父がわたしを遣わされたように

9月 11, 2014

As My Father Sent Me
September 11, 2014

イエスからの言葉

オーディオ所要時間: 9:05
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父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなたがたを遣わす。傷つきさまよい、痛みや苦しみや心痛や孤独を味わい、必要を抱えて切望する世界に、遣わすのだ。あなたがたがこのさまよえる孤独な世界に、わたしから受けたものを与えることができるように。わたしの愛と憐れみと理解を、それを切実に必要としている人々に注ぎ出しなさい。

あなたがたを通して、わたしに他の人々を愛させてほしい。どこにいようと、どんな状況下にあろうと、あなたが与えるべきものを必要としている人が、必ず近くにいる。受け入れる人もいれば、受け入れない人もいるだろうし、中にはあなたの証しを批判し非難する人もいるだろう。しかし、あなたがたはこれまで、相手がそれを受け入れるか拒否するかにかかわらず、わたしのメッセンジャーとなって、自らの責任を果たしてきたのだ。

わたしが彼らのために用意している愛や命や希望を受け取れるために、どうかこれ以上彼らを待たせないでほしい。わたしは彼らに永遠の命ばかりか、今ここ地上で、より豊かな人生を与えたいと願っている。愛や平安や、満足感や知恵や充足感を、さらに豊かに注ぎ出したいのだ。地上と来世の両方において、彼らの人生を変貌させたい。

わたしが与えたいと望んでいるものを、すべて受け取るチャンスを彼らに与えてほしい。たとえ彼らがあなたを通して、わたしやわたしのメッセージを受け入れなかったとしても、わが言葉は決して空しく返ることはない。[1] あなたの証しは決して無駄に終わることなく、必ず何らかの効果を生む。

あなたの友情や思いやりのこもった言葉は彼らに、わたしの愛や思いやりを明確な形で示す。わたしが永遠に渡って彼らの友になりたいと望んでいることを。それによって、頼れる友人がほとんどいない人々が抱えている、切実な必要が満たされる。あなたの思いやりや理解は、相手の心に触れる。あなたの称賛や感謝は、世の闇に輝く光だ。あなたの平安や信頼や、人生の嵐の只中において希望を失わない姿勢は、彼らが切実に求めているものだ。彼らがあなたの中に見る純粋な愛は、寒い冬の夜に、暖かい暖炉の前に座っているようなものだ。

このような体験をするなら、多くの人々はわたしをも受け入れ、わたしのことをよく知りたいと願うようになるであろうし、それは素晴らしい勝利だ。しかし、たとえそう願わなかったとしても、彼らの人生は何らかの形で触れられたのであり、それによって影響を受け、変わることだろう。本人に自覚がない場合もあるかもしれないが、彼らが変わるなら、周りの人々も変わるだろう。それは人が皆互いに影響し合って生きているからであり、誰かに良い影響を与えるなら、相手も他の人々に良い影響を及ぼし、わたしの愛の波及効果はあなたの証しをきっかけに、どんどん広がっていくからだ。

中には心をかたくなにして、メッセージを拒む人もいるだろうが、それでもあなたの証しは無駄にはならない。わたしはそのような人々の心に働きかけている。わたしは歴史を通じて、わたしを即座には受け入れなかったが、やがては信じるに至ったパウロのような人々の心に働きかけてきた。

わたしを受け入れる人については、わたしはあなたが証ししている最中やその後に、それをどんなに喜ぶことか! 彼らがわたしに心の扉を開いてくれたので、わたしたちは共に交わりを持つことができる。さまよっていたわたしの息子や娘らが今や見つかり、永遠にわたしのものになったことを、わたしは喜ぶ。これからはわが霊が彼らの人生に働きかけて、わたしがそうなると約束したような、新しく造られた者に彼らがなるのを助けることができる。[2]

だから、証しの力を決して過小評価してはいけない。あなたの周りの人々は、わたしや、わたしが与えることのできるあらゆるものや、永遠に渡って益をもたらすわたしの贈り物を、切実に必要としている!

