子どもとの間にいつまでも残る思い出を作ることについての言葉集
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数年前の、とりわけ気の重い、あの雨の土曜日のことを私は忘れられません。子どもたちは一日中外に出られなくて、案の定、互いに悪さをし始めました。少しばかりの平和と静けさを維持しようとして、私は子どもたちの気をそらさせたり、別々にしたり、しまいには隔離さえしました。夕食時までには、皆、ひどいムードになっていました。テーブルに着いた時にも、ぶつぶつ文句が止みませんでした。私はラジオをつけ、少し明るい雰囲気にしようと懐メロが流れている局に合わせましたが、それも無駄だったようです。
一人の子どもが厚かましくも、私の料理の腕をとても軽蔑するようなコメントをしました。要するに、自分たちが学校に行って読み書きを勉強しなければならないのなら、私も学校に行って料理を学ぶべきだというような内容でした。誰が言ったかは思い出せないのですが、皆が私の反応を待っている間、とても緊迫した雰囲気だったのは覚えています。
最初の数秒間、私の心は傷つきました。それから‥‥私は笑い出したのです。
「そうね。ママは料理はできないけど、ダンスは上手なのよ」と叫び、ラジオで流れ出したロックンロールの曲に合わせて踊り出しました。(私はどうしょうもなくダンスが下手です!) 間もなく、4人の男の子たちもキッチンの床や椅子の上など、そこらじゅうでツイストし始めました。みんなケラケラ笑っていて、私たちは曲が終わるまで一緒に踊りまくったのです。私は、みんながブロッコリを残さず食べたらアイスクリームをあげると約束し、夫は私が踊るのをやめたら皿洗いをすると約束しました。不平はいつのまにかどこかへ消えてしまい、私たちは食事を終えました。最後の一口も残さずに。
喜びとは、習得することのできるものです。それは、魂の奥底で下すことのできる、ポジティブな面、明るい面を見るという決断です。暗い面ばかり考えるのではなく、その状況の素敵な面を見るのです。‥‥
子どもたちには、少しの疑いもなく、私が子育てを楽しんでいたという思い出を持ってほしいです。‥‥私が子どもたちをほほえませた時や、共に過ごした色々な伝統行事や、ゲームや思い出を、楽しく思い出してほしいのです。—グウェンドリン・ミッチェル・ディアズ [1]
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[上の]娘たちだけとお茶の時間を過ごそうという私の素晴らしいアイデアは、さっそく初日に邪魔されてしまいました。どうやら、下の子の一人がティーパーティのうわさを耳にしてしまったようです。当然、下の子たちは自分もお茶に招かれるものと思っていました。3人だけのティーパーティは、結局子どもたち全員のティーパーティになったのです。私の計画とは多少違っていましたが、このティーパーティは私たち全員にとって特別なひとときとなりました。ブリアナはありったけの上品な声で「おいしいお茶ですこと。もう一杯いただけますか?」と言って、自分がどれだけお行儀良くできるかを見せてくれました。
男の子たちでさえ、こぞって参加しました。(男の子たちは何であっても取り残されるのが嫌です) 6人の子全員がテーブルにつき、小指を立ててお茶をいただきました。
思い出と習わしは別物です。両方が織り合わさることはありますが、習わしは継承されていき、思い出は心の中で生き続けるのです。いつの日か、私の子どもたちが、自分の子どもがお茶を飲むのを眺める時にも、遠くを見るような視線で、この小指とラズベリーリーフティーのことを思い出すのでしょうか。まるで特別な秘密でもあるかのように、その顔にほほえみが忍び寄るのでしょうか。特別な秘密、それが思い出というものです。
子どもたちは母親がプレゼントに何百ドルも使ったクリスマスを思い出すのでしょうか。それとも、覚えていることといったら、クリスマスの翌日に、母親が自分たちと一緒に雪の天使を作ったことだけなのでしょうか。
子どもたちは汚れたお皿が山積みになったキッチンを思い出すのでしょうか。それとも焼き立てのパンの香りが漂うたびに、ホームメードの全粒粉パンが出た、ありとあらゆる食事のことを思い出すのでしょうか。
子どもたちは毎週火曜日に牛ミンチを食べたことを思い出すのでしょうか。それとも、出てくる料理が全部青だった日のことを思い出すのでしょうか。私がほんの2、3才だったときのこと、母が緑のマッシュポテトを作った時のことを今でも覚えています。—テリ・キャンプ [2]
