引用文集
「信仰は嵐の中で育つ」(Faith grows amid storms)‥‥たったの4語に過ぎませんが、嵐を経験した人にとってはどれほど重要な意味を持つことでしょう。
神が与えられた信仰という能力を行使すると、それは目に見えないものを明らかに見えるようにします。そして、それによって不可能なことが可能になるのです。信仰は超自然的なものを扱います。
しかし、それは「嵐の中で育つ」のです。つまり、霊的環境がかき乱された時ということです。嵐は自然の力がぶつかり合うことで生じます。そして、霊の世界の嵐とは、厳しい状況とぶつかって起こるのです。
そのような環境は、信仰にとって最も肥沃な土地なのです。そのような場にあって、信仰は素早く結実に至ります。
森に囲まれた所には丈夫な木は育ちません。しかし、広々とした所にある木は、四方八方から吹き付ける風でしなり、曲がって、ついには偉大な木になります。職人が道具の材料に使いたがり、馬車を造る大工が探すのはこのような木です。
ですから、霊の世界で偉大な人を見た時にはこれを覚えていなさい。その人の側に行くためには、陽が当たり野の花が咲き乱れる道ではなく、ごつごつして、狭い、急な坂道を通らなければいけません。それは、地獄の爆風があなたの足を吹き飛ばさんがばかりの道であり、鋭い石が膚に切り傷を、突き出たトゲが額に擦り傷をつけ、有毒動物が四方から威嚇してくる道なのです。
これは悲しみと喜びの小道です。苦しみといやしの香油の小道、涙と微笑みの小道、試練と克服の小道、争いと勝利の小道、困難と危険と強烈な打撃の小道、迫害と誤解の小道、問題と苦悩の小道であり、そのすべてを通して、私たちは、私たちを愛してくださる主によって、勝ち得て余りがあるようにしていただけるのです。
「嵐の中で」。荒れ狂う雨風の中で、あなたは試練というすさまじい嵐にたじろぐかもしれません。しかし、嵐に向かって行きなさい! 神は試練の真ん中であなたを待っておられます。そして、神が囁かれる奥義により、あなたは輝く顔と不屈の信仰をもって嵐から出てくるのであり、その後は地獄の悪鬼すべてをもってしても、それを揺るがすことはできないでしょう。—E・A・キルボーン [1]
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信仰は応えられないはずがない。
その足は主なる岩の上に固く据えられ
激しい嵐の中でもびくともせず
轟く稲妻にも怖じ気づくことがない。
信仰は全能の主が祈りを聞かれたことを知っている。
そして、叫ぶ。「それは為される」と。いつか、どこかで。
まだ答えられていないのか? いや、聞き入れられなかったと言ってはいけない。
おそらくあなたの側ですべきことが終わっていないのだろう。
最初に祈った時、その作業は始まった。
そして、神はご自身の始めたことを完成に至らせられるだろう。
あなたが祈りの薫香を絶やさずにいるなら
神の栄光を見ることだろう。いつか、どこかで。
—ロバート・ブラウニング
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状況が真っ暗に見えた時期がありました。あまりに暗くて、希望を持つことさえ出来ませんでした。願いがなかなかかなわないのもつらいものですが、希望のおとずれを待つこと、将来の展望という一筋の光も見えずに、それでも断固として絶望しないこと、開き窓の向こうにあるのは夜のみで、それでも星が見える時のために窓を開けておくこと、心の中に場所を空けておき、それと同時に、何か劣るものでそこを満たさずにおくこと、それは宇宙で最も気高い忍耐です。それが、嵐のような状況にあったヨブがしたこと、モリヤ山への道を歩くアブラハムやミデヤンの砂漠にいるモーセ、またゲッセマネの園にいる人の子イエスがしたことです。—ジョージ・マセソン
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最も純粋な鉱物は最も熱い炉で抽出され、最も明るい稲妻は、最も暗い嵐の中から引き起こされます。—チャールズ・ケイレブ・コルトン
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つるは激しい嵐の間、オークの木にしっかりとしがみつきます。自然の猛威がオークの木をなぎ倒したとしても、つるはまだ、そこにぐるぐると巻き付き、しがみついています。風の吹き付ける反対側につるがあったのなら、大きなオークが守ってくれます。風の当たる側にあったのなら、嵐はただ、つるを木の幹にぴったりと押し付けるだけです。