補う要素

ほとんど誰もが、神や来世について耳にしたことがある。しかし、そのような真理の絶対性を心から確信している人々がいかに少ないかを知るなら、きっと驚くことだろう。そして、真理を知らない人々は多くの場合、この不確かな世界でひどい苦しみを味わうことになる。

あなたがわたしにしがみつかなければならなかった、あらゆる戦いのことを考えてみなさい。ほとんど押し潰されんばかりになった失望の一つ一つを、捨てがたい何かを捨てなければならなかった時のことを、四苦八苦しながら成し遂げたあらゆる困難な仕事のことを。ちょっと立ち止まって、人生で味わった苦しい経験のことを思い出してほしい。それから、わたしを知らない人々も同じような経験を通るが、彼らにはわたしに助けてもらえるという保証も、物事が最後には丸く収まるという励みになる動機も、払った犠牲ゆえに自分が報われ、報酬を受けるという約束も、何一つないことに気づいてほしいのだ。

さまよえる人々は大抵の場合、ほとんど何の慰めもないまま、人生を襲うあらゆる打撃に悩まされる。誰かがどんなにわたしを必要としていないように振る舞うか、あるいはわたしなど要らないと言ったとしても、誰も人生の試練からは逃れられない。嫌でたまらないことをしなければならなかったり、大切な人の死と向き合ったり、健康上の問題を抱えたり、悲しみに沈みこんだり、失望を味わうことから逃れられる人など、一人もいないのだ。そしてわたしを持っておらず、わたしの計画を理解していないなら、彼らはしばしば、そのような逆境や困難が、過酷な世界につきものの過酷な宿命であると結論づけるかもしれない。

この世には落胆し、孤独だったり、何かの中毒にかかっていたりする人が大勢いる。生き伸びようという意志さえあれば克服できたであろう病気によって、大勢が早すぎる死を遂げている。人というものは、将来の展望がなければダメになってしまう。そして彼らが人生を理解できるよう助けられるのは、わたしだけだ。わたしは人の存在という、一見矛盾した事実の只中にあって、それを補って余りある要素だ。

だから、わたしがいなくても問題なく生きているように見える誰かに出会って、相手に救いを受け入れるよう提案することを尻込みし、躊躇したなら、あるいは相手は救われているかもしれないけれども、数々の未解決の疑問を抱いているとしたら、ただこのことを覚えていてほしい。彼らは明らかにわたしを必要としているようには見えないかもしれないが、それでもあなたと同じ人間であり、彼らもこれまで苦しんできたし、今も苦しんでおり、今後も人生の多くの困難や逆境に苦しむであろうということを。わたしとわたしの答なしには、彼らは逆境に面するたびにますます途方に暮れ、傷つき、自分の選択に頼るようになり、苦々しい気持ちを抱き、落胆し、絶望に陥るかもしれない。

わたしを必要としている誰かに出会ったなら、あなたには彼らに、あらゆる事柄に関する納得がいく答を差し出し、将来への確かな希望や、あなたにとってそうであったように、今後は人生において、万事が共に働いて益となりうるという約束の恩恵にあずかる機会を与えるチャンスがある。それは誰もが必要としているものだ。誰もが人生の苦境に立ち向かうための答を必要としている。誰かがどんなに冷静沈着に見えたとしても、自分だけでこと足りる人など、一人もいないからだ。誰もが苦しみ、傷つき、「なぜ?」と問いかける。

さまよえる人々を愛する

わたしがあなたのために払った犠牲を、それが実際そうであるような貴重で、人生を変える贈り物であると心から信じているなら、あなたはその贈り物を、他の人々にも分け合わずにはおられないことだろう。

証ししている相手に愛を感じるかどうかは、あまり重要ではない。わたしの言葉を信じており、わたしを愛しているなら、良き知らせを分け合うことを通して、比較的小さな努力で、相手の全世界を変えることができるとわかることだろう。

愛はおもに行動で表される。「さまよえる人々を愛する」という概念を聞いて、自分は相手にそれほど愛を感じないからと、気落ちしてはいけない。わたしを必要としている人々と向き合って、友情や答といった彼らの必要を満たすために自分の役目を果し、彼らがわたしをより深く知る手助けをするなら、あなたはさまよえる人々への愛を持っているのだ。立ち上がって彼らを助けるために何かをするほど十分に、彼らを愛しているということなのだ。あなたは自分のプライドや快適ゾーンから足を踏み出して、救いや愛というわたしからの贈り物を彼らに携えていくほど十分に、彼らを愛している。わたしに言わせれば、それこそが真の愛というものだ。

2009年5月及び2007年11月初版。2014年9月に改訂・再版。朗読:サイモン・ピーターソン。


1 イザヤ 55:11.

2 2 コリント 5:17.

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