神の存在

5月 19, 2015

The Existence of God
May 19, 2015

引用文集

オーディオ所要時間: 8:58
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神は存在するのか? これは、人がする質問の中で、ほぼ間違いなく一番重要な質問でしょう。この質問への答えによって、現実や道徳、倫理、価値観や人生の決断についての見方が変わってきます。神の存在は、人生の見方、現実の解釈の仕方を左右するのです。この質問への答えは、永遠の影響を及ぼします。アメリカ人の哲学者かつ著者であるモーティマー・アドラーは、「神を肯定するか否定するかは、他のどんな基本的質問に対する答えにもまさって、考え方や行動に影響を及ぼす」と語っています。―ブライアン・オーテン

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C・S・ルイスはかつて、神というのは、「そこそこ興味がある」と言えるような存在ではないと語りました。結局のところ、神が存在しないのなら、神に関心を抱く理由など全くありません。逆に、神が存在するなら、それは最も関心を持つべきことであり、その存在とどうやって正しい関係を築くかに最大級の注意を払うべきだからです。私たちの存在そのものが、その方の存在に依存しているのですから。というわけで、肩をすくめて、「神はいるのか? いようといまいと何の違いもないさ」と言う人は、この問題についてまだあまり深く考えたことがないということです。―ウィリアム・レーン・クレイグ

神の存在について考える

常に変化し続け、ますます複雑化しコンピューター化された現代社会では、多くの人は経済的に成功しようと死にもの狂いになり、人生の意味とか、心の平和、人類愛、さらに自分の魂の永遠の幸福などといった、いわゆる「抽象的」な事柄について考える時間などほとんどありません。結局、そういったことは、この世界で一番人気のある『神』を追い求めることを妨げ、阻むことになりますから。その神とは、世界の崇拝と献身を要求する神、つまり、お金と物質的な富です。

大勢の人は子どもの頃から、人生で幸せになるには、次のものを得るしかないと教え込まれています。

1) 良い教育を受ける。願わくば、名門大学を卒業する。

2) 成功している会社・企業で有望な仕事に就く。

3) 新車や1~2軒のすてきな家を手に入れ、贅沢な家具その他を置き、成功の象徴とされるハイテク商品をそろえるに十分なお金を稼ぐ。

こうやって富を築くには、生涯、血と涙と汗のにじむような努力をしなければなりません。けれども、年月を経る内に、職場や社会的なプレッシャーのせいで、ストレスや心労がたまり、平安も満足感もないということに気づきます。結果として、私生活が害をこうむります。家族や愛する人たちと過ごす時間がなかなか十分取れないからです。

この世界や、世のあらゆる宝やはかない快楽が、人の魂を真に満たすことはありません。物質的なものは一時的な満足は与えても、魂の永遠の渇望や、永続する喜びや平和や充足感を求める人の精神を満たすことはありません。人の精神は、物質的なものを得るだけでは満たされません。

それが理由で、お金持ちや権力者の多くは、最もみじめな存在なのです。そのような人は、他の多くの人がこれがあれば満足し幸せになれると思うようなものを、すでに全部持っています。すでに、望む物はほしいだけ手に入れたのですが、悲しいことに、そういう物では空っぽの心や飢えた魂を満足させ、満たすことはないとわかったのです。

今日の多くの人は、創造主や神の存在についてほとんど考えませんが、突然、個人的な危機や悲劇に直面すると、たとえば、思いがけない事故にあうとか、生命を脅かすような病気になるとか、家族を亡くすといったことを経験すると、わかることがあります。この世界のあらゆる良きものも、この人生の楽しみも、死という扉をくぐっていった愛する人を取り戻してくれはしません。家や土地や、たくさんのぜいたく品も、冷めた愛に火を付けてはくれないし、傷ついた心をいやしてもくれません。そういう危機的な時に、人はよく、人生の真の価値は、単なる物質的な富よりもはるかに大切だと気づくのです。

「人生にはどんな意味があるのだろう? 私は何のためにこの地上にいるのか? 私のための目的や計画があるのだろうか? あるなら、何?」 人々は昔から、こういう質問に魂や想像力をかきたてられてきました。国籍や人種、信条に関係なく、私たちの心は皆、同じものを渇望します。永続する愛、真の幸せ、心の平安、真理、美しさ、意味、目的を。―デービッド・ブラント・バーグ

神の存在の証拠

神がいるなら、その存在を証明するに足る証拠を私たちに示してくれるだろうと考えるのは理にかなったことです。しかし、そのような証拠は存在するのでしょうか? 存在するとしたら、どんな類の証拠でしょうか? …物質的な結果はすべて、それに見合った、先立つ原因があってのものです。宇宙はここに存在します。知的生物も存在します。道徳も愛も存在します。それらに見合った、先立つ原因とは何でしょうか? 結果が先んじるとか、結果の方が原因にまさることはありえないので、生命の「原因」は、それ自体が道徳的で愛情深い生きた知性であるというのは筋の通ることです。聖書には、「はじめに神は…」と記されており、その「第一原因」を私たちに示してくれています。―バート・トンプソン

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究極的には、問題になっている具体的な質問は、「誰かが存在する」かどうかということです。目に見えるものの向こうに神が存在すると信じるべきでしょうか? あるいは、存在しないという結論を出すべきでしょうか? あるいは、誰にも本当のところはわからないということでしょうか? 「誰かが存在する」かどうかは、通常どのように結論付けますか? いうまでもなく、存在するかどうかを知るために一番手っ取り早い方法は、実際にその人を目で見ることです。それなら、直接的な証拠となります。法廷では、確証できる直接的な証拠は普通、かなり有力です。しかし他にも、同様に有効である、推論や推測といった方法もあります。砂に足跡があるなら、それは、誰かが少し前にそこを歩いていたというかなり有力な手がかりとなります。郵便受けにある手紙は、自分でそこに入ったわけではありません。そういったものがどこから現れたのかはあまり知らないとしても、ひとりでに現れたのではないと考えるのは賢明なことです。―アル・セラト

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神の存在について話していると、たいてい「証拠」についての議論になります。「神の存在を証明することはできない」というセリフを耳にしたことがありますが、その発言の問題点は、「証明する」という言葉には曖昧さの問題があるということです。神の存在を証明するのに数学的な証拠が要求されるなら、確かに、そういう方法で神の存在を証明することはできません。しかし、「証明する」ということが、「十分な証拠」を提供することが求められるという意味なら、神の存在は証明できます。―エリック・シャボー

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2つのものが私の心を今までないほどの驚異と畏敬の念で満たしている。私の心はより頻繁に、またより強烈に、この2つに引きつけられる。その2つとは、頭上にある星の輝く空と、心の内にある道徳律である。―イマヌエル・カント

2015年5月アンカーに掲載。朗読:デブラ・リー。

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