引用文集
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見ることによって変えられる
「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」[1]
私は、あるちょっとしたことを個人的に確信しています。イエスの御前に留まり、御言葉を深く思うことで常にその御顔を見ている人の顔に、本当に醜い顔があるはずがないということです。覚えているでしょうか、昔の預言者[モーセ]は、祈っていた時に顔が変わったと書かれています。[2]
神の御前に生き、日々主イエスと交わることは、心と魂を変えてくれます。しかし、瞑想は、狂ったように忙しいこの世代において、どうも忘れられた芸術となってしまいました。クリスマスシーズン、つまりショッピングシーズンもたけなわの今、この狂ったような忙しさにさらに拍車がかかっています。クリスマスが終わるまでは立ち止まって人生の何事も楽しむことができず、終わるとベッドになだれ込んで、ため息をつき、「ああ、よかった。全部終わった」と言うのです。なんと哀れなことでしょう! 一度ぐらい立ち止まってクリスマスを楽しんではどうなのでしょう。クリスマスの本当の意味を楽しむのです。そんなにも多くのことをしようとするのをやめて、その美を楽しむのです。
クリスマスシーズンには素晴らしいことや、見るにとても美しいものがたくさんあります。誰かの期待に応えようとしたり、人と張り合おうとしたり、幾つものプレゼントのラッピングをしたり、ぎりぎり何かに間に合わせようとしたり、山ほどのごちそうを作ろうとしたりして、クリスマスの素晴らしさのすべてを逃してしまうのは本当にもったいないことです。私たちはこの熱狂的な忙しさの中で主ご自身を見逃してしまうのです。
詩篇16篇にはこうあります。「わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。」 [3] 主は近くにおられます。主は私たちの右におられます。主は話し声が届く距離におられます。それなのに、私たちは忙しすぎて主に気づかない時や、クリスマスのショッピングで狂ったように忙しくして主がそこにおられることに気づきさえしない時には、決して主を見ることはできません。
それでは主の御声は聞こえません。それは聖なる静けさの中で、周りの色々な声のもつれを解いて主の御声を聞き取る時間が持てる時にしか、聞こえないからです。それはとても静かで小さな声なので、何かをしながら聞こえることはあまりありません。こんなことわざがあります。「嵐の夜に夜露は降りない。」 熱狂的な忙しさに囲まれた神経の高ぶった魂もまた、キリストがいますことの甘美さを見いだすことは滅多にありません。しかし、静まって主が御前に来られることを待つ魂には、天国の露と最高級の祝福が下ります。
主は今日、人でごった返すショッピングセンターで両手を広げて、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」と言っておられるのではないでしょうか。[4] 私は一度、ロサンゼルスのメイカンパニー百貨店の正面玄関で、ウィンドーに飾られたきれいなキリスト生誕シーンを見ていました。すると一人の母親と幼い女の子が急ぎ足でそこを通りがかりました。女の子はその美しさを見て、母親のスカートをつかみ、「ママ、ママ、ちょっと止まってイエス様を見ましょうよ」と大きな声で言いました。けれども母親は、まだ買い物リストが半分も終わっていないのだし、忙しくて立ち止まっている暇なんてない、と険しい声で言い放ちました。
その言葉が耳にいつまでも鳴り響きました。「ちょっと止まってイエス様を見ましょうよ。」 主の御前にとどまる。静まって、静かに礼拝して、そこにとどまるのです。私たちがもっと主のようになるまで、耳を傾け、学び続けるのです。そうやって、見ることによって変えられるのです。
威厳あるキリストとの個人的な関係なしには、人生は忙しさや動きや熱狂が続くばかりです。主だけがその平安と休息と静けさをもたらすことがおできになります。ただ、立ち止まり、主にそうしていただきさえすればいいのです。主は言われます。「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」[5] ローマ5:1にはこうあります。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。」 でも、あなたが忙しすぎて、心の中で主にそうする機会を与えないなら、それを逃すことになるでしょう。
