2人のしもべの話
A Tale of Two Servants
June 11, 2025
ニーナ・コール
聖書の時代、人々はよく苦しい生活を強いられました。戦争が盛んに起こり、王が支配し、国が征服されていたし、しもべや奴隷は珍しいことではありませんでした。聖書に出てくる有名なしもべや奴隷の話と言えば、ヨセフがいます。ヨセフは兄たちに奴隷として売られました。また捕囚の身で異国に連れて行かれ、そこの王に仕えることになったダニエルやシャデラク、メシャク、アベデネゴの話もあります。
名前が聖書に記されておらず、ただ「少女」とだけ書かれているしもべ(召使)もいます。捕らえられてイスラエルから連れてこられたこの少女は、偉大な戦士であり、アラム(シリヤ)王の軍勢の長であったナアマンの妻の召使となったのです。(列王下5:1–2) ナアマン自身は、軍勢の長として王に仕えていました。聖書では、王はナアマンの「主君」、ナアマンは王の「しもべ」と記されています。
ある日、ナアマンは自分が重い皮膚病にかかっていることを知りました。彼も家族も、きっとひどく落ち込んだことでしょう。彼らは、いずれナアマンが地域から隔離され、地位と階級を失い、家族を養えなくなるという事態に直面するのです。苦しみながら徐々に衰弱していく病気に耐えなくてはならないのは言うまでもありません。
少女は異国で捕らわれの身という立場にありましたが、神はご自分のメッセンジャーまた使者として愛を伝えさせるため、この少女を使われました。少女はナアマンの妻に、サマリヤにいる預言者エリシャならナアマンの病をいやすことができると告げました。「御主人がサマリヤにいる預言者と共におられたらよかったでしょうに。彼はその重い皮膚病をいやしたことでしょう」と言ったのです。(列王下5:3)
もちろん妻はすぐさま夫にそのことを話し、それを聞いたナアマンは王のもとに行き、少女が言ったことを告げました。アラム王はナアマンを重んじていたので、「それでは行きなさい。わたしはイスラエルの王に手紙を書きましょう」と言ったのでした。(列王下5:5)
ナアマンは金6千シケルと銀10タラントを携えていきました。それでも足らない場合を考えて、晴れ着10着も持っていきました。それは当時、かなり価値のあるものだったことでしょう。アラム王はまた、イスラエルの王に親書を送り、そこには、「わたしの家来ナアマンを、あなたにつかわしたことと御承知ください。あなたに彼の重い皮膚病をいやしていただくためです」と書かれていました。(列王下5:6)
どういうわけかイスラエル王は、祈りといやしを求められているのは預言者エリシャのことだと気づきませんでした。彼はアラム王が争いを仕掛けてきたと思い込み、苦悩のあまり衣を引き裂きました。聖書では、これはイスラエルの人々が絶望的な状況で行う行為です。王は、こう言いました。「わたしは殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。どうしてこの人は、重い皮膚病の男をわたしにつかわして、それをいやせと言うのか。」(列王下5:7) もっともな疑問です。
エリシャは、王が衣を裂いたことを聞き、人をつかわしてこう言いました。「どうしてあなたは衣を裂いたのですか。彼をわたしのもとにこさせなさい。そうすれば彼はイスラエルに預言者のあることを知るようになるでしょう。」(列王下5:8)
イスラエルの王は、この必死になってやって来た男性を送り出せる場所があって安堵したことでしょう。というわけで、エリシャに会いに行くようナアマンを送り出しました。しかし、ナアマンが馬と戦車と贈り物をもって家の入口に到着した時、エリシャは直接会う代わりに使者をつかわし、「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう」と告げました。(列王下5:9–10)
これは、軍隊の指揮官、王の寵愛を受けた偉大な人物に対する一般的な礼儀とは言えません。預言者が自ら出てきて患部に手をかざし、劇的に彼をいやさなかったことに、ナアマンは不快感と怒りを覚えました。(列王下5:11) さらに、エリシャがヨルダン川で洗うように命じたことも問題でした。ダマスコにあるアバナ川とパルパル川の方がはるかに良い川だったため、ナアマンはなぜそれらの川で洗って清められないのかと不平を言い、疑問を抱きました。(列王下5:12)
その時、ナアマンのしもべが機転を利かせ、事態を収めました。彼は賢明にもこう言ったのです。「預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか。」 ナアマンはその点について考え、健康の方が自分のプライドよりも大切だと判断しました。そして、神の人から言われたとおり、ヨルダン川に七たび身を浸しました。すると、ナアマンの体はいやされたどころか、子どもの体のようにきれいになったのです。(列王下5:13–14)