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父親と娘の間には、神が意図的に計画された特別な関係があると思うのです。神は私たちにありとあらゆる呼び名で呼ぶよう求めることもできたはずですが、私たちが神を呼ぶ時に一番よく使うのが「父」という呼び名であることも、私には納得できます。それは、私が子どもに対して抱いていた思いと同じような関係を私たちに対して願っておられるからだと思うのです。父親の仕事とは、その最善のやり方とは、両膝をついてひざまずき、子どもたちの人生へと体を寄せて、「どっちの方向に行きたいんだい?」とささやくことであると、私は思います。
神は毎日、それと同じようなアドベンチャーに私たちを招かれます。この旅は、神が旅行プランを細かく立てて私たちを送る旅ではありません。神はただ私たちを招いておられるのです。神は、ご自身が造られたこの世界の豊かさを経験するために、私たちが何を愛するように造られたのか、何が私たちの関心をとらえるのか、私たちの魂の、言い表すことのできない深い必要を満たす物は何かとたずねられます。それから私たちの方に体を寄せて、「一緒にそれをしに行こう」とささやかれるのです。—ボブ・ゴフ [3]
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親としての成功は、ベストを尽くし、すべてを与え、子どもに注ぎ出し、結果についてはわたしに信頼することから来る。
あなたが伝えた知恵は、決して無駄にならない。それは失敗には終わらない。消えはしないし、無に帰すことはない。
人生には、決して無駄にならないものがある。愛、わたしの言葉、霊的なインプット、霊的な訓練、他の人たちに手を差し伸べることに費やした時間、そして特に子どもに注ぎ込んだ時間がそうだ。
子どもに注ぎ入れることで、あなたは決して古びず、色褪せることのないものを子どもたちに与えている。それは、たとえ一時期は表面に現れることがなくても、いつまでも彼らの人生の一部となり続ける生きた贈り物だ。愛、時間、訓練、真実という贈り物は、子どもたちの人生に永遠に残る部分となり、彼らはそれを決して失うことがない。—イエス、預言で語る
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親業の毎日のお決まりの日課には、色々な問題や状況によって圧倒されそうな気持ちになることもあるでしょう。赤ちゃんは泣いていて、8才の娘は宿題をやらず、ティーンエージャーのステレオが家を振動させ、よちよち歩きの子どもはおまるに座る前におもらしをしてしまったのに、夕食のお客さんはもうすぐにでも来るといった具合です。ぎりぎり追いつめられたような気持ちになります。
どの親にもそういう日があります。そういう経験をするのは、あなたひとりではありません。もっと違った意味でも、あなたはひとりではありません。イエスがすぐそばにおられるのです。イエスは理解して下さり、励ましと解決策を持ってそこで待っておられます。夫や妻でも、友だちでも、誰か他の人と話すチャンスがあれば、別の見方をする助けになるでしょう。そして、精神が穏やかになり、主の助けを求めて共に祈るチャンスができるでしょう。子どもに、あなたのために祈るようたずねてもいいのです。たとえそれがあなたの一番下の子どもであっても、子どもたちの信仰とシンプルな祈りは素晴らしい励ましとなるでしょう。
どんなことがあっても、あきらめてはいけません。欲求不満や落胆に屈してはいけません。さっと短く祈って、その時のための力と、その場のための恵みを与えて下さるようイエスにお願いしなさい。そうすればイエスは与えて下さいます。イエスが見ておられるのと同じように子どもたちを見られるよう、子どもたちの将来が見えるよう、主にお願いしなさい。イエスはその状況を楽観的に、希望を持って見るのを助けて下さいます。周りは暗く見えるかもしれませんが、上を見れば(イエスを見上げれば)いつだって明るいのです。
子どもは親を映す鏡なので、一人であってもそれ以上であっても自分の子どもが何かの面で良くやっていないと、落胆し、失敗したような気持ちになりやすいものです。でも、彼らは神の子どもでもあり、あなたと同じように未完成品であることを忘れないで下さい。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。 」[4]
イエスが期待されるのは、ただあなたがベストを尽くし、子どもたちに愛を与え、あとは主に任せることだけです。だからといって、ただ絶望して両腕を投げ出し、神に「勝手に何とかして」もらい、状況が厳しくなったら投げ出すということではありません。主はおそらく、あなたが解決策の一部になることを意図されているでしょう。あなたは主があなたに何をしてほしいのかを知り出し、それを実行し、それから残りは主の御手に任せ、自分にできない分を主にしていただかなければならないということです。—デレック&ミッシェル・ブルックス [5]
2013年11月アンカーに掲載 朗読:デブラ・リー
音楽:マイケル・ドーリー