引用文集
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あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。 —1 コリント 11:26
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「飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」とイエスは言われました。他に何と書かれているでしょうか。「主の死を告げ知らせるのである」。つまりそれは、あなたが主を愛していること、主があなたのためにして下さったことを感謝していることを示しているのです。主があなたの体と霊のためにして下さったことの記念として、またそのことへの感謝として行っているのであり、同時に、主があなたのためにして下さったことを他の人たちにも証言しています。それは感謝と証しの両方です。
主の死を語る時には、復活のことを決して忘れてはいけません。復活のためには死が必要でした。しかし、復活がなければ他のすべては無意味なのです。キリストがよみがえらなかったとしたら、「わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」のです。[1] しかし、神に感謝することに、主はよみがえられました!
イエスはどれだけの頻度で聖餐式をすべきかは言われませんでした。主は、それをするたびに主の記念となり、主を証ししていることになると言われたのです。これは主が私たちのために死なれ、私たちのいやしと健康のために体をさかれたこと、また、私たちがそれを感謝していることを表すための、短く美しい儀式です。どこか特別な場所でしなければならないとか、凝ったものでなければならないということはありません。ごく単純なものでいいのです。強制収容所にいた人たちが、パンと水や、パンとコーヒーを使ったという話を聞いたこともあります。
あなたたちがたびたび聖餐式をしているように望みます。毎晩でも、週に一度でも、月に一度でも、あるいはある人たちがしているように年に一度でも構いません。主は、「飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」と言われました。[2] ですから、それをすればするほど、あなたは証しとなっているのであり、主の記念としてそれを行っているのです。
聖餐式は、何時間もかかる、大掛かりで長たらしく、退屈な式である必要はありません。ただ、主が言われたことを覚えていて下さい。ふさわしくない人はそれにあずかってはいけません。では、どのようにすればふさわしくなれるのでしょう。ただ、救われていればいいのです。なぜなら、主こそがそれにふさわしいお方だからです。—デービッド・ブラント・バーグ
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礼拝の執行は2千年もの間、イエスが与えて下さった食事を中心として行われています。その食事自体、千年以上も前から集団的に行われていた、出エジプトを祝う過越を守る習慣でした。この習慣によって、幾世代ものユダヤ人の心と思いが、自分たちは神によって解放された民であると本能的に考えるようになったのであり、それは今もそうです。その思いは遥か昔の先祖までさかのぼり、また、未来の幾世代までも引き継がれていくのです。イエスはその食事を、ご自身の死とよみがえりを物語るものへと変えられました。そして、そこから解放されたコミュニティーとしての長い歴史の頂点へと達し、それと同様に信者たちが構成されていったのです。聖餐式にはこれ以外にも深い意味がありますが、これがその骨子となっています。
聖餐式をどう執り行うかの詳細は、当然のこと、場所や教会によってまちまちですが、パンをとり、ワインを注ぐこと、その前に祈りや告白をし、イエスに基づく何らかの物語を語る(多くの時、福音書から読む)といった行いが中心になっているのは、参加している個人とコミュニティー両方が、ゆっくりながらも確実に形成されていることを力強く物語ります。私たちは解放の物語を生きる民となりつつあります。それはイスラエルとこの世界の神の物語であり、何よりもイエスと共にある、そしてイエスの内にある、神の物語なのです。—N・T・ライト
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聖餐式とは‥‥
聖餐式とは、感謝を捧げること、証し、記念。
聖餐式とは、一人の人全体の救いを祝うこと。イエスの血による霊の救いだけでなく、イエスの体による、あなたの体の救いを祝うこと。
聖餐式とは、イエスご自身が設けられたただ一つの宗教的儀式。主はそれを最初に実践され、そのやり方を示されました。そして、主が帰って来られるまで続けるよう命じられた儀式なのです。
聖餐式とは、「ショー」。それは、主が来られるまで、主の死を「見せて」います。
聖餐式とは、コミュニケーション。
聖餐式とは、記念。私たちはすでに主の血によって救われており、ただそれを記念しているのです。私たちはすでにパンによっていやされているのであり、ただそれを思い出し、信仰によって受け止めなければならないだけなのです。
聖餐式とは、見本であり、図解。パンは主の体の図解であり、ワインは主の血の図解。
聖餐式とは、寸劇。いかにしてイエスの体を食し、イエスの血を飲むかを表しています。主の体は健康のために食し、主の血は救いのために飲むのです。