人生の嵐でも、神はそこに介入し、私たちを守られます。しかし、私たちが嵐にさらされるのを神が許されることもあります。それによって、私たちが主にもっとぴったりと押し付けられるようにするためです。—B・M・ランダービル
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この世と友になって穏やな天候の中にいる時よりも、神が送られる嵐の中にいる時の方が、私たちは安全なのです。—ジェレミー・テイラー
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マーチン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)は晩年にこう言いました。「この世界で為されたことはすべて、希望によって為された」。息をしている限り、希望があることを、私は確かに知っています。あなたも私も人間に過ぎません。私たちは未来を見抜くことができません。代わりに、こうなるかもしれないという可能性を思い描くのです。人生がどう展開するかは、神のみがご存知です。希望は神から私たちへの贈り物であり、外を見るための窓です。神が私たちのために計画された将来を知ることはできません。神を信頼しなさい。心に希望を持ち続け為さい。そして、最悪の事態に直面した時でさえ、万全の手を尽くして最善の結果に備えなさい。
そのような苦しみの中で、どのように希望を持ち続けるのでしょう? 大災難について聞く時に私を支えてくれる一つのものは、それはいつだって、他の人間からのとてつもない気遣いを誘発するという事実です。そのような無意味な苦しみの中にあっても、人はなぜ希望を持とうというのかと思いあぐねたその時、自分を顧みない何百というボランティアたちがその地域になだれ込むのです。
最悪の時でさえ希望は姿を見せ、私たちに神の存在の証拠を与えてくれます。—ニック・ブイチチ [2]
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今、周りは困難な状況だらけですか? なぜ自分にこんなことが起こったのか、理解に苦しんでいますか? では、神があなたを愛しておられ、これらの状況があなたにとって益となるので、神がそれを許されたと受け入れるようにしてください。神があなたの人生にもたらされたものゆえに、神を賛美しなさい。
神を賛美することは、成功のまじないではありません。それは神の御言葉にしっかり裏打ちされた生き方です。私たちは期待した結果ゆえに神を賛美するのではなく、あるがままの状況ゆえに賛美するのです。
賛美は、神が私たちのために愛をこめて完璧に計画された御心の一部として、今という時を完全に、喜びを持って受け入れることに基づいています。賛美は、将来どうなるかという私たちの考えや望みに基づいてはいません。
心から神を賛美すれば、その結果何かが起こるというのは、当然、事実です。神の力は明らかにその状況に流れ、私たちはいずれ、私たち自身か、私たちの周囲の変化に気づくようになります。その変化は、かつて悲惨な状況に見えたものの中で、真の喜びと幸せを経験できるようになることかもしれないし、状況が変わるのかもしれません。けれども、それは賛美の結果であって、それが賛美の動機であってはいけません。
神は私たちのために完璧な計画をお持ちですが、私たちが現在の状況をそのご計画の一部として喜んで受け入れるまで、神は私たちを次の段階へ動かすことができません。次に何かを起こすのは神であって、私たちではないのです。—マーリン・R・キャロザース [3]
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イエスは何事についても逆の考え方をしていたように思われます。「万策尽きたとき、あなたは祝福されている。あなたが衰えれば、神が栄え、神がもっと支配される」。ユージン・ピーターソンは、八福(イエスが山上の垂訓中に説いた八つの幸福の教え)のひとつ目をそう意訳しました。
私は今まで、証し(テスティモニー)の時間になって、「私は今日、とても祝福されています。もう選択肢が何もかも尽きたからです。すべてを失い、万策尽きて、頼れるものは何もなくなりました」と言った人を、一人も知りません。私たちは、そのような人を祝福されている人だとは思わないのです。そういう人たちを、困窮している人と考えます。私たちは、すべての必要が満たされ、前途には黒雲が一切ない時に、自分は祝福されていると考えます。でも、それは間違いです!
