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神は宇宙の力です。そして、すべて生けるものの欠かせない一部です。それらが宿す生命そのものは、神の生命の一部だからです。「あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。」[1] 「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」[2] 「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。」[3]
けれども私たちは、今日別の力が宇宙に存在することを知っています。私たちの世界で活動している、聖書がサタンや悪魔と呼ぶ邪悪な力です。神はアダムとエバに善悪を選ぶ自由や、ご自分に従うか否か、またご自分の言葉を信じるか疑うかを選ぶ自由をお与えになりましたが、それと同じ理由で、サタンにも活動することを許しておられます。
悪魔やその悪が存在することを神が許されなかったとしたら、私たちは何が善かも知らなかったことでしょう。善や光以外何も知らなかったなら、それが光であるとどうしてわかるのでしょうか? 暗闇を一度も知ったことがないというのに。
私たちは神を、一人の人のように思い浮かべます。人という形を通して以外に、聖書で神をわかり易く提示する方法がないからです。けれども、神は私たちが人として思い浮かべる存在とは異なります。神は「霊」なのです。[4] これまでの歴史上で、神を見た人は一人もいません。[5] 神は至るところのすべてのものに宿られる、宇宙の力、愛の力だからです。神が人の形で表された唯一の存在は、その御子イエスです。イエスが送られた理由とは、神を人の形で表すことによって、神がどのようなお方であるかを示し、またある意味では、神がどのような本質を持っておられるのかを示すためだったのです。神は私たちに理解できるよう、人が把握し認知することのできるレベルにまで、ご自身を低められました。つまり、4次元や5次元、あるいはそれ以上のどの次元かは見当もつきませんが、そのような高次元から、私たち2次元的な人間のレベルにまで身を低めて、ご自分がどんな方であるかを示されたのです。そして私たちは、その御子イエスの内に神を見ます。
神は女の胎から生まれるという、ごく普通の人間的な方法で、イエスをこの世に送られました。神の御子は、他のすべての赤ん坊と同じように生まれてきました。私たちと同じくらい人間的で、人の性質やもろさや問題を理解できる、憐れみ深い大祭司となることができるようにです。[6] それと同時に主は、神ご自身の一部かつ御子として、私たちに神の本質を示されました。神ご自身が、イエスの体のうちに表されていたのです。その場合を除いては、私たちが神に似せて造られたこともあり、神は確かに聖書の中で人のように語り、人と似通っている面も沢山ありますが、厳密に人間的な言い方をすれば、実際の神は目に見える人ではなく、画家たちによって描かれてきたような、白髪の偉大な王でもありません。
しかし、それならば神をどう表現すればいいのでしょう? 正確に言えば私たちと異なっておられるとはいえ、人としてとらえる以外に、イエスの御父をどのように描けばいいのでしょうか? 神は全宇宙の力です。神は愛であり、愛は宇宙の原動力です。とにかく、神を人と呼ぶことはできません。人ではないのですから。神は目に見えません。その霊的な力や、作動させる数々の力を通じて以外は、触れることも感じることもできません。そして私たちは、その力を毎日のように感じています。
神は肉体を持つ人間とは違い、霊です。つまりある種の力であり、目に見えない霊的な何かなのです。聖書には非常にはっきりと、神は霊であると書かれています。「神を見た者はまだひとりもいない。神は霊である。」[7]
イエスはある意味で、神の肖像とも呼べるでしょう。神を象徴し、神の性質を表す存在なのです。主は神の御子であられるし、私たちはよく、「子は父に似る」という言い方をします。いわゆる性格と呼ばれるものによって判別でき、異なってはいるものの、あなたの子どもはある意味で、あなたの肖像や反映なのです。ある意味で神は、聖書の中でご自分を人として描いておられますが、それは私たちにご自分を理解してもらえる方法が、他に何もないからです。
神は人の姿で、アダムと共にエデンの園を歩かれました。後にアブラハムは、人の姿をした神に出会いました。[8] 神は聖書の中に人の姿で登場されますが、その体は神が人として表れなさった形にすぎません。ですから、私たちにはこのような外観や擬人化を通してしか、神や御霊を描写する方法がないのです。神がご自分のことを父と呼んでおられるので、私たちも神を父として思い描きます。
イエスは復活後の私たちと同じ体を持つ、実際の人です。それはちょうど、私たちが復活した時に持つであろうものと同じ体であり、食べたり飲んだり、私たちが今感じているのと同じものを感じることができるのです。主は神の御子であるばかりか、人でもあられるからです。神と聖霊は自らの象徴として、人の形態を取ることができます。そして聖書の中でも時折、預言者たちが見たような姿で、ご自身を表わされました。ダニエルはイエスが「日の老いたる者」のもとに導かれるのを見ました。[9] その「日の老いたる者」は、王座に座した年老いた王のように見えたことでしょう。彼がその幻で見たものは、化身や象徴だったのです。
というわけで、神はこれらの概念や外観や霊的象徴を、人がその頭で理解できるような形態に低めなければなりませんでした。私たちはそれらを、主が聖書の中でされたのと同じように描写しなければなりません。「神がこれをされた」とか、あれをされたとか、こう言われたとかああ言われたとか、アダムに現れて彼と園を歩かれたとか、アブラハムに現れたとか、何らかの象徴的な姿で誰それに現れたと言われる時、主はある意味では、ご自分をわかり易い言葉で描写されているのです。私は神学者などではありませんが、ただ主を、平均的な人間のレベルで理解できるようにしようとしているだけです。神は霊であるものの、ご自分を父と呼ばれ、実際に父親のような方です。
私たちはすべてを理解できるわけではなく、理解しがたいことも沢山あります。聖書には、天が地よりも高いように、神の道は私たちの道よりも高いし、誰が神の心を知りえるのか、とあります。[10] それは私たちの理解力を超えているのです。それでも、自分たちが誰を崇めているかはわかっていることを、神に感謝しましょう。それは唯一の真の神である方、またその御子であって唯一の救い主であるイエスです!
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あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。―イザヤ40:28
知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。―1コリント1:20
そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。-ピリピ4:7
1984年10月初版。2014年4月に改訂、再版。
朗読:ジェリー・パラディーノ。