あなたは自分の人生をどのように生きたのだろうか?

7月 1, 2013

What Have You Done
with Your Life?
July 1, 2013

デービッド・ブラント・バーグ

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夕べ眠りに就く直前に、その日起こったことや、成し遂げたこと、及ばなかった点について二人で話し合っていた時、私はマリアにこう言いました。「私が最善を尽くしているといいのだが。主が望まれていることを、主の御仕事にとって最善のことをしていて、私たちの出版物が祝福になっているといいんだが。それが必ず主から来ていて、主の御心や願いに沿ったものであってほしいんだ。」

一日の終わりにその日起こったことを振り返り、その日のことや成し遂げたことについて、あるいは時には失敗してしまったことについてしばしの間思い巡らし、その日自分が神の御仕事や、神の御心や、神が自分にしてほしいと望んでおられることにおいて、本当に何らかの進歩を遂げたのかどうかを評価するのは、良いことです。

それは「主が設けられた日」[1] だったでしょうか? それはあなたが主の御心を成し遂げ、主がご自分の御心を成し遂げられた日だったでしょうか? 主がそのことを喜んでおられると確信しており、それゆえにあなたもその日起こったことや自分がしたことを喜び、それについて感謝できるような日だったでしょうか?

夜に眠りに就く時に、これらのことを考え、自分が主に従い、主を喜ばせていて、その日自分が最善を尽くし、平安の内に眠りにつけることに感謝し、満足を覚えつつ、満ち足りた安らかな眠りに就き、その日主に「忠実な僕よ、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」[2] と言ってもらえるかどうかを判断するのは、良いことです。

これは、私たち老人が、イエスが来られるあの素晴らしい新たな日の夜明けが訪れる前に、人生という日が終わりに近づき、死という夜の眠りや、自分たちの労苦からの一時的な休息を間近に控えている時に考えることと全く同じです。私たちは人生を振り返って、自分の言動を思い出し、自分は果たしてイエスのために最善を尽くしただろうかと考えるのです。

私はよく、あの古くなつかしい歌を歌ったものです。「私はイエスのために最善を尽くしただろうか。私のためにそんなにも大きな犠牲を払われた方のために。」これは、私たちが時々、自分が主のために真に最善を尽くし、主が望んでおられたことを成し遂げただろうかと考えて、人生の価値や達成事項を吟味する時についての、古い、美しい歌です。

それは本当に、主の御力や強さによって主の御心に導かれて生きた人生だったでしょうか。主の御霊や御言葉の実を結び、神の王国に永遠の魂を生み出し、小さき者たちを主の御言葉の内に教え導き、年長の人々を主の薫陶と訓戒の内に成長させ、主に仕え主のために生きるよう教えてきたでしょうか?

たずねるべき質問とは、「自分の人生をどのように生きたのか」です。それはしばしば、私が一日の終わりに横たわって眠りに就く前に、自分に問いかける質問です。それは私たちが晩年に、この人生の労苦を終えて休息する備えをしている時に、自らに問う質問です。「私は人生をどのように生きたのだろうか?」

臨死体験を味わった人の多くは、真っ暗な長い死のトンネルの終わりに輝く明るい光の中で、死と裁きの天使に出会った時に、彼らから必ずと言っていいほどたずねられるのは、「あなたは人生をどのように生きましたか?」という質問であると証言しています。

それは一日の終わりに自分に問いかけるのに良い質問です。「私は今日、人生をどのように使っただろうか? イエスのために何をしただろうか?」もう一つ、こんな古い歌もあります。

あなたはイエスのことで何をするつもりですか?
どっちつかずでいることはできません
いつの日かあなたの心が、こうたずねることでしょう
「イエスは私を用いて何をされるだろうか?」

私はイエスについて何をしてきたでしょうか、そしてイエスは私を用いて何をされるでしょうか? 私は人生で何を成し遂げたでしょうか? 私の生き方について、主はどんなことをされるでしょうか? 主への忠実な奉仕ゆえに、私はどんな報酬を受けるでしょう? 私は主を喜ばせたでしょうか? 満足させたでしょうか? イエスのために最善を尽くしたでしょうか? また、自分の失敗や至らなさや不従順ゆえに主の御心から迷い出て、十分近く主に従わず、主が私に望んでおられたことを成し遂げなかったせいで、私はどんな恥ずかしい思いをするのでしょう。

