デービッド・ブラント・バーグ
聖書には、「神は愛である」[1] とあります。そして神はご自分が愛であり、私たちを愛していることを証明するために、何をされたでしょうか? 「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を」つまりあなたや私を「愛して下さった。それは御子を信じる者が、一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」[2] 神はイエスをお与えになったほどにあなたを愛して下さいました。イエスがあなたの罪のために苦しみ、本来ならあなたが受けているべきであった罰や裁きを代わりに受けるようにです。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」[3] イエスは神の愛を明らかに表してくださいました。
中には、このように尋ねる人もいます。「なぜイエスを除外できないのですか? なぜその名前を用いなければならないのです? なぜいつも、イエスを象徴としなければならないのですか? ただ『神』と言い、神のみについて語ることが、なぜできないのですか? その方が、ずっと簡単に受け入れることができるのに。イエスの名前を使うことに、それほどもこだわらない方が。」
私は大抵、「おや、なぜいけないのですか?」と答えます。主が本当に神の御子で、神がご自分とその愛を世に示すためにイエスを選ばれたのなら、神ご自身がそれにこだわっておられるということです。「わたしを愛してほしい、わたしの息子を愛してほしい!」と。これらは私たちではなく、神が定められた条件なのです。「御子を否定する者は父を持たず、御子を告白する者は、また父をも持つのである。」[4] 神は私たちがその御子を認め、愛するよう強く求められます。そしてイエスご自身もこう言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」[5]
ですから、救われるために必要なのはイエスだけです。私たちは父なる神を、理解することすらできません。神という概念は、私たちにとって壮大すぎます。天が地よりも高いように、神の道は、私たちの道よりも高く、神の思いは、私たちの思いよりも高いのです。いと高き天も神を納めることはできません。[6] 父なる神がどれだけ偉大で、驚異的で、素晴らしい方であるかを把握できる人など、一人もいません。神は人の思いやどんなに豊かな想像力をも、はるかに超えた方です。神とその霊は全宇宙よりも大きいからです。しかし、神はご自分がどんな方であるかを私たちに示すために、私たちのレベルまで身を低めて、その御子イエス・キリストを送って下さいました。
ですから、あなたにとって一番大切な神の御心とは、イエスを神の御子として認識し、自分の救い主として信じ、十字架上での死に表された神からの愛を受け入れることです。その十字架で主は、あなたがゆるされ、救われることができるよう、神の完全な律法によればあなたがその罪ゆえに受けて当然であった罰を、肩代わりして下さったのです。
なぜゆるされる必要があるのでしょう? 私たち全員が罪びとだからです。聖書にはこうあります。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」[7]、「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」[8]
ですから、私たちはまず、自分が罪びとであることを知っていると告白しなければなりません。しかし、中にはこんな風に言う人もいます。「私は善人だ。かなり良い人間だから、きっと神は自分をほめて下さるに違いない。少なくとも、他の大勢の人々に比べたら、ずっとましだから。」 いいえ、残念ながら、それでは十分ではありません。完璧でない限り、天国に行けないのですから。そして完璧な人など、誰もいません。誰もが過ちや罪を犯してきました。
イエスは、それが理由で死んで下さったのです。私たち全員が罪びとで、決して完璧になることができないからです。私たちがモーセの律法のような、神の完全な律法を守るのは、不可能なことです。誰も十戒を守ることなどできません。そんなことは、到底不可能なのです! イエスだけが完璧であられたため、私たちの罪の代価を支払うことができたし、イエスが私たちに代わって罰を受けて下さったからこそ、神が私たちをゆるすことができたのです。イエスだけが完璧な方であられたために、私たちに救いという贈り物を与えることができたのです。私たち自身の力では、決してそれを得ることができないからです。私たちは完璧になることなど、絶対にできません。常に過ちや罪を犯しているのですから。
それはちょうど、恩赦のようなものです。神は罪びとに恩赦を与えようと申し出ておられるのであり、それはあなたがどれだけ悪く、邪悪であるかや、何をしたかには関係ありません。神にとって、それは大きな違いではないのです! ただ神に罪を告白し、ゆるしを乞い、イエスを心に受け入れさえすれば、神はあなたを救って下さいます。
あなたは、自分の力で自分を引き上げることができませんでした。自分自身を救うことなど、できなかったのです。あなたはそれに十分なほど、良くなることができませんでした。それは不可能なことです! 救われるにふさわしいほど善良であったなら、あなた自身が神になってしまいます! しかし、あなたは神ではないし、私も違います。私たちは皆罪びとなのです。全員が罪を犯し、誰もが救われるために、神の愛と恵みを必要としています。そして私たちは、その愛と恵みを、イエス・キリストの内に見いだすのです。
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」[9] どんなに善人になろうと努めても、自分で自分を救うことなどできません。神の恵みと愛と憐れみによる聖なる救いという天国的な完璧さを受けるに値し、ふさわしい者となるほど、十分善良になることなどできないのです。
