信仰とコンフォートゾーン
Faith and Comfort Zones
November 13, 2024
マリー・ストーリー
よく「コンフォートゾーン(居心地のいい場所)を抜け出す」と言っているのを聞きますが、私はそれが嫌いです。私は自分のコンフォートゾーンが好きなのです。新しいこと、特に、理解できないことや、上手にできるとは思えないことをするのが、好きではありません。たとえ計算されたリスクであっても、リスクを冒すというのが苦手です。なぜなら、リスクは不快だし、私を未知の領域に連れて行くからです。
けれども、最近、私はよく自分のコンフォートゾーンから押し出されるようになりました。そんな時、すぐに圧倒されるような気持ちになってしまいます。実際の仕事を怖がっているのではなく、それを考えるだけで圧倒されてしまうということです。そのプロジェクトやベンチャーの大きさについて考え始めると、怖気づき、気持ちが後ずさりしてしまうのです。
しばらく前に、友人と新しいプロジェクトのコンセプトについて話していました。そこで、彼は自分のアイデアを説明してくれたのです。彼は物事を大きく、詳しく、長期的な視点で考える人です。仕事やリスクにたじろぐような人ではありません。それどころか、彼にとっては、アイデアが大きく、既存の枠にとらわれていないほど良いのです。彼は計画を説明してくれていたのですが、私の頭は無意識の内に停止し、怖気づいて「たじたじモード」になりました。私の目はボーッとしてしまい、彼はそれに気づきました。
「どうかした?」
「あの・・・」 協力的な態度を見せようとしながらも、私は言葉がつまりました。「う~ん、良い計画だと思うんだけど、私にとって大きすぎて、圧倒されてしまうわ。」
「このアイデア自体に圧倒されているの? それとも、変化を導入するという考えが受け入れられないでいるの?」
たしかに、それは考えるべき点です(受け入れたくはありませんでしたが)。というわけで、主との時間を取り、それについて祈ってみました。そして、私は自分のコンフォートゾーンを抜け出すことに弱気で、それが人生の足かせになっていることに気づき、変化のための信仰を鍛える計画が必要だとわかったのです。以下は信仰を築く3ステップ計画です。私にとってうまくいったので、同じ状況にいるかもしれない皆さんに紹介したいと思います。
ステップ1: 信仰を養う。聖書には、信仰は神の言葉を聞くことによってもたらされる、また、私たちは成長できるよう神の言葉を慕い求めるべきである、と書かれています。(ローマ10:17; 1ペテロ2:2) 信仰を成長させたいなら、健康的な御言葉の食生活をする必要があります。私たちの体がジャンクフードばかりでは生きていけないように、たまに良い食事をしたとしても、霊的に良い食事を忠実に取っていない限り、信仰は成長せず、ましてや健康に育つことなどありません。
信仰を養うものを読みましょう。聖書は、神がくださった約束や、人生を導き、神の教えにかなった決断を下す原則を与える教えに溢れています。私たちが変わっていくうえで、神の言葉は導きを与え、この世に倣うという落とし穴に陥らないようにしてくれます。また何が善で、完全で、神に喜ばれることであるかを見極められるよう導いてくれます。(ローマ12:2) あなたの心が神の言葉や真理、約束で満たされていれば、あなたの信仰が簡単に揺らぐことはありません。
ステップ2: 信仰を強める。犠牲や苦労、困難を避けるために快適な選択肢を選んでいると、信仰は成長しません。必要なものがすべて揃い、自分一人で仕事をこなし、将来に自信が持てる時、私たちはすべての重荷を自分で背負おうとします。物事が困難で、荷を背負いきれない時こそ、私たちの信仰が強められます。イエスのもとに来て、荷を渡し、主を信頼せざるを得なくなるからです。(マタイ11:28–30)
聖書には、こうあります。「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識」や自分の力「にたよってはならない。… そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5–6) そして、「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる」ともあります。(詩篇55:22) つまり、心の負担を下ろすことです。そうすることによって、またイエスにもっと頼り、主の約束を信頼することによって、私たちの信仰は強められるのです。
ステップ3: 信仰を引き伸ばす。圧倒されるようなことでも、神があなたに求めておられるなら、一歩踏み出す準備をしましょう。 つまり、コンフォートゾーンから踏み出すのです。日々生活をする上で困難や難局は付き物なので、私たちにはそれを受け止める以外に選択肢がありません。しかし時には、神が私たちの人生に新たな機会をもたらされることがあり、たとえ結果がはっきりわからなくても、私たちは喜んで信仰を引き伸ばし、一歩踏み出して主の計画に信頼しなくてはなりません。
聖書の物語を読むと、必要に応じるため信仰を成長させなくてはならなかった困難な状況に置かれた人の話や、信仰の一歩を踏むまで神は待たれ、それから奇跡を起こされた話が多く出てきます。
例えば、イエスが弟子たちに向かって水の上を歩いてこられたとき、それは嵐の真っ只中で、舟は陸から遠く離れており、「逆風が吹いていたために、波に悩まされて」いました。イエスは風を静められたのであり、それは大きな奇跡でした。この出来事が弟子たちの信仰を強めたため、彼らは「イエスを拝して、『ほんとうに、あなたは神の子です』と言った」のです。
しかし、この話で誰もが覚えていることは、ペテロが舟から水の上へと、文字通り信仰の一歩を踏み出したところです。そうする必要はありませんでしたが、ペテロはそうしたのです。彼はこう言いました。「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください。」(マタイ14:24–33)
というわけで信仰を成長させ、強めるポイントは何でしょうか。イエスは、からし種ほどの大きさの信仰でも山を動かすことができると言われました。(マタイ17:20–21) そして時には、その小さな信仰が私たちに奮い起こせる最大限のものであり、それでも、「信ずる者には、どんな事でもできる」のです。(マルコ9:23)
神は私たち一人ひとりの人生に計画を持っておられ、一歩一歩、その計画のために私たちを備えられています。しかし、時には信仰によって一歩踏み出し、その計画に向かって手を伸ばさなければならないこともあります(事態がどう転ぶかわかっているかどうかは別として)。私たちは行動を起こし、神の御心が私たちにとって何であるかに基づいて歩み始めなくてはなりません。すべてが 「安全 」になるまで待っていると、見逃してしまうかもしれません。
ローマ人への手紙では、アブラハムの信仰の例が取り上げられています。アブラハムは、「神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」のでした。そのため、彼の信仰は「義と認められた」のです。この章では、さらに、「義と認められた」と書いてあるのはアブラハムのためだけではなく、私たちのためでもあると告げています。主イエスを死人の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。(ローマ4:20–24)
信仰の定義のひとつに、「他者の能力に対する確信や信頼 」があります。信仰は、私たち自身には能力がないことを認めることから始まりますが、それでも私たちを通して働いてくださる神の能力に信頼するゆえ、神が求めておられることを行うために、信仰によって一歩踏み出すのです。(ピリピ2:13)
私にとって、信仰を強めるにはまだまだ長い道のりがありますが、私は「圧倒される」状況の一つひとつを、信仰を鍛える機会として捉え始めています。
若者向けのキリスト教的人格形成リソース「Just1Thing」ポッドキャストより、一部変更