われらの内にいますキリスト:栄光の望み

2月 24, 2014

Christ in Us: Our Hope of Glory
February 24, 2014

デービッド・ブラント・バーグ

オーディオ所要時間: 10:09
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幸せで、人の役に立って助けとなろうとし、輝いている霊を、隠すことはできません。それは同じ輝きと喜びで皆を照らします。人々はそれを見て、こう言います。「あなたの顔に明るい光が見えます。幸せそうですね。輝いていますよ。あなたはいつも微笑んでいる!」 それは本当に光を放つのです。

幸せとは、あなたが作るものです。何とか幸せになろうとか、他の人から幸せにしてもらおうと思って幸せになれるわけではないのですが、他の人に幸せを与えようと努めるなら、幸せを受け取ります。これは神の法則で、ちょうど引力のようなものです。幸せは追い求めても得られません。でも、行く先々で他の人を幸せにしようと努めるなら、幸せがあなたのところに来てくれるでしょう。それはあなたを追いかけ、追いつき、あなたを幸せにしてくれるのです。

「愛は与えてしまうまでは愛ではない」という格言があります。どういう意味だと思いますか。愛はあなたが時間をかけて他の人に与えようとするまで、本当の愛ではないのです。自分が愛をもらおうとすることは、実は愛ではなく利己心であり、ただ自分が満足することを望んでいるだけです。

落ち込んで涙を流し、悲しみに暮れている時、あなたは皆も一緒に惨めになってほしいと望みます。他の皆の同情をそそり、一緒に悲しんでほしいのです。「私がこんなに悲しんでいるのに、よく幸せになれるわね? 私が落ち込んでいるのに、なぜ陽気に振る舞えるの? ここに降りてきて、私と一緒に落ち込んでちょうだい! 私が悲しいというのに、自分は幸せになろうなんて思わないで!」 哀れなものですが、それが人間性、人間の性質というものです。しかし、たとえそんな気になれなくても、他の人の気分を引き上げ、励まし、元気づけようとするのは、神の御心にかなった霊的な性質、イエスと同じ性質です。

問題は、自分の災難を他の誰かのせいにする人が大勢いることです。そういった人は生涯を通じて行く先々で、幸せにできる誰かを探そうとするよりも、自分を幸せにしてくれる誰かを探しています。自分の問題を他の皆のせいにするという態度は、そう珍しくありません。「なぜ私が、主よ? こうなったのは、彼らのせいなんです! 私のせいではありません。あの人が悪いんです! あの人たちの責任です! 彼らが私をこんなひどい気分にさせたのですから。」 あまりに悲しくて不幸なせいで、気づいてすらいないかも知れませんが、それは自分と一緒に他の皆も引きずり下ろそうとしていることなのです。

ああ、私たちは落ち込んでいる時、何と同情を好むことでしょう。時としてそれは、私たちに最も不必要なものだというのに! 誰かがやって来て、私たちをその怠惰さや、自己憐憫や自己哀れみという無感覚状態から、目覚めさせてくれなければなりません。そうすれば、主や主の御仕事や他の人々に思いを向けて、悪臭を放つ自分自身を忘れることができるでしょう! 自分に目を向けるなら、決して勝利を得ることができません。ほかならぬ私ほど、私自身のむかつくような霊ほど、私をことごとく引き下げるものはないのです。

勝利を得ることについては、様々な教派が様々な教義を説いています。誰もが良い自己と悪い自己を持っており、勝利を得る唯一の方法は、良い自己によって悪い自己を押さえつけ、抑制することだと信じている人たちもいます。人には常に良い自己と悪い自己があり、ただ悪い自己を抑制すればよい、というこの考えは、抑制説と呼ばれています。

ホーリネス派の人たちは、根絶説を信じています。「ええ、あなたには良い自己と悪い自己があり、勝利を得る唯一の方法は、悪い自己を放逐してしまうことです。全的聖化の過程を踏みなさい。悪い自己を根絶し、癌のように切り捨ててしまうのです。そうすれば、良い自己しか残りませんから。ここにいるのは良い自分です。この良い自己こそが、真の私なのです。今や私の中には、どんな悪も残っていません。私は完全に善良で、ここにいるのは良い自分だけです。」

御霊の真の教義は、そのどちらでもありません。それらの悪い自己や誘惑や弱さを良い自己によって押さえつけ、自力で抑制することによって、勝利を得ることはありません。そんな方法では、決して勝利など得られないでしょう。そして神に悪い自分を切り捨ててもらい、良い自分だけを残してもらうことができるという考え方によっても、決して勝利を得ることはできないのです。

