マリア・フォンテーン
イエスが私たち一人ひとりに抱いておられる愛を考えると、幾つかの言葉が頭に浮かびます。完璧。無償。無条件。永遠。
主の愛は完璧です。それはこの世で唯一、絶対的に完全なものです。素敵なもの、美しいもの、素晴らしいものはたくさんありますが、主の愛のように完璧なものはありません。私たちは不完全な世界の、不完全な条件下に生きる不完全な人間ですが、主の愛によって、私たちは人生に起こるいかなる困難をも切り抜けることができるのです。主は完璧であり、主の愛も完璧です。
主の愛は無償です。これは、努力したり、稼いだり、どうにかして自分にはその価値があると証明して得るものではありません。これも嬉しいことです。なぜなら私たちは皆、罪や間違いを犯すからです。努力によってイエスの愛を獲得しなければならないとしたら、誰一人として愛されることはなかったでしょう。私たちは皆、同じような弱さや人間としての欠点を持っているからです。けれども、イエスは神からの洞察と知恵によってこれを知っておられ、何の条件もなしに私たちを愛することを選ばれました。
主の愛は永遠です。今日はここにあって、明日はなくなるというものではありません。イエスの愛は期限切れになったり消え失せたりすることはありません。盗まれたり剥奪されたりすることもありません。時と共に古びたり、時代遅れになることもありません。イエスの愛は昔からある歴史的なものですが、同時に現代的で今も通用するものです。主の愛はいつも存在します。私たちが主を知る前にすら、主は私たちを愛されました。主は時の始めから私たちを愛してこられたし、今から永遠にいたるまで私たちを愛されるのです。
主は私たちが幸せで、人生の学校において進歩を遂げている時や、周りの人たちの人生をより良くしている時にだけ、私たちを愛してくれるのではありません。主は私たちが元気な時も、落ち込んでいる時も、愛して下さいます。主は私たちが健康な時も、病気の時も、愛して下さいます。主は、私たちが主の称賛に値することをしている時も、たとえ主を悲しませるようなことをしている時も、私たちを愛して下さいます。
主の愛の大きさや、主は良い時にだけ私たちを愛するのではないことを思い出すのは良いことです。イエスが私たちの人生に働かれる方法や、主が選ばれるやり方は、しばしば私たちの理解を超えています。それは神秘的で、普通は信仰と忍耐を要します。というのは、主の予定表は、私たちのそれとは異なることがよくあるからです。クリスチャンとしての人生を生きるには、信仰と信頼が必要です。自分たちが物事を支配しているのではなく、イエスが支配しておられるからです。私たちは常に、主が最善をご存知であること、主はすべてを見事に行われること、主の優先順序はしばしば私たちのそれとは異なり、ずっと長期的で「全体像」に基づいたものであることを思い出す必要があります。
「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さる」1 「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」2「あなたがたにできない事は、何もないであろう」3など、など、ありとあらゆる素晴らしい主の約束がありますが、私たちは自分の分を果たすことはできても、采配を振るうのは自分たちではないことを覚えていなければなりません。現在、過去、未来を一望して、永遠に渡るマスタープランを見ることができるのは私たちではありません。私たちはイエスを何とかせねばならない立場に置くことはできるし、主が与えてくださった霊の力を思いのままに利用することはできますが、最終的に為されるべきなのは主のみ心です。イエスが支配しておられるのであり、イエスが最善をご存知です。
主と主のまったき愛を単純に信頼するという態度を保つことはとても大切です。そうでなければ、物事が望み通りに行かなかったり、祈った通りにならなかった時に、とても多くの疑問で葛藤することになるでしょう。
このテーマについては、聖書をはじめ、過去2000年間に書かれた信仰の人々による書き物にも、とても多くが書かれています。時折、手を休めて、なぜイエスがそのような方法をとられるのか、なぜ物事は常に私たちの望み通りに行くとは限らないのか、なぜ祈りは私たちが望んだ通りの形で答えられないのか、なぜ人生は私たちがそうあるべきだと思うよりも困難なのか、そういった理由を深く考えてみるのも良いことでしょう。
信仰を強めないなら、人生は何の理由もない、とても辛いものに思えることがあります。そうなると、それは自分のせいで、自分が何か間違ったことをしているはずだ、イエスは自分のことを不満に思っておられるはずだ、なぜならイエスはすべての祈りに対して、自分が望んだ通りに答えて下さっていないからとか、もしかしたら主が与えられた約束は、実際は「宣伝通り」には行かないのではないかと思い始めるかもしれません。
けれども、神の言葉を学習すればするほど、あなたの信仰は育っていきます。4 そしていずれ、なぜ神が祈りに答えられないように見えることがあるのか、といった、昔からよくある質問への説明や約束が見つかるでしょう。でも、実際、困難や試練で一杯で、時には祈りが答えられていないように思えるこの人生は、これからも信仰のテストとなり続けるでしょう。それは、私たちが天国に行く時まで続くのです。
困難な状況にいる時や、物事が望み通りに行っていないと思う時、祈りがかなえられていないと思う時、人生の試練に耐えきれないと感じる時、戦いが長く続きすぎると思う時、信仰が攻撃されていると思う時、疲れ果て、もうこれ以上耐えられるかどうかわからない時には、神が数多くの約束や励みになる言葉によってあなたの信仰のために与えて下さった、岩のように堅固な土台の上に昇りましょう。そして、その安全な場所で安らぎましょう。
そしてまた、この戦いを経験しているのは自分だけではないことを思い出して、元気を出しましょう。これは歴史上すべてのクリスチャンが経験した戦いであり、答は今も昔も同じです。神と、神の素晴らしい道に信頼するのです。頭で考え抜いて答を出すことはできません。そうではなく、御言葉を励みとし、イエスはすべてをその御手に把握しておられることを知って慰めとし、くつろぎましょう。イエスの御腕で安らぎ、イエスに守り支えていただきましょう。そうすれば、神の御旨の時に嵐は過ぎ去ります。
2013年3月アンカーに掲載。朗読:イレーン・キティ・ヴェラ。
音楽:ダニエル・ソッジ 。