すべての慰めの神

5月 6, 2014

The God of All Comfort
May 6, 2014

引用文集

オーディオ所要時間: 12:25
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「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。」-2コリント1:3[新改訳]

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「すべての慰めの神。」 神の内には、あらゆる慰めが蓄えられています。災いを耐え忍ぶために何が必要だとしても、神にはあなたがまさに必要としている類いの慰めがあり、それを与えたいと願っておられるのです! 求めさえすれば、神がそれを与えて下さると心から確信し、信じなさい。ああ、それはこの広大な恐ろしい荒野を抜ける過程で出会う、数々の試練にうみ疲れている人たち全員を、大いに励ましてくれることでしょう! 神はすべての慰めの神です。幾らかの慰めではなく、すべての慰めなのです。これまで人に与えられたどんな慰めをあなたが必要としていようと、神はそれを備えておられ、あなたに与えて下さいます! 神の民が病気や投獄や、貧窮や絶望にあって、いかなる慰めを必要としていようと、すべての慰めの神はあなたの必要に応じて、それらを与えて下さるのです!-チャールズ・スポルジョン [1]

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恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。-イザヤ41:10

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これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。-ヨハネ16:33

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たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。-詩篇23:4

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わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。-ヨハネ14:27

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すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。-マタイ11:28–29

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神から数え切れないほどの祝福を受け、その約束に頼ってはいるものの、神ご自身をじかに知らない、という人が大勢います。そしてひとときのあいだキリストを信頼し、その愛を固く信じることの内に大いなる慰めを見いだしていただけだったものの、ついには何らかの試練の時期に、個人的な友として、主と近しい関係を結んだ人も大勢いるのです。この啓示の内に彼らは、それまでの最高の経験をもはるかに超えた、大いなる愛と憐れみと慰めという宝を見いだしました。ですから、悲しみの内に助けを求める時、私たちは決して神の賜物や、神の約束の言葉から来る慰めだけで満足すべきではありません。むしろそれらすべてを素通りして、神ご自身の御前に行き、神の愛という無限の祝福に満足を求めるべきなのです。

聖句は神をこのように描写しています。神は常に恵みや益を惜しみなく施されますが、私たちがそれらに満足することは望んでおられません。「神は悪い者の上にも良い者の上にも太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる。」 しかし、神はこの世には表さないような方法で、ご自分をその子どもたちに表したいと望まれるのです。聖書に登場する偉大な聖徒たちは、神の賜物にではなく、神ご自身の内に満足や助けを見いだしました。ですから、ダビデが「わたしには乏しいことがない」という崇高な確信を抱いていた理由は、神から賜ったものが山積みになっていたからではなく、「主は私の牧者」であったからなのです。彼の確信の理由は、将来的な必要の一切をまかなえるほど豊かな富を神から賜っていたからというわけではなく、神ご自身ゆえにだったのです。別の詩篇において作者が切に求めていたのは、単に神の恵み深さのしるしや、利益や恩恵ではなく、神ご自身でした。「わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。」 彼の渇きは、神との交わり以外のどんなものによってもいやされませんでした。神が与えることのできたであろういかに豊かな賜物や、最も甘美な祝福も、彼を満足させなかったでしょう。彼が渇き求めていたのは、生ける神ご自身だったからです。人の魂は神のために造られたので、その必要を満たすことがお出来になるのは神だけなのです。

ですから、悲しい時に心を満たしてくれる唯一の慰めは、神ご自身の内にあるのです。また、私たちの父なる神は、次のような方法によっても私たちを祝福したいと望んでおられます。すなわち、完全に信頼するよう私たちに求め、それから最も心優しく親しみのこもった方法で、ご自身を私たちに表されるのです。ホレース・ブッシュネルの死後、彼の聖書に挟まれた一枚の紙が見つかり、そこには薄い鉛筆書きで次のように書かれていました。「私の母の愛情深い性格は神から来ており、神は最初の頃、母が私に注ぐ愛の内におられた。その愛は母の愛よりも深く、より長く続いた。母は何年も前に亡くなったが、神は今も私のそばにいて下さり、子どもだった頃に母がしてくれたように、白髪となった私をそっと優しく抱きしめ、私にご自分を知らしめ、私が大いなる確信をもって、ご自分をわが父と呼べるようにして下さる。そしてそれが、私の人生の主要な喜びであり、栄光なのだ。」