イエスはこう言われます。「あなたがたが実を豊かに結び・・・それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。」[3] 主はすべてのクリスチャンが、自分と同じような実、つまり他のクリスチャン、さらに多くのクリスチャンという実を結ぶようにと考えておられました。ちょうど果物の木を植えるようなもので、たとえばリンゴを植えるなら、リンゴが一杯実った木が育ち、ナシを植えると、ナシが一杯実った木が育ち、マンゴーを植えるなら、マンゴーで一杯の木が育ち、ココナッツを植えるなら、ココナッツで一杯の木が育つように! すべてのクリスチャンは、神の奉仕という土壌にその命を埋め、日々自分の十字架を負ってイエスに従い、さらに多くの自分と同じような、あるいは自分以上に優秀なクリスチャンという実を結ぶようにとされているのです!

イエスご自身もこう言われました。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」[4] そして私たちが出て行って、主と主の奉仕のために日々死ぬなら、私たちはさらに多くのさまよえる人々に手を伸ばして主に導く、より多くのクリスチャンという実を結ぶのです!

それは主が、私たちの人生や救いから得ることを求めておられる最低限の事柄です。主は私たちを救うために死んで下さいました。私たちもまた、他の人々のために命を与えるべきではないでしょうか? 事実、ある使徒はこう言っています。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」[5]

主は今私たち全員に、こうたずねておられます。「あなたは人生をどのように生きてきたのか?」そして、いつか私たちが裁きを受けてその質問に直面しなければならない時に、一人一人にたずねられるでしょう。「あなたは人生をどのように生きてきたのか?」と。

それは私たち一人一人に尋ねられるであろう質問、私たちが日々自問すべき質問であり、また私たちが人生の終わりにさしかかって、神に面と向かう時に神から尋ねられるであろう質問です。

「たった一つの人生、それはすぐに過ぎ去る。
ただイエスのためにしたことだけが残る。」

「決して失うことのないものを得るために、持ち続けることのできないものを捨てる人は愚かではない。」

「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。』」[6] 「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」[7] 「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」

神があなたがたを祝福し、守り、大勢にとって祝福として下さいますように。あなたは決して後悔することはないでしょう! 神は愛であり、神はあなたを愛し、最後まであなたをよく世話して下さるからです。その時あなたは主が、「良い忠実な僕よ、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」と言われるのを聞くでしょう。あなたは自分が愛し、永遠に主の御国に入るのを助けたすべての魂と共に、永遠に渡って喜ぶのです!

私はイエスのために最善を尽くしただろうか
残酷な十字架の上で死んで下さった方のために
カルバリの丘で主が払われた大いなる犠牲よ!
主は私からも最善を求めておられるに違いない

私はあまりにも多くの時間を無駄に費やし
キリストのためにほんの僅かな時間しか割かなかった
イエスへの愛が欠けていたからだ
主も悲しんでおられるのではないだろうか

私は他の人々のことを十分気にかけてきただろうか
それとも彼らをたった一人で死なせただろうか
さまよえる人を救い主へと導き
尊い命の種を蒔くことができたかもしれないのに

もうこれ以上谷にはとどまらない
私はそびえ立つ山に登ろう
この世は救い主の比類なき愛について
告げる誰かがいないせいで死にかけている

救えたはずの何人が、いまださまよっているだろう
解放できたはずの何人が、いまだ鎖につながれたままでいるだろう
私はイエスのために最善を尽くしただろうか
私のためにこんなにも大きな犠牲を払われた方のために[8]

 

1982年10月初版。2013年7月更新、再版
朗読:ブライアン・クラーク


1 詩篇 118:24.

2 マタイ 25:23.

3 ヨハネ 15:8.

4 ヨハネ 12:24.

5 1 ヨハネ 3:16.

6 マタイ 16:24.

7 マタイ 19:29.

8 By Ensign Edwin Young and Harry E. Storrs (1923).

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