善を促進する力:慈善活動・人道支援活動

6月 9, 2013

Force for Good: Charitable and Humanitarian Works
June 9, 2013

ピーター・アムステルダム

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長年に渡り、皆さんの多くは慈善・人道的プロジェクトやプログラムを立ち上げており、それは地域や国で善を促進する力として皆さんの活動を推進する役割を果たしてきました。皆さんのプロジェクトは、多くの人々の人生に影響を与え、恵まれない人の人生をより良くする機会を提供し、慈善活動に貢献したいという、同じような思いを持った人たちを結集する役割を果たしています。そういった活動がなかったら手を伸ばせなかったような人に手をのばす扉が開かれてきました。地元市民と接する機会も持つことができ、彼らが今度は自分自身の国に改善をもたらし、あなたたちと共に働き、あなたたちの活動やその国における存在を何かの形で促進してきました。皆さんの多くが携わってきた慈善活動の結果、多くの良い実や進歩があったのです。

もちろん、魂の救いや、人々が神と個人的な関係を築き信仰の内に成長するのを助けることは、これからもTFIにとって極めて重要な中心的活動です。 慈善活動自体は必ずしもその目的を果たさないかもしれませんが、それでも、私たちの信仰を行動に移し、恵まれない人の霊的・実際的な人生の質を向上させることで神の愛を目に見える形で表すための、素晴らしい方法です。

昔から、慈善活動や親切な行いは、キリスト教を世界にもたらす踏み台の役目を果たしてきました。

 

私たちが真の愛を持っているなら、困難な状況を目にしながら何もしないでいることはできません。エリコに向かう道にいた哀れな人の脇をただ通り過ぎることはできないのです。サマリヤ人がしたように、私たちは行動をとらなければなりません。[1] … 思いやりは行動に移されなければなりません。それが、単なる同情(pity)と真の思いやり(compassion)との違いです。ただ同情してかわいそうに思うだけではなく、思いやりはそれについて何かをします。

私たちは、働きによって信仰を表さなければならないし、愛というものは、行動によって目に見える形で表されない限り、なかなか証明することはできないでしょう。誰かのことを愛していると言いながら、食べ物や衣類、住まいなど、その人に必要な実際面での助けを与えようとしないなら、それは愛ではありません。確かに、真の愛に対する必要は霊的な必要ではあるものの、それは、働きによって実際的な形でも表されなければならないのです。「愛によって働く信仰」です。[2]

私たちの最も大いなる愛の現れは、物資や個人的なものを分かち合うだけでなく、私たち自身や、他の人への個人的な奉仕を捧げることです。それが、私たちの信仰であり、それが、私たちの活動となり、物資を分かち合う結果になるのです。イエスは、弟子たちに与えられるような物は何ももっておらず、あったのは、イエスご自身の愛と命だけでしたが、それを彼らに、さらには私たちに与え、そうすることで、私たちも永遠の命と愛をもてるようにしようとなさいました。

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない 」からです。[3] 私たち自身や、私たちの愛や人生を分かち合うことは、分かち合いの中でも最も大いなるものであり、私たちの究極のゴールであり、その目的を達成するために現在取るべき手段だと私たちは考えています。[4]

 

TFIの主要目標(核となる目的)では、福音を分かち合うことと、他の人たちを弟子であることにおいて教え訓練することを、私たちの第一の責任かつミッションとして明記していますが、神の愛は、他の人たちの助けとなるような行動や親切な行いをするよう私たちを動かすとも信じています。大宣教命令のこの側面は、ファミリー・インターナショナル信仰声明で、次のように書かれています。「イエスは、霊的な真理を教えるだけではなく、当時の貧しい人や恵まれない人など、必要を抱えた人たちに憐れみをもって手を差し伸べるという面でも、従う者たちへの手本となりました。同様に、クリスチャンは必要を抱えた人たちを慰め、助けようとすべきであると、私たちは信じます。」

今日の世界の多くの人たちは、宗教や、自分たちが真理を持っていると主張する人について懐疑的です。ニューエイジであれ、サイエントロジーのように自己啓発的なものであれ、仏教、ヒンズー教であれ、あるいは、キリスト教信仰と共通点が沢山あるもの、ユダヤ教やイスラム教などの一神教の宗教であれ、人々は多種多様な宗教に遭遇します。現代テクノロジーにより、人々は、宇宙と人の起源や、存在の理由や、より高い存在への信仰について、様々なアプローチや説明にさらされています。懐疑的になってしまった多くの人にとっては、キリスト教もただのよくある宗教のひとつに過ぎず、彼らはそれがどう違いをもたらすのか、その目に見える証拠を見たがっています。

場合によっては、相手の心に通じる鍵となるのは、他の人たちを助ける、人々の生活を改善する、人々が彼らの可能性を発揮するのを可能にするという概念です。そういった考えが、慈善活動の根拠となる概念であり、人々がキリスト教とは何であるのかを理解するのを助ける概念です。ヤコブの手紙に書かれている通りです。「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。」 別の聖書の翻訳にはこうあります。「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」[5]

人によっては、行いを通して私たちの信仰が目に見える形で現れる時にこそ、福音に関心を抱くようになります。世界の幾つかの地域では、これが私たちの信仰を伝える数少ない方法のひとつでしょう。証しが許されない国々では、善行こそが、人々がキリスト教を理解し、ゆくゆくは私たちの信仰を受け入れる助けになることがあるのです。