たとえどんなに誠実で、尊く、神聖なものであっても、説得や議論や約束は、悩み苦しむ心を完全に静めてはくれません。地上の最も熟練した慰め手たちの教えに耳を傾けても、そしてたとえそれが神の御言葉についてであったとしても、私たちの心は依然として孤独なままです。言われたことすべてに同意して、頭では受け入れ、ある程度の休息を見いだすかもしれませんが、心の奥底では、まだ慰められていません。何かが欠けているのです。しかし、もし神の御胸にそっと近づいて、母の腕に休む疲れた子どものように、そこにぴったりと寄り添い、神の愛に包まれて、その愛に抱きしめてもらい、それが心に流れ込むに任せるなら、悲しみがどんなに深かろうと、私たちは慰められ、満足します。そして人のあらゆる喜びの源から切り離されて、すべてを失っても、私たちはなお神の内に十分な喜びを見いだすのです。

人が寄せる心からの同情には、ある種の恩恵があります。神は友人たちを送って、ご自分の愛のひとかけらを、コップ一杯の恵みを私たちに届けられるのです。しかし、真の慰め主は神お一人だけです。私たちの心を満たせるほど豊かなものは神の愛だけであり、私たちの傷を包むという熟練した技を持ち合わせているのは、神の御手だけなのです。-J・R・ミラー [2]

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あらゆる希望を失い、何もかもが失敗に終わったように思われても、夢が粉々に砕け、船が破れた帆を上げて戻ってきても、私たちにはまだイエスがおられます! そして、必要なのはイエスだけなのです!-デービッド・ブラント・バーグ

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あなたはわたしのともしびをともし、わが神、主はわたしのやみを照されます。-詩篇18:28

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あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる。―詩篇32:7

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わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。
わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。
わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。
わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。
わたしがあけぼのの翼をかって
海のはてに住んでも、
あなたのみ手はその所でわたしを導き、
あなたの右のみ手はわたしをささえられます。
「やみはわたしをおおい、
わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、
あなたには、やみも暗くはなく、
夜も昼のように輝きます。
あなたには、やみも光も異なることはありません。-詩篇139:7–12

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人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。-黙示録21:4

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最も厳しい試練の時期にあって、神の言葉は常に慰めであり、神の御霊の声は常に励ましです。-デービッド・ブラント・バーグ

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あなたの荷を主に委ねなさい。ただそれをイエスに委ね(roll over)、寝返りを打って(roll over)眠りに就き、イエスに一晩中起きていてもらうのです! それについて思い煩ったりせず、むしろ思い煩いは主にお任せしなさい! 主の肩はどんな荷も負えるほど、十分に広いのですから。主はご自身の荷を含めたすべての荷を、一手に引き受けることがお出来になるのです!-デービッド・ブラント・バーグ

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あなたの目を常にわたしに留めていなさい。空が暗たんとして風が吹きつけ、水が深く濁っていても、四方八方から波が打ち寄せてもだ。一見逃れる道がないように見えるが、わたしがあなたの脱出口だ。わたしは暗雲を追い払う陽光だ。わが声は荒れ狂う波を鎮める。わが日差しは、水を澄み渡らせる。あなたが人生という海の水面下に横たわる、驚異に満ちた壮大な光景を見ることができるように。

だから、辺り一面が暗く陰鬱な時には、あなたの永遠の陽光であるわたしに目を向けなさい。わたしはあなたの人生に明るく輝いて、荒れる海を鎮め、あなたが安らぎや安心感を見いだせるようにしてあげよう。-イエス、預言で語る

2014年5月アンカーに掲載。読み:ジョン・マーク。音楽:マイケル・ドーリー。


1 Delivered by Spurgeon at the Metropolitan Tabernacle, Newington, June 15, 1882.

2 The Ministry of Comfort (Hodder and Stoughton, 1901).

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