預言の賜物

4月 8, 2013

The Gift of Prophecy
April 8, 2013

マリア・フォンテーン

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預言を通して主から聞き、私たちの生活に主に溶け込んでいただく能力は、多くの美しい実を結ばせ、特に主との深い親密さや神の霊との近さを生じさせます。主は私たちに信仰を鼓舞し、意欲を与える言葉を預言を通して豊かに与えられ、それは私たちが主により近づくのを助けてくれます。

ファミリーの基盤である主要信条の一つは、神は今日も語り続け、預言や啓示、霊的な指導や助言など霊感された言葉を通して、そのメッセージを神の民に伝えておられるというものです。私たちが預言を活用し始めたのは、ファミリーのごく初期の頃のことです。デービッドは神の子供の初期のメンバーたちに、立ち止まって神から聞く時間を取るよう勧めました。

祈りとは、ただひざまずいて自分の言い分を言うのではなく、神にも語っていただくこと、そして、神が答えられるのを待つことです。あなたは祈りの内に入るだけでなく、御霊の内にも入らなければなりません。そうするなら、主はあなたたち一人ひとりに、何をすべきかを告げて下さるでしょう。[1]

毎日が新しい日、新しい経験であるべきです。そして、毎日新たに主の声を聞くべきです。昨日の食べ物で生きていいはずがありましょうか。毎日新鮮なものを食べてはどうなのでしょう。あなたは神から毎日聴くことができます。そして、毎日聞いているべきなのです。必ずしも声に出さなくともよいのです。耳で聞こえる声でなくても構いません。心の中で感じる、静かな小さな声でいいのです。時には、言葉でさえなく、ただ何かの印象を受けるということもあります。神は言葉でコミュニケーションする必要さえありません。何かの感情や概念を与えられることもあるのです。[2]

自分の知恵に頼ることはできません。自分の理解を基にすることはできません。聖霊の超自然的で、奇跡的で、強力な導きと指導を仰がなければならないのです。「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」[3]

だから、これらの問題は、自分の知恵や力、自分の思考や理解や理論的な考えでは全く解決できないということを覚えていて下さい。主が超自然的で奇跡的な聖霊の力によって、まぎれもない完全なる啓示、天から直接下る啓示を与え、どうすべきかを明確に示して下さるよう求めなければならないのです。[4]

神に従うことこそ、完全な信仰をもって神を尋ね求めるなら神に会うという信条を基盤にした、私たちのグループの特徴となってきました。[5] 私たちは聖書から、神は終わりの日々に神の「霊をすべての人に注」がれ、主に仕える者は男女ともに預言をすると確信しています。[6] 現代に向けられた神のメッセージを受け取ることは、私たちの信仰の礎石です。

神の約束の成就は主観的なところがあり、神秘的でさえもあり、私たちが期待する方法や解釈するような方法で果たされるかどうか、あるいは将来どのような形でいつ成就されるかを、必ずしも確実に知ることはできません。ヨハネが2000年前に終わりの時の啓示を受け取った時、それらの約束は歴史上ずっと前の時期に成就されるように指し示す部分もありました。それらがまだ成就されていないことで、クリスチャンは、これらの聖句の解釈を調整し、神がその数々の約束を神の完璧な時に完璧な方法で成就されると信頼してこなければなりませんでした。

例えばクリスチャンは、もともとイスラエル人に与えられた約束を要求することがよくあります。私たちは、それらの節を要求する信仰を持っています。というのも、それらが神の言葉であって、たとえ特定の状況のために与えられたか、あるいはまだ成就されていないとしても、様々な状況でそれを自分のものとして要求できると考えるからです。神の約束やその成就によって現わされる神の奇跡的なパワーの原則は、祈りの内に要求できる原則であることを私たちは知っています。特定の時期や状況のために与えられた約束の基となっている霊的な原則であっても、常にそこから益を受けることができます。

神の約束に関する神のご計画や御心の領域全体は私たちの理解を超えています。だからこそパウロは、「だれが、主の心を知っていたか。・・・そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」と言ったのです。[7] 神の約束が成就されるかどうか、成就されるとしたら、いつ、どのようにか、というのは、神だけがご存じです。将来、成就されることがないとも言い切れませ ん。もしかしたら、私たちが期待するのとは異なる形で、あるいは、私たちが預言を理解し、成就されるだろうと予想したのとは異なる形で成就されるのかもしれません。

主は、私たちの理解の範囲内で働かれます。ちょうど親が子どもにするように。親は、発達段階における子どものあるがままを受けとめ、子どもの能力の限界の範囲内で働きかけます。私たちが知っているのはほんの一部分だけで、私たちが預言できるのも一部分だけなのです。[8]

神は普通、私たちの信仰という枠の範囲で語られます。けれども、主が私たちの理解の枠組みの外で何かを与えたい場合、主の計画を求めて必死に主に呼ばわるなら、たとえ私たちの理解や信仰の領域を完全に越えた啓示によって示さなければならないとしても、主は確実にそうして下さると私たちは信頼することができます。同様に、主だけがご存知の理由によって、主の選ばれた時まで新しい方向に導くことはしないとお決めになるなら、それは主の権限であることを、私たちは理解する必要があります。

最終的に、神こそ私たちの人間的限界や理解よりも大いなる方だと知り、信じるところに、神の要素が働きます。神は、私たちの必死の祈りへの答えとして、私たちを導いて下さいます。たとえそれが、私たちの以前の信仰や境界を越えることを意味したとしても。

2010年8月初版。2013年4月抜粋、再版。
朗読:イレーヌ・キティ・ヴェラ


1 1971年5月 「立ち止まり、見て、聞きなさい」より

2 1978年2月 「神から聞く」より

3 箴言 3:5–6

4 1970年10月 「神ゆえに、神に従いなさい」より

5 エレミヤ 29:13

6 使徒行伝 2:17–18

7 ローマ 11:34, 33

8 1 コリント 13:9

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