聖餐式とは、主が私たちのためにして下さったことを、自分自身と他の人たちに思い起こさせるための証し。主が私たちの体のために苦しまれ、魂のために死なれたことの証しなのです。聖餐式は証言です。それはイエスが私たちのためにして下さったことを他の人たちに証ししているのです。
聖餐式は、兄弟姉妹に対して反感を抱いている場合、その人と仲直りするのに良い機会です。このような機会に素晴らしい祈りの会をすることができ、誰かうまく行っていない人がいるなら、そこで関係を修復し、互いの肩の上で泣き合い、ごめんなさいと言い、ゆるし合い、わだかまりをすべて捨てることができます。
聖餐式は、交わりを新たにし、罪を告白し、間違いを正し、救いを主に感謝し、いやしを獲得し、団結をもたらし、私たちに対する主のすべての慈しみを証言する、良い時です。あなたが主が命じられたことをするゆえに、神はあなたを祝福されることでしょう。「もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。」[3] —デービッド・ブラント・バーグ
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「飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。だから、この簡単な図解によって、わたしは共に交わりと聖餐式と心を一つにする時を共に過ごすことができるようにした。
世界中のほとんどすべての文化において、食卓を囲むひとときとは、意味深い時、共に集う時、再会の時、交わりの時を意味する。パンを割き、ワインを飲むという、このぴったり合う図解以上に、わたしたちの心を一つにするための方法を選べただろうか。わたしは目の前に置かれたパンとワインを使って、わたしがいのちのパンであることを表した。パンはわたしたちが一つであることと、あなたがいやされるようにと、あなたのために割かれたわたしの体を象徴している。そしてワインは、あなたが生きることのできるよう流されたわたしの血を象徴している。ワインとパンはどちらもわたしの救いの象徴だ。霊の救いと体の救いである。
わたしが言ったように、あなたはこれをするたびに、わたしが帰って来るまで、わたしの死を告げ知らせている。この目に見える表し方、このちょっとした儀式によって、あなたはわたしの救いを証ししている。わたしは、あなたが集うこの時を、わたしが戻って来るまでわたしの死を告げ知らせるだけでなく、わたしの命を告げ知らせるものとして見てほしい。わたしがきたのは、あなたに命を得させ、わたしの死を通してあなたが十二分に満ち足りた人生を生きるためである。[4]
この聖餐式は、わたしがあなたのためにしたすべての大いなることを宣言する時だ。それによってあなたは、わたしの救いの力、つまり体と霊の救いを証しするのだ。これはわたしとの交わり、お互いとの交わりを新たし、間違いを告白し、わたしに感謝と甘美な賛美を捧げ、わたしのいやしの感触を自分のものとし、あなたがたの心を一つにする時だ。
だから、わたしの永遠の愛のドームの下で、わたしとの甘美な交わりによって共に新たにされるこの短い時間に、共に上を見上げて、命に満ち満ちたわたしの天国の新鮮な空気を吸い込みなさい。この時を、十字架上でのわたしの犠牲の記念とするだけでなく、わたしが戻ってくるまでわたしの命を示すための時とするように。従うべき手本をあなたに示したのだから、わたしに従ってきなさい。わたしは良き羊飼いであり、あなたの前を行く。わたしは良き羊飼いであり、あなたのために命を与える。それは、あなたがたも従ってきて、互いのために命を捨てるためである。[5]
この聖餐式の時は、わたしの愛の象徴だ。皆で集ってわたしの体にあずかり、わたしの血にあずかるこの時に、わたしの愛の贈り物を思い出し、毎日わたしの愛に生きるようにしなさい。わたしが自分自身を与えたように、あなた自身を与えなさい。わたしがあなたに命を与えたように、あなたも毎日互いに命を与え合ってほしい。話を聞いてあげなさい。手を貸してあげなさい。互いに親切をし合いなさい。心の中で祈りなさい。時にかなった言葉を語りなさい。ことさら努力して互いに助け合いなさい。兄弟が倒れた時には、身をかがめて起こしてあげなさい。
与えるのが難しい時でも与えなさい。あなたの時間を与えなさい。あなた自身を与えなさい。挫折を味わっている人には忍耐を示しなさい。わかってほしいと思っている人には思いやりを示しなさい。互いに励まし合いなさい。互いに慰め合いなさい。共に祈りなさい。かたよりみることなしに愛しなさい。[6] 愛しにくい人も愛しなさい。
わたしの愛の聖餐を祝う時には、それを決意の時としなさい。あなたのいやしの感触のためにわたしの体が割かれ、あなたが永遠の命に生まれ変わるためにわたしの血が流されたように、わたしの体と血は両方とも、あなたがわたしの愛を知り、愛の内に生き、わたしがあなたを愛したように互いに愛し合うために与えられた。
聖餐式をする時には、わたしの愛だけでなく、互いのためのあなたがたの愛も思い出し、式の後は愛の内に生きるようにしなさい。いつも心の中にわたしの愛の聖餐式を携えて、わたしが戻って来る時までわたしの命を示しなさい。それによって、互いに慰め合いなさい。
わたしがあなたを覚えているように、あなたもわたしを覚えていなさい。わたしの近くに留まっていなさい。わたしはあなたの近くにいるのだから。わたしの記念としてパンとワインにあずかる時には、わたしを信じなさい。わたしがあなたへの言葉の中で約束したすべてを行うと信じなさい。
わたしの記念として、それをしなさい。互いに愛し合い、わたしの愛の内に生きなさい。—イエス、預言で語る [7]
2014年3月アンカーに掲載。読み:ジェリー・パラディーノ音楽:マイケル・ドーリー