe in My Arms
December 18, 2024
カーティス・ピーター・バン・ゴーダー
友人の奥さんが可愛い女の子を出産したので、彼らを訪問した際に、私はその赤ちゃんを腕に抱かせてもらいました。まだ生後数週間のその子の頭は、私の手のひらにすっぽり収まるほどです。私はもう一方の手で小さな体を抱きかかえました。私たちの世界で生きるよう、神によって創造されたばかりの新たな命が、私の手の内にあると思うと、胸がいっぱいになりました。
私は、2千年ほど前にキリストが地上に来られたという驚きの出来事に、思いを馳せずにはいられませんでした。想像してみてください。全宇宙の神が、私たちの小さな惑星に住むために降りてきて、弱く無力な乳飲み子となり、私の腕の中に横たわるこの小さな赤ちゃんのように、他の人の世話に完全に依存している様子を。その時、私の腕で眠る赤ちゃんが、まるで蝶を追いかけながら、香りのいい花の咲く野原ではしゃぎ回っているかのように微笑んだので、私も微笑みました。
私の思いは、飼い葉おけに横たわるイエスを訪ねてきた羊飼いに向けられました。彼らは赤ちゃんを抱かせてもらったのでしょうか。きっとそうしたかったと思います。神がなぜ、天使の知らせを届ける相手に、当時の尊敬されていた宗教指導者ではなく、この謙虚な人々を選ばれたのでしょう。ベストセラー作家で牧師のランディ・アルコーンは、イエスの時代の状況について、こう書いています。「羊飼いは、パレスチナの社会階層において最下層にいました。徴税人や糞掃除人と同じように、誰も望まないような地位にあったのです。」 罪を清めるいけにえとして用いられる羊の世話をしていたにもかかわらず、彼ら自身は、その汚れた仕事のゆえに儀式的に汚れているとみなされたので、神殿の門をくぐることを禁じられていました。
私が注目すべきだと思ったのは、尊敬される律法学者やラビたちが、メシアはベツレヘムで生まれると知っていたにもかかわらず(ミカ5:2)、待望のメシアに会いに行くため、東方の博士たちに同行した者が一人もいなかったようだということです。でも、結局は、それで良かったのだと思いますが。もし、彼らが博士たちに同行し、ヘロデが赤ちゃんの居場所を知ったとしたら、どうなっていたか、想像してみてください。これもまた、神が支配しておられることを示しています。彼らではなく、身分の低い羊飼いたちが、キリストの寝ておられる場所を見つけるために選ばれたのです。
羊飼いが登場する降誕物語に関連して、覚えておくと良いのは、私たちは皆、何らかの意味で羊飼いだということです。それが、自分の子どもを導くことであれ、会社で上司の立場にあることであれ、何らかの形で他の人に影響を与えているからです。羊飼いと彼らが世話していた羊は、神の愛情において特別な位置を占めており、神と私たちとの関係を象徴しています。羊飼いへの言及は、聖書全体にわたり、数多く見られます。[1] ヨハネの福音書第10章で、イエスは自らを「良い羊飼い」と呼び、ご自分の群れを守り、彼らの特別な必要を世話すると言われました。ですから、主が私たちに、イエスの誕生の場に最初に訪れたあのいにしえの羊飼いたちから学んでほしいことは、たくさんあります。私たちの生活に当てはめられることが多いのです。
羊飼いは、献身的な生活を送り、自分の安楽を犠牲にして、羊の必要を優先する人たちです。私の家の近くにも羊飼いが住んでいるのですが、どんな雨の日も寒い日も、羊の世話をするためにその人が示す忍耐力や粘り強さには、驚かされます。私たちもそのように、自分が責任を負っている人を助けることに全力を注ぐべきです。
あの最初のクリスマスの日、羊飼いたちは、彼らにメッセージを伝えるために現れた天使たちを見ました。そして、彼らは天からの啓示に従ったのです。神が私たちに語る際には、天の軍勢の合唱によってではなく、むしろ静かな細い声で「これは道だ、これに歩め」と言われるかもしれません。(イザヤ30:21) 羊飼いたちはキリストに会いに行っただけではなく、感動のあまり、出会う人々に良き知らせを伝えていました。信仰を伝えることは、羊飼いたちがしたように、自分自身がイエスに出会った時に起こったことを話すという方法が、もっともよく受け入れられるものです。羊飼いの一人は、それをこのように語ったかもしれません。
私のように羊飼いをしていたら、牧草地で興奮することなどあまりないけれど、あの夜は最高でした! まばゆく輝く天使が、どこからともなく突然、私たちの前に現れたんですよ。もしかしたらあなたは、私が羊を見ながら暑い太陽のもとにいたり、凍える夜を過ごしたりしているうちに、頭がおかしくなったと思っているんじゃないですか。まあ、そういうこともあるかもしれないけど。でも、私たちは確かに見たんです。一緒にいた人たちに聞いてみてください。みんな同じことを言うはずです。
そして、天使が・・ええっと、まず、こう言ったんです。「恐れるな。」 私は、「恐れるなだって? 恐れるどころか、完全におののいているよ・・」と思いました。それから、天使がこう続けたんです。「すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」 そして、「布にくるまっているから、探しに行きなさい」と言われました。それだけでは足りないかのように、天使の大合唱隊まで現れ、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」と歌ったんです。
天使のショーが終わると、私たちはみんな呆然と座り込んで、この出来事をいったいどう捉えたらいいのか考えながら、お互いに「どうして俺たちが選ばれたんだろう」と言いました。すると羊飼いの一人が言ったんです。「おい、座り込んでおしゃべりしている場合じゃないだろう。ベツレヘムへ行って、見てこようよ。飼い葉おけに寝かされた赤ちゃんを見つけられるんじゃないかな。餌箱にいる赤ちゃんなんて、そう多くはないだろう?」 というわけで、手分けして探してみたら、思った通り、その約束の赤ちゃんを見つけるのにさほど時間はかかりませんでした。
その時以来、私は別人に生まれ変わりました。神さまが私を選んでくれたわけですが、それまで他の誰も、私を何かに選んでくれたことなんてなかったんですよ。天使が私たちに、「すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える」と言っていたことが忘れられません。私もその民の一人なので、それには私も含まれているということになります。そして、あなたも含まれているんですよ。それが、良き知らせというやつです。ついに救世主が現れ、私たちを救いに来ました。(参照:ルカ2:8–14)
もし素朴な羊飼いたちが自分たちの信仰を伝えられたのなら、私たちにもできるはずです。キリストが私たちと共に生きるために来られた、という至福の驚きを伝えていきましょう。人が悔い改めてキリストを受け入れ、永遠の栄光に入る時、天の御使いたちがみな喜びます。(ルカ15:10, ヨハネ3:16) これが、クリスマスの最も大きな喜びなのです。