新約聖書の著者は皆、イエスの言葉に同調しています。彼らは皆、最も困難なときに喜ぶことができる、なぜなら、私たちは万事がうまく行っている時にはイエスに関わっていただこうとはしなくとも、そのように困難なときにはイエスが問題を解決してくださるから、と告げています。主は悪い状況を喜べと言っておられるのではなく、悪い状況の最中に喜びなさいと言っておられます。主は私たちの痛みを主の栄光に変えられるからです。—ウェイン・ジェイコブセン [4]
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私たちは、なぜ神がこれをされたのか、なぜこれが起こるのを許されたのかが、いつもすぐにわかるわけではありません。場合によっては、天国に行くまでわからないこともあるでしょう。私は天国に行った時に主に尋ねたい質問が山ほどあります。今はとにかく、主に信頼しなければならないのです。
今は理解できないことがたくさんあります。時々、私たちは理解できないことを恥じさえし、自分でも完全にわかっていないことを他の人に説明しようとします。私たちは答を知っているべきだと思うのです。時には、正直になって、「私にはわかりません」と言うのが最善なこともあるのに。
この人生最大の質問の一つとは、なぜ神は一見悪いと思える物事が人々に、特に『自分』の身に起こるのを許されるのか、ということです。私たちはおそらく、天国に行くまで答をすっかり知ることはないでしょう。答の一部分は見ることができ、理由も幾らか理解できるでしょうが、天国に行って全体像を見るまでは、完全に把握することはできません。その理由を学ぶこと、それは来世になっても続く教育の一環だと思います。パウロはこう描きました。「わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」。 [5]
私たちが知っているのは、ただ神だけです! 私たちはその理由やゆえんをすべて知っているわけではありませんが、主が私たちを愛しておられ、主が最善をご存知であることは知っています。そして、今何かわからないことがあっても、後になれば理解できるようになります。それまでの間は、何があっても神を信頼しなければなりません。たとえ何かが起こる理由を理解できなくとも。もしかしたら、それが理由で、私たちに理解できない何かが起こることを許されるのかもしれません。私たちの信仰を試し、それでも神に信頼するかどうかを見るために。
何よりも大切なのは、信仰と信頼です。神に信頼する信仰です。「神が私を殺したとしても、それでも私は彼を信頼する! 私はつらい時期を経験した。その理由はわからないが、それでも神を信頼する。神はあれやこれが起こるのを許されたが、それでも私は神を信頼する! 神は私や私の愛する家族がやまいを抱えるのを許されるが、それでも私は主を信頼する」。
神は、あなたが真の信仰を持っていて、何があっても神を信頼するかどうかを、ぜひ見たいのです。一見敗北したように見えても、それでも主に信頼する時、それが最大の勝利です。あなたが負けて、敗北したように見えても、それでもヨブのように主に信頼する時、主はそれを何よりも喜ばれるでしょう。災害や苦悩にも関わらず信仰を持つこと、死の危機に瀕しても信仰を持つことをです!—デービッド・ブラント・バーグ [6]
2013年5月アンカーに掲載。朗読:サイモン・ピーターソン。
音楽:ジョン・リッスン。
1 Mrs. Charles E. Cowman. Streams in the Desert, Volume 1 (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1965).
2 Life Without Limits: Inspiration for a Ridiculously Good Life (New York: Doubleday, 2010).
3 Power in Praise (Merlin R. Carothers, 1980).
4 He Loves Me! second edition (Newbury Park, CA: Windblown Media, 2007).
5 1 コリント 13:12
6 More Than Conquerors (Aurora Production, 2002).