人格を持った神

3月 19, 2015

A Personal God
March 19, 2015

ピーター・アムステルダムとデービッド・ブラント・バーグ

オーディオ所要時間: 9:06
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神は、人格をもった、活動的な存在です。自己認識、理性的意識、自己決断力、知性、感情、知識、意志といった、個性を形成するのに必要なすべてを備えておられることによって、神が個性をもった存在であることがわかります。人間である私たちは人格があり、個性をもっています。私たちに人格があるのは、神のかたちに造られたからなのです。

人間と、地上のその他すべての生き物との違いは、私たちは神のかたちに造られ、他のものはそうではないということです。私たちには人格がありますが、他の動物にはありません。ウイリアム・レイン・クレイグが言ったように、「神が人格をもっているので、人間も人格をもった存在であり、それゆえに私たちは神との関係を持つことができる」のです。神が人格をもち、個性を持っておられるからといって、神が人間であるわけではありません。むしろ、私たち人間も神のように人格があるということなのです。

神は個人的に人類とかかわりをもたれます。それは、聖書のあちこちで見ることができます。神は人と関係を持たれました。「契約」と呼ばれる取り決め、協力関係を人類と結ばれました。聖書の至るところで、人間に語りかけておられます。こうしたことはすべて人格をもった行為です。

旧約聖書では、その民であるイスラエル民族が困っている時に、積極的に彼らにかかわられました。例えば、紅海やヨルダン川の水を分けて道を作る、食べ物と水を与える、土地を与えるなどです。神はご自身の言葉を伝えさせるためにメッセンジャーとして預言者を送り、人々がそのメッセージに従うか従わないかに応じて、報いるか、罰するかされました。旧約聖書全体を通して、神が人格ある存在として積極的にその民にかかわられたことは明らかです。

創世記を読めば、神が多くの場合においてご自身の造られた人類と人格ある存在としてかかわっておられたことがわかります。例えば、天地創造、アダムとエバに対する行動や会話、ノアやアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ個人的な契約です。神はそれからも、モーセやイスラエルの民とのやり取りを通して、ご自分が人格をもった存在であることを示されました。

神の言葉は、感情が神に帰するものであるとしています。愛、憎しみ、怒り、悔い、悲しみ、憐れみ、憤り、嫌悪、忍耐、寛容、喜び、その他の感情です。

モーセがたずねると、神はご自分の名前は「ヤハウェ」つまり「わたしは有る」だと言われました。名前があり、その名を他に知らせることは、人格あるゆえの行為です。また神には、父、さばき主(審判者)、牧者(羊飼い)、夫などといった、神を人格ある存在として描写するような称号もあります。

イエスにあってご自身を現わすことほど、神を明確に人格ある存在として示しているものはありません。イエスは、地上で生きた神であり、あらゆる面で、あらゆる行為において人格を持った存在であり、私たちが救いを受け取ることができるように自らの命を捧げられたほどでした。

私たちの神は、遠くにいる、無関心な存在ではありません。神は、人格を持ち、ご自身の造った人間と関係をもたれる方であり、その御言葉を通して、ご自身のことを私たちに知らせて下さいます。ご自身はどのような存在なのかを私たちに幾らか示して下さったのです。神は私たち個人に関心を抱いておられます。救いによって、私たちが神と永遠に暮らす道を開いて下さいました。神の御子イエスを信じることで、私たちは神の子どもとなるのであり、それによって、私たちは個人的に神にふれ、神とコミュニケーションをとり、その声を聞き、また神に心を打ち明けることができるのです。神は私たちと交わり、私たちの内に宿り、私たちのことを愛しておられます。私たちも神と交わり、神の内に宿り、神を愛します。私たちは人格をもたれる神と個人的な関係を持っています。信じられないほど素晴らしいことではありませんか!―ピーター・アムステルダム

神はそれほどにこの世を愛して下さった

世界の主要宗教の中には、人格をもった神を信じず崇拝もしないものがあります。神は代わりに、「至高の現実」、「究極の法則」、宇宙の根源にある「絶対的なもの」として考えられています。この漠然とした全能者の概念は通常、人間の特定の必要や個々の人、また状況から遠く離れた存在である神という認識です。しかし、聖書によれば、真の神は私たち一人一人のことを個人的に心から気にかけておられ、「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる」のです。[1]

また別の宗教は、自然の美しさや調和の驚くほどの素晴らしさを認め、被造物自体が神に違いないという結論を下しています。見えるものはすべて神の現れ、あるいは神の一部であるというのです。そのような見方は、実のところ、聖書に書かれていることと非常に似通っています。「彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。」[2] 神は、すべてを造られた大いなる力なので、ある意味では、広大な宇宙の銀河の数々から、微小な原子の結合力に至るまで、神はそのすべてのものの一部であり、すべてのものは神の一部です。

目に見えない創造主と、創造主が造られた目に見えるものとの密接なつながりを認めて、太陽、月、山、風、季節などの被造物そのものを崇め崇拝する宗教もあります。しかし聖書には、私たちは神ご自身を崇拝し、個人的に知り、神と生きた関係を築くことができるので、「創造者の代りに被造物を拝む」[3] 必要はないと書かれています。神は、私たちが神の手のわざ、神の素晴らしい自然の美しさ、栄光、奇跡を称賛し、それに目を見張り、驚嘆するのを喜ばれますが、その創造主である神のことは放っておいて、造られたものばかりを崇め、崇拝することは望まれません。

神は非常に大いなる方、高く、力強く、私たちの限られた理解を超えた方です。神や神の道を完全に理解し把握することは、私たちには到底できません。神は言われます。「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」[4] しかし、神は私たちのことを助け、私たちの近き友となることを切に願われたので、神の愛を示し、人として私たちと共に住まい、神ご自身はどんな方なのかを表し、示すことができる人を送られました。

神は私たちのことをとても愛しており、私たちが神から隔てられた状態に苦しむことは望まれません。神の愛がないなら、私たちの心は決して真に満足することはなく、霊的に空っぽで、生命のない状態になるでしょう。ですから、神の永遠の命と救いを私たちにもたらすために、神は2千年近く前に、ご自身の子、イエスを地上に送られました。

イエスは神の御霊によって奇跡的に宿され、マリアという若き乙女のもとにお生まれになりました。成長したイエスは、いわば、父なる神の「絵」となり、目に見えない大いなる創造主がどんな方なのかを私たちが見られるようにしてくださいました。その「絵」は愛の「絵」です。イエスは、あらゆるところに行って、良い行いをし、人々を助け、皆のための神の大いなる愛についてお教えになったのです。

とうとう、イエスは世界に救いの良き知らせを宣言するという任務を完了し、命を捧げ、残酷にも、宗教的な敵により十字架にかけられました。しかし、遺体が墓に納められて3日後、イエスは死からよみがえり、死と黄泉とを永遠に征服されたのです。聖書はこう言っています。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世(あなたや私)を愛して下さった。それは御子(イエス)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」[5]デービッド・ブラント・バーグ

それぞれ、2011年8月、1988年5月初版。
2015年5月改訂・再出版。朗読:ジェリー・パラディーノ。


1 詩篇 103:13.

2 コロサイ 1:17; ローマ 11:36; 使徒行伝 17:28.

3 ローマ 1:25.

4 イザヤ 55:9.

5 ヨハネ 3:16.

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