しばらく前に、私はキューバでのホームチャーチ(家庭教会)運動の成長に関する記事を読みました。キューバは以前、布教活動についてあまりオープンではなかったので、家庭内の小さな教会を築くという個人的なアプローチをとることが多大なる成果につながったようです。そこには、クリスチャンがコミュニティーで行った慈善活動の重要性について興味深いコメントが載っており、それは、そのような活動が善意を生み出し、非キリスト教の宣教地においてメッセージを分かち合うのを可能にする上で果たせる役割についての良い実例となっています。

 

キューバの中心地にあるハイウエーの検問所で、そこの役人に牧師であることを話したある福音伝道指導者は、予想外に肯定的な反応を受けました。その役人は、昨年の秋のハリケーンによる被災地域に、最近救援物資を運んでくれた牧師グループに対する感謝の思いを語ったそうです。

これも、一般の人たちのクリスチャンに対する見方が変わったことを示しています。「人々は、困難な時期にもずっと私たちが信仰を堅く守っているのを見てきており、今私たちは、社会に貢献する善良な人たちとして見られるようになりました」と、東部バプテスト教会の指導者は語っています。[6]

 

慈善活動というのは、「精神的、道徳的、肉体的に、人々に益をもたらし、状況を改善し、あるいは人々を励ますことを目的とする、公益目的活動」を大まかに指すものであり、例えば、「貧困の救済、施政の改善、宗教・教育・衛生の推進などが、公益目的として挙げられる」とされています。[7] また、人道的援助活動や救援活動は一般に、「被災者の生存のためや不可欠な必要を満たすために必須とされる、人道的性格のみを有するサービスや物資の提供のための活動及び人的・物質的リソース」のことを指すと考えられています。[8]

世界各地のTFIメンバーは、数々の慈善活動や人道支援活動に携わっています。例えば、緊急救済活動、ボランティア訓練、恵まれない人のための能力開発プログラム、貧しい人のための教育プログラムや学校、環境維持開発プログラム、恵まれない人のためのコンピューター・リテラシー・プログラム、医療援助や健康支援活動、経済権限付与計画やマイクロファイナンス(低所得者が経済的に自立するのを助けるために、小規模事業の設立を支援する)、食料や支援物資の大規模な配給、刑務所の更生プログラム、HIVや麻薬に関する意識キャンペーンやサポート、予防などです。

政府や非営利団体、寄贈者は、長期ゴールを掲げてニーズに対応し続ける、あるいは、永続的な進歩や改善をもたらすことを目指す慈善プログラムや人道的プログラムに深い関心を抱いています。昔の中国のことわざの背後にある概念に少し似ています。「魚をもらった人はその時だけ食べられるが、魚のとり方を教わった人は一生食べていける。」 何かがあった時の緊急援助や、一度きりのプロジェクトも大切だし、それにはそれの役割がありますが、継続的なプログラムは、その国において永続する活動と存在の確立に役立ちます。

慈善活動というのは召しであり、そうした活動を立ち上げるように召された人にとっては、とても報われる経験であり、多くの人に出会い、証しを推し進め、自らの信仰の生きた手本となる機会も得られます。

 

最終ゴール:神の愛を分かち合う

慈善活動は、神の愛の見本と、その国の人々に対してあなたが誠実な気づかいを持っているという、目に見える手本の役割を果たすべきです。これらの活動は、心からの思いやりを映し出し、人々が理解し共感できる形で相手の心に訴える、あなたの信仰と価値観の生きた見本になる役割を果たしていなければなりません。

慈善活動は、コミュニティーに貢献し、文化間の架け橋となることの一環です。最終的に、善を促進する力として知られることによって、コミュニティーに貢献する人とみなされ、また、助けを必要とする人に貴重な奉仕を提供することで地域で役立つ人とみなされるようになっていきます。慈善活動や人道的活動は、ミッションを推進し、信仰を行動に移すのを可能にするために、主が使うことのできる手段の一つです。

 

飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。[9]

宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう。[10]

人を見て恵む者はめぐまれる、自分のパンを貧しい人に与えるからである。[11]

貧しい人をあわれむ者はさいわいである。[12]

貧しい者をあわれむ者は主に貸すのだ、その施しは主が償われる。[13]

 

2010年12月初版。2013年6月一部抜粋、再版。
朗読:サイモン・ピーターソン。


注:聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。

 

1 ルカ10:25–37を参照.

2 ガラテヤ 5:6.

3 ヨハネ 15:13.

4 1977年10月初版.

5 ヤコブ 2:17[新改訳、口語訳].

6 Jeremy Weber, “Cuba for Christ—Ahora!” Christianity Today, July 9, 2009.

7 West’s Encyclopedia of American Law, edition 2. Copyright 2008 The Gale Group, Inc. (Note: The definition of charitable purposes is derived from an old English Law, the Statute of Charitable Uses.)

8 国連国際法委員会、第60回会期、災害時の人の保護(2008) – 用語解説(リンク先は英語)

9 イザヤ 58:10[新共同訳].

10 ルカ 14:13–14.

11 箴言 22:9.

12 箴言 14:21.

13 箴言 19:17.

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