私たちは、自分が十分善良であったからとか、それにふさわしいからとか、それに見合う働きをしたからではなく、純粋な賜物、贈り物として救いを受け取ります。それは私たちが行なったどんな働きや、律法にもとづいた行為や、律法を守ることによっても、得られるものではありません。私たちが救いを受けるのは、神が私たちを愛して、それを与えて下さったからであり、私たちはただ、それを受け取るだけでいいのです。それは神からの贈り物なのですから。
しかし、あまりにプライドが高いために、贈り物を受け取ることのできない人が大勢います。彼らは自分が受け取るあらゆるものを、努力することで得たがるのです。しかし、どんなに何度も教会に通い、礼拝や祈りその他のあらゆるものに携わったとしても、それで救われることはできません。イエスだけに救いがあります。「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」[10] そして、「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」[11]
私たちを罪やその力とその罰から解放してくれるのは、イエスだけです。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」 「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」[12] それには、あなたが何をしたかは関係ありません。
主はありとあらゆる罪からあなたをゆるして下さいます。たった一つの罪を除いては。それはイエスを拒むことです。それは真理の霊である「聖霊をけがす」(冒涜する)[13] ことです。唯一のゆるされない罪とは、聖霊を拒み、神の声に聞き従うことを拒み、キリストの内にある神の愛や救いを拒絶することです。主はその罪が、この世でもきたるべき世でもゆるされることがないと言われます。[14]
ですから、重い罪に定められるのは、人がもともと罪深いからではありません。私たちが御子を通して神のゆるしを受け入れるなら、神は私たちをゆるすことがおできになり、実際にゆるして下さるからです。しかし、深刻な罪として裁かれるのは、イエス・キリストを拒むことです。「そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。」[15]
けれども、光、つまり「世の光」[16] である方の元へ行くなら、「キリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」のです。[17] これは、キリストとそのゆるしを受け入れる人のことです。主はこう言われます。「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。」[18]
あなたはイエスとの関係を、一から始めることができます。救い主としてイエスを受け入れる時、あなたは霊の内で「新しく生まれ」、キリストにあって「新しく造られた者」になるからです。[19] 神は、あなたの罪を雲のように吹き払い、霧のように消し、ご自身の後ろに捨て、もはやその罪を思い出すことはしない、と言っておられます。[20]
そしていったんイエスを受け入れるなら、もういなくなることはありません。主は決してあなたを見捨てられないのです! 「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」[21] イエスを持っているなら、あなたは命を、それも永遠の命を持っているのであり、永遠の命を失うことは、決してありません。肉体的な命はなくなるものですが、永遠の命はなくならないのです!
救いは永遠のものです。一度救われたなら、常に救われています。神は欺いたり、約束を破ったり、ご自分の決めたことを撤回したりはされないからです。神は心変わりされることなどありません! いったんイエス・キリストを受け入れて、心の中に招き入れたなら、またイエスを愛し、イエスのことを知り、救い主として信じているなら、あなたは神の救われた子どもであり、永遠に生きます。一度神の子として「生まれ変わった」なら、いつまでもずっと神の子でい続けるのです。
そんなにも単純なことです。ただ、神の御子イエスに、心に入って下さるよう求めることによって、救い主として受け入れさえすればいいのです。自分のあらゆる問題に対する神の答が欲しいなら、そして心と人生を喜びや新たな計画や生きる目的で満たしてくれる、神の愛と幸せが欲しいなら、たった今そうすることができます。神はそれほども素晴らしい方で、このすべては、そんなにも簡単なのです。神を試してみてはどうですか?
イエスは言われました。「わたしは門である。」 父なる神の家、つまり神の御国への門だということです。「わたしをとおってはいる者は救われるであろう。」[22] ですから、天国に行きたいなら、開かれた門であるイエスを通らなければなりません。ただ、この門を信じて、信仰によってそこを通り抜け、イエスを受け入れるだけでいいのです。そうすれば、救われます。開かれた門であるイエスを通り抜けたならば、あなたはすでに救いという天国的な領域に、神の王国に入ったのです。
デービッド・ブラント・バーグの著作物より編集。初版は1984年3月。2015年6月に改定・再版。朗読:ガブリエル・ガーシア・ヴァルディヴィエソ。
1 1 ヨハネ 4:8.
2 ヨハネ 3:16.
3 1 ヨハネ 4:9.
4 1 ヨハネ 2:23.
5 ヨハネ 14:6.
6 イザヤ 55:9; 列王上 8:27.
7 ローマ 3:23.
8 ローマ 6:23.
9 エペソ 2:8–9.
10 1 テモテ 2:5.
11 使徒 4:12.
12 1 ヨハネ 1:9, 7.
13 マルコ 3:28–29.
14 マタイ 12:32.
15 ヨハネ 3:19.
16 ヨハネ 8:12.
17 ローマ 8:1.
18 イザヤ 55:7, 1:18.
19 ヨハネ 3:3; 2 コリント 5:17.
20 イザヤ 44:22, 38:17; ヘブル 8:12.
21 ヨハネ 6:37.[新共同訳]
22 ヨハネ 10:9.