信仰によってイエスを主として、また救い主として受け入れるなら、あなたのために豊かな人生が待っています。主なしに生きることは、この古びた世界において唯一真実で永続する喜びを放棄することになり、それは今もそして永遠に渡って、あなたの運命を封じ込めてしまいます。主を救い主として受け入れなさい。そうすれば、あなたにとって素晴らしいクリスマスになるでしょう。人生について主を信頼しなさい。そうすれば主はそれを変貌させ、がらりと変えて、あなたに永遠の命を与えて下さるでしょう。—バージニア・ブラント・バーグ
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クリスマスの「ぬくもり」を見いだす
クリスマスシーズンにあなたがどんな壁にぶち当たるのか、わたしはわかっている。あなたは特別に忙しい時期に面している。そしてこの忙しさのさなかで、あなたは心がドライになって、「クリスマスの心」はいったいどこに行ってしまったのだろうと思っている。
あなたは「ホワイトクリスマス」のような映画や、「ぬくもり」で満ちたクリスマスを描写したクリスマスストーリーを思い出す。ぬくもりはクリスマスシーズンには欠かせないもののように思えるのだ。しかし、今、あなたはそんなぬくもりなど少しも感じない。あなたはそれがあればいいのにと思う。喜びを祝うことになっている一年のこの時期に無気力になりたくないからだ。
あなたは自分を取り囲む物にクリスマスを見いだそうと必死になっている。おそらくあなたはチカチカ光るライトや、店頭のデコレーションや、クリスマスキャロルやエッグノッグなどにそれを見いだそうとしているのだろう。そしてこれらのものの一つでも揃っていないか、あなたの心にピンと来るものがないなら、クリスマスはこんなものではないという気持ちになる。その通りだ。なぜなら、あなたは間違った場所にクリスマスの心を見いだそうとしているから。
それはきらめく装飾や、クリスマスショーやイベントや遊びの興奮や中では見つからない。クリスマスの心を探しているなら、まず自分の心を見なさい。なぜなら、わたしの子どもとして、救われてわたしを知っている者として、あなたはクリスマスの心を携える者であり、メッセンジャーであり、大使だからだ。クリスマスの心をどこか外で探すよりも、内側を見なさい。なぜなら、クリスマスの心はあなたの中にあるのだから。それは、あなたの内にいるわたしなのだ。
クリスマスはそこから始まる。ツリーや家を飾り付ける以上に、自分の心を喜びと平安と寛容、慈愛、善意、信仰、柔和、自制で飾り付けるなら、人々は今まで見た内で最高で、最も赤々と輝くクリスマスツリーでもあるかのように、あなたに引き寄せられるだろう。彼らはあなたの中に、このシーズンの本当の理由である、真のクリスマスの喜びがあることに気づく。そして、わたしの愛を他の人たちに分け合うことの喜びと共に、クリスマスのぬくもりがやって来るだろう。—イエス、預言で語る
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クリスマスの平和
今は多くの人にとって、不安のある日々、将来への恐れや心配のある日々が続いています。地上の平和とともに、人の心や精神、魂にも平和が必要とされています。
毎年この時期になると、私たちは平和の君として知られている方であるイエスの誕生を祝います。イエスの生涯やメッセージ、また人類に示された手本は、イエスの人生の重要性を理解する人の心に平和をもたらします。つまり、イエスの十字架上での死とよみがえりによって、誰もがこの人生でまた永遠に渡って、内なる平和を得られるようになったと理解する人の心に。
イエスへの信仰があったとしても、この世界の混乱や動揺が少しでも緩和されるわけではないかもしれません。けれども、あなたの心には平和と安心感がもたらされ、人生の難関に立ち向かうための力が与えられることでしょう。イエスの愛と思いやり、また、永遠の命の約束に信頼するなら、先行き不安な状況にあっても安心感がもたらされるのです。—ピーター・アムステルダム、マリア・フォンテーン
2013年12月アンカーに掲載 朗読:デブラ・リー
音楽:「Christmas Moments」アルバムより、許可を得て使用