新年のチャレンジ
A New Year’s Challenge
December 31, 2019
バージニア・ブラント・バーグ
オーディオ・ダウンロード(英語) (5.9MB)
「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」—ピリピ3:13–14
新年を迎えようとしている今、何が私たちを待ち受けているのかは分かりません。唯一、私たちに分かっていることがあります。それは、私たちが過去を、その心配事や苦悩、心痛、間違いもろとも、すべて後にして進むことができるということです。たった一つの行動やたった一つの言葉でさえ、取り消すことはできませんが、私たちが後悔や悲しみを神に委ねるなら、神にはこれからの新年を喜びと美しさの一年とすることができます。聖書はこう約束しています。「神は、神を愛する者たち…と共に働いて、万事を益となるようにして下さる。」[1]—私たちの過去でさえも。
過去一年の一日一日は、私たちの力の及ばないものであり、私たちはそれを後にして進まねばなりません。過去は神の御手の内にあるので、私たちは過去にさかのぼって、後悔にさいなまれるべきではありません。自分は神を信頼していると言いつつ、過去について、つまり、過去のページにある染みや汚れについてくよくよする人がいるのは、残念なことです。
スーザン・クーリッジが、こんな文章を書いています。
過去は今、永遠の一部となり
束にまとめられて、神の手に握られている
楽しい日も、悲しい日も
それに、ひどい日も
ふたたび訪れることはなく
咲き誇った時も、しおれた時も
陽光があふれる日も
悲しみがあふれる夜も、神の手の内に[2]
いったん私たちが神に向き直り、過ちや罪を告白して赦しを求めたなら、過去をつついて、そういったことをほじくり返すべきではありません。あなたの過去の罪について、神はこう言っておられます。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」[3]
神の言葉には、「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」とあります。[4] 過去にさかのぼり、あれこれ後悔して、変えられもしないことについて嘆き悲しむよりも、慰めに満ちた、この神の約束を覚えているべきです。「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。」[5]
以前に、こんな詩を読んだことがあります。「昨日へと戻る道を見つけることさえできたなら、もっときれいなペンでそのページを書き、昨日をきれいに消し去ろう。」 私は、過去への道を見つけたいとは思いません。何も消し去ることはできないのですから。過去の過ちを覆うことができるのは神だけです。そして、私たちのためにイエスがすでに払ってくださった犠牲という観点から神が私たちを見られる時、それこそが状況を変えるものなのです。過去を思い出してそれを再び生きることは、神の方法ではありません。それに、未来は素晴らしい約束で輝いているというのに、誰がそんなことをしたいというのでしょうか。
目の前にある年について、私が考えることと言えば、神の言葉にある約束の数々であり、これからどんな素晴らしいことが起こりうるかということです。なぜなら、それらの約束は破られることがなく、私たち一人ひとりのために与えられているからです。そういった数多くの約束があるというのに、一体どうして過去に戻りたい、過去をたどりたい、「昨日へと戻る道を行きたい」と思うのでしょうか。
両手を広げたキリストの十字架が、過去への道を塞いでいます。私たちの罪に対する罰は、イエスがすでに受けてくださったので、私たちは使徒パウロのように、こう言うことができるし、またそうすべきです。「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」[6]
後ろのものを忘れましょう。前のものに、また上のものに向かい、目標と神からの賞を目指して走りましょう。砂時計の砂を逆行させることはできないし、たとえ全世界の富を持ってしても、昨日への道をたどることはできません。過去に戻ることなどできないのです。
主がそれほどの代価を払って重荷を取り除き、私たちを解放してくださったというのに、私たちが今も過去の重荷を背負っているなら、それはなんと残念なことでしょう。懐かしいあの讃美歌に見事に表現されているように、「主がそれをすべて支払ってくださいました。すべては主のおかげです。」
ある時、このことについて私が多くの聴衆に語った後、ある若い男性が私の所に来ました。彼には前科があり、刑務所を出所したばかりだったので、そんなにも簡単であること、つまり、彼が自分の悪行を告白し、イエスに心に入って彼の救い主となってくださるようお願いするだけで、神が彼の過去を清めてくださるということを、信じられませんでした。彼は、自分の犯したすべての過ちについて、ずっと話し続けました。そんなにもひどい過去を神が赦してくださるなんて、信じるのが難しかったのですが、その夜、彼は自分の心をイエスに委ね、イエスがその重荷を取り去ってくださいました。イエスは彼を赦し、彼がそれまで味わったことのない自由を与えてくださったのです。それ以来、彼は神の憐れみについて、また、神がいかに過去の苦悩を取り除いてくださったかについて、話すのを止めませんでした。そして、大好きになった讃美歌の歌詞をよく繰り返したものです。「私の過去は、罪と恥辱で満ちていたが、そんな過去は過ぎ去った。ああ、神の御名をほめよ。」
赦しの奇跡以上に素晴らしいものなど、あるでしょうか。自分の罪が赦されたという保証以上に喜ばしいものなど、あるでしょうか。イエスは私たち全員のために死なれたのであり、イエスの赦しも私たち全員のためにあります。あなたがしなければいけないのは、そのことを受け入れ、自分の罪を告白し、イエスを自分の救い主として受け入れるだけです。「神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」[7] すべての不義からです。神はその言葉をたがえることができないし、これは神の約束です。神は「言ったことで、行わないことがあろうか。」[8] これは神があなたに与えられた、破られることのない無条件の約束です。
主があなたを祝福し、また、あなたを祝福の存在として、主の奉仕において用いてくださいますように。そして、あなたに素晴らしい新年が訪れ、その魂が主イエス・キリストの優しく新鮮なあらわれを経験し、神があなたのすべての歩みを祝福してくださいますように。
ラジオ番組『Meditation Moments』を書き起こしたものを一部変更 2019年12月アンカーに掲載 朗読:イレーヌ・クイティ・ヴェラ