人生が変わるこの奇跡を経験した後、ナアマンの心は感謝と畏敬の念で満ち溢れました。ナアマンはエリシャのところに急いで帰り、その前に立って言いました。「わたしは今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました。それゆえ、どうぞ、しもべの贈り物を受けてください。」 神の人であるエリシャは、自分が奇跡を起こしたわけではなく、ナアマンのいやしは神からの贈り物なので、自分が金銭的な見返りを受け取ることはできないとわかっていました。そこで彼は優しく、しかしきっぱりと、贈り物は受け取らないと告げました。(列王下5:15–16)
それからナアマンは、今後他の神には燔祭も犠牲も捧げることをしないと宣言し、らば二頭に負わせることができるほどのイスラエルの土がほしいと言いました。土を求めた後、ナアマンは、主君をリンモンの宮に連れて行く時に、そこでひれ伏していいかと尋ねています。ナアマンの主君はナアマンの腕に寄りかかるので、自然と自分も一緒にひれ伏すことになってしまうからです。リンモンは偽りの神だったとわかったので、主君へのこの公務をすることで主はゆるしてくださるだろうかと疑問に思ったのでした。エリシャは「安んじて行きなさい」と告げました。(列王下5:17–19)
ナアマンのジレンマは、公務として、これからも王と共にリンモンの宮に入らなければならないことでした。これはナアマンにとって妥協のように思えましたが、神はこの状況において何が最善かを知っておられ、あのように返答するようエリシャを導かれました。おそらく神は、ナアマンが忠実なしもべとして示す模範によって、彼の主君が、イスラエルの神によるいやしの証しに対して敬意を払うようになるとご存知だったのでしょう。
このやり取りの後、ナアマンは幸せな気分で自国に向かいました。一方、エリシャのしもべゲハジはこう考えました。「主人はナアマンをいたわって、彼が携えてきた物を受け取らなかった。主は生きておられる。わたしは彼のあとを追いかけて、彼から少し物を受けよう。」
ゲハジはナアマンの後を追いました。ナアマンは彼を見て、何かあったのかと尋ねました。すると、欲張りなゲハジは、2人の若い預言者がエリシャを尋ねてきたので、彼らに銀1タラントと晴れ着を2着与えてくださいとエリシャが言っていると、話をでっち上げました。(列王下5:20–22) ナアマンはもちろん、喜んで贈り物を渡し、その上、銀は1タラントではなく2タラントを受け取ってくださいとしきりに勧めたのです。彼らが去っていくと、ゲハジは家に戻って、受け取ったものを家の中に隠しました。
そうして、まんまと贈り物をだまし取ったゲハジは、エリシャの家に戻ってきました。するとすぐ、神の人から、どこに行っていたのか尋ねられたので、彼は「どこにも行っていません」と答えました。エリシャは、ゲハジの悪事をすべて知っていること、また今は報酬を受ける時ではないことを告げました。神がナアマンのために行った奇跡の信頼性を損なうことになるからです。ゲハジは自分がしたことゆえに、神の力を金儲けに使おうとしたことや欲に対する警告として、ナアマンがいやされたのと同じ重い皮膚病にかかってしまいました。(列王下5:25–27)
これは実に興味深い話です。多くの登場人物が重要な役割を果たしましたが、その中でも何人かのしもべたちが、ナアマンがいやされる上で欠かせない存在でした。私たちは、神が自分を置かれた状況は重要でないとか、自分は取るに足らない存在なので与えられるものが少なすぎて何も変わらないと思うことがあります。しかし、私たちの見本や証しが人生を変えるほどの影響力を持つことがわかります。同様に、しもべのゲハジがしたような悪い選択は、たとえ彼が単なるしもべであっても、深刻な結果を招くことがわかります。
この話から学べるのは、神はご自身の栄光のため、そして他者を助けるために、どんな状況や立場にいる人でも使うことができるということです。もし、ナアマンの妻の召使がエリシャのことを話さなかったら、あるいは、ナアマンのしもべが、たとえどんなに愚かで馬鹿げて思えても、エリシャが言うとおりにするよう提案しなかったら、いったいどうなっていたでしょう。ナアマンは決していやされることがなかったはずです。
また、ナアマンのいやしは、神の愛と憐れみが、イスラエルの民を超えて外国人にも及んだことを示しており、これはイエスによるすべての人々への救いの贈り物の予型でした。ルカによる福音書で、イエスはナアマンの信仰といやしに触れ、「預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病にかかった多くの人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」と語っています。(ルカ4:27)
若者向けのキリスト教的人格形成リソース「Just1Thing」ポッドキャストより、一部変更