言わせてもらいますが、良い自己などというものはありません。あなたの自己は、そのどの部分も良くなることはできないのです! あなたの内には、良いものなど一つもありません。使徒パウロは言いました。「わたしの内には、善なるものが宿っていない。」[1]  真の勝利はあなた自身ではなく、神ご自身、主ご自身なのです。「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」[2] これは主と共に住むことを説いた教義です。

「義人はいない、ひとりもいない。すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており…」[3] あなたの方が私より善良だとか、私の方があなたより善良だとかいうわけではありません。お互いよりも善良な人というのは、イエスを除いては、誰一人いないのです。イエスだけが、善良になることのできる唯一の方であり、イエスがおられなければ、私たちは無に等しいのです! イエスなしには善良になることも、義人になることもできません。勝利を得ることも、自分の弱さを克服することもできないのです。暗闇を追い払おうとするよりも、光を内に入れなさい。イエスを迎え入れるなら、主は問題全体を解決して下さるでしょう。自分のことばかり考えるのをやめて、イエスを内にお招きし、あなたの中でキリストの命に輝いて頂きなさい。

自分でやろうとしないで、神に任せなさい! 自分ではない者に、自分が決してなれないであろう義人になろうとしてはいけません。あなたを義なる者にできるのはイエスだけです。イエスを内に入れなさい。あの古い歌のように。「心を天に向かって上げなさい。そうすれば神の栄光が入ってくる。完全にイエスのものとなりなさい。そうすれば、イエスがあなたを罪から救って下さる。心を天に向かって上げなさい。そうすれば神の栄光が入ってくる。」

「自分でやろうとしないで、神の素晴らしい御手に任せなさい。自分でやろうとしないで、御心のままに神に世話して頂くのです! 神はその御霊で満たし、夜を昼に変えられるでしょう。自分でやろうとしないで、神に任せなさい。」

私たちの誰一人として、十分に善良ではありません。イエスだけが十分に善き方なのです。そしてイエスは私たち全員のために、十分善き方であられます。ですから、光を内に招き入れなさい。そうすれば、暗闇は逃げ去るでしょう。栄光とは何でしょう? それは主の御霊です。主の霊、主の栄光、主ご自身なのです。

かつて私たちの学校では、悪霊や悪鬼や悪魔について、苦情を並べ立てる人たちがいました。「ああ、悪魔があれやこれをしたんだ。奴のせいでこんなトラブルに陥った。私が遅れたのも奴のせいだ。悪魔にはほとほと困り果てている。」 そこで私はこう言ったものです。「君の問題は悪魔ではない! 一番面倒を起こすのは、私たち自身の霊であって、悪霊ではないのだ」と。

それを他の皆や悪霊のせいにしたり、悪魔のせいにすらしてはいけません。あなたの最悪の敵は、あなた自身なのですから! 他のすべてに打ち勝てたとしても、自分の霊に打ち勝つのが最も難しく、もしそうできるとしたら、唯一の方法は、それを自分でやろうとしないで、イエスによって打ち勝って頂くことです。イエスはあなたの最高の友なのですから。

「波を見ないで、イエスに目を留めなさい。イエスに目を留めなさい、救いをもたらすのは、主への信仰だから。目をイエスに留めなさい。主の約束を要求して。目をイエスに留めなさい。主をほめよ、主は決して敗れることがない。」

というわけで、自力で成功しようと努めるのをやめてはどうでしょう。勝利を得ようと努めるのをやめなさい。ただイエスを心に迎え入れ、イエスに勝利して頂くのです。あなたの思いをイエスと、あなたの仕事とに留めなさい。他の人を助けることに思いを向けなさい。彼らの幸せを、自分の幸せ以上に追い求めなさい。真の、混じりけのない、犠牲的で利他的な愛を持ちなさい。それが愛です。それはなんとか自分が幸せになろうとしたり、他の人に幸せにしてもらおうと思うことではありません。あなたの思いをイエスに留めなさい。心からイエスを愛することができるよう、イエスに助けを求めなさい。そうすればあなたは他の人々を心から愛し、自分ことを忘れて、主のために、また、他の人々のために生きるようになるでしょう。

イエスや他の人たちのために、他の人たちを助けるために、精を出して懸命に働いてはどうでしょうか。忙しくなって、他の人を幸せにしようとした結果、主によって与えられる、御霊や主の喜びや幸せで満たされるので、自分自身を忘れ、自分の最悪の敵のことを忘れるようになります。そして、最高の友人であられるイエスにはそれができるのだから、ただイエスにお任せすればいいのだとわかるでしょう。

「この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。わたしがいま肉にあって生きているのは、神の恵みによって生きているのである。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」[4]

1985年6月初版 2014年2月改訂、再版
朗読:ブライアン・クラーク


1 ローマ 7:18.

2 ガラテヤ 2:20.

3 ローマ 3:10,23.

4 コロサイ 1:27; ガラテヤ 2:20.

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