グッド、ベター、ベスト

11月 10, 2014

Good, Better, Best
November 10, 2014

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 7:46
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「あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。」―ルカ 14:28-30

「人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。」―詩篇 37:23-24

時間やリソースを注ぎ込むことになる決断に直面する時には、自分の下した決断を最後まで実行できるのか、また、そのやり方について、現実的に考えなければなりません。益になると思われる、とても良い事でも、それはできないという判断を下さなければならないこともあります。その時点では、とにかく取り掛かることができないからです。

主があなたのステップや優先順序を正すことができるよう、祈って主から聞くことはとても大切です。しかし、現実的に考えることも、大切なのです。「本当にこれがしたい。これは良さそう。だから、それをすることにしよう」といったものではなく、現実的に何ができるかを考えなければならないということです。パウロがローマ人への手紙の中で言っている通りです。「自分を正直に評価しなさい。神から与えられた信仰を尺度にして、自分をはかりなさい。」[1]

私たちは、仕事関係の決断で常にそれをしなければなりません。「できるなら素晴らしい」と思うことは100とあります。ただ、時間がないとか、他にするべきことがあって、そちらのほうがもっと大切だから、という理由から、誰もできる人がいないのです。

話し合い、決断を下す時に、そのことを考慮しなければなりません。そして、何かについて、今はできないという難しい決断を下さなければならない場合もあります。すごいアイデアで、役に立ち、物事を成し遂げるかもしれませんが、他にしなければならないこと、または、時間や活力やリソースを注ぎ込まなければいけないことがあるので、可能ではないのです。「ノー」と言ったり、良いアイデアやプロジェクトを見送ったりするのは、あまり好かれることではありませんが、単に、何もかもすることはできないということです。何かを削らなければなりません。少なくとも当座は。それは、悪いことではありません。

時々こう自問すべきです。「私は自分の時間を最善の方法で使っているだろうか?」 すべきことはいつでも山ほどあります。それは変わらないでしょう。大半の人にとって、完全に「追いつく」ことはないでしょう。「追いつく」ことがたとえできても、すぐに新しいことや問題やアイデアが出てくるからです。それは自然なことで、人生はそういったものです。だからこそ、このような判断や評価をしなくてはいけないのです。「自分が今していることは、限られた時間やリソースの使い方として最善だろうか? とても良いことであったとしても、最善だろうか?」

私たちは皆、「グッド(良い)、ベター(より良い)、ベスト(一番良い)」についての格言を聞いたことがあります。めまぐるしい現代において、自分の与えられた時間の中で信仰を実践し、影響をもたらすことの難しさを考えると、グッドやベターに費やす時間はあまりありません。ベストを目指したいものです。二流のことに費やす時間はほとんどありません。グッドがグッドでないとか、ベターがベターでない、というわけではないですが、私たちが目指したいのは「ベスト」なのです。

それをしていれば、もっと創造性や新しいアイデアが出てきて、以前よりも素早くゴールに到達できることでしょう。意味のある永続的な変化や進歩がもっと見られるようになるのです。

大きな成果をあげるために、多大な努力を払い、大きな投資をしなければならないこともあります。でも、それがわかっていれば、「そうだ、これは大きな投資だが、する価値のあることだ。ベストを達成する助けになるのだから」と考えることができます。多くの時間やリソースを注ぎ込むことになっても、それは目的にかなっています。ベストのことをしているのですから。けれども、いつもうまくベストを選び、それをするのに専念して行けるわけではありません。とてもグッドなことのために多大な努力を払っても、それがベストではないなら、神のベストに到達する妨げになることもあります。

鍵は、現実的であることです。十分な信仰を持つだけでなく、十分に現実的である必要があるのです。両方が必要です。神の要素は存在し、それは過小評価できません。でも、知恵や現実も大切です。両方が必要なのです。主とつながり、ベストであることに集中しなければいけません。現実的に言って、何もかもする時間はないので、グッドやベターはあきらめなければならないこともあります。将来できるようになるかもしれないし、ならないかもしれません。将来が訪れてみると、何かほかの「ベスト」が出てくるかもしれないからです。

そして、「ベスト」イコール「完璧」ではないし、「ベスト」は、公園をぶらぶら散歩するようなものではありません。つまり、困難もテストも敵の攻撃も障壁もないといったものではないのです。また、「ベスト」は、一番凝った複雑なアプローチや解決策でもありません。「できうるベストの形」で緊急のニーズを満たすというのは、時には、余分なことは抜きで、一番シンプルで基本的なやり方をすることです。

主の助けを借り、信仰の厚い人からのカウンセルその他の神の御心を知る方法を通して、見極めなければいけないのは、自分が集中すべき一番大切なことは何なのか、そのプロジェクトや問題や必要に取り組むことの目的は何なのか、そして、最もシンプルで計画的・合理的な方法によって望む結果(またはそれにできるだけ近いもの)を達成するにはどうすればいいのか、ということです。

もちろん、「シンプルで計画的・合理的」だからといって、懸命な働きはほとんど必要ないとか、あまり考えたり祈ったりせずに物事にアプローチする、というわけではありません。ただ、「グッド」や「ベター」であるものの結局は目的に反するような他のアイデアのせいで、わき道にそれてしまったり、頭でっかちになったりしないということです。なぜかというと、自分や周りの人が無理をする結果になったり、あるいは、必要以上のこと、実行できる以上のことを引き受けて、やり過ぎてしまい、一番の優先事項をなおざりにしてしまうからです。

私たちはよく、「ベストでないものに甘んじてはいけない」と言いますが、自分も含めて、私たちはどのぐらい、すべきほどにその言葉を実行しているでしょうか。私たちの一つ一つの決断や踏むべきステップにおいて主の助けや導きを求める時に、この大切な要素のことを忘れないようにしましょう。そして、こう自問するのです。「これはベストだろうか? そうでないなら、何がベストだろう? ベストのことを、どんなやり方ですべきだろうか?」

各自が持つ様々な責任をなおざりにすることなく、また、すっかり疲れ切ってしまうこともなく、現実的に一番大切なことの数々を成し遂げたいと望むなら、主のための人生や仕事においても「ベスト」を見つけなければなりません。私たちには、そうする時間しかないことでしょう。だから、私たちの決断や計画、プロジェクト、アイデア、ゴールなどを、グッド、ベター、ベストという試金石で測り、神の恵みにより「ベスト」を目指しましょう。

2009年9初版。2014年11月に改訂・再版。


1 ローマ 12:3.[ニュー・リビング訳聖書(英語)より]

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