日々死ぬこと

8月 6, 2012

Die Daily
August 6, 2012

「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。」1
デービッド・ブラント・バーグ

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あなたはどんなビジョンを持っていますか? 何に信仰がありますか? あなた自身、来年ではなく今年、神にどんなことをしていただきたいと思っていますか? 今現在、そしてこれから先、何が起こると思いますか? それについて、あなたは何をしようと思っていますか? それについて、何ができたらいいと思っていますか? また、何がしたいですか?

クリスチャンにとって最も安心ならないときとは、安心な環境にあるときです。自分はすでに何かを達成したと思うことが、一番危険です。そう思った途端、「止まってなどいられない、死んでも進んでいかなければ」という猛烈な意欲が失せてしまいます。

「平常通り」にやり続けることはできません。神に従わないなら、私たちもそういう状態になって、自分はもう到達した、成功した、すでに成し遂げた、と自己満足感に浸ることにもなりかねません。そして、そのとたん、もう先には進まなくなるのです。

引っ越しは何と「死」に似ていることでしょう。一つの人生が終わり、次の人生が始まるのです。引っ越すというのは大変なもので、私は今、次の場所に引っ越すことで激しい葛藤を味わっています。引っ越しを続けることになるなら、私は何度も死ななければならないのです。パウロが、「わたしは日々死んでいるのである」と言ったのもうなずけます。2

これはずっと先の将来の話ではありません。今現在、日々死んで仕事を成し遂げるつもりがないのであれば、いつの日か殉教者として死ぬことは、無理です。日々、ありとあらゆるちょっとした自己犠牲によって、さまよえる人たちに手を伸ばすつもりがないならば、人生の最後になって自己を犠牲にし、殉教者の死を遂げることなど、できようがありません。

たった今、出て行って、イエスのために日々死のうと決める気がないなら、この先そう決心することもないでしょう。それはまず、あなたの周りから始まります。近所に出て行き、この世界の、あなたのいる所、あなたの周りに出て行くのです。ある婦人は、証しに出かけることになった時に、「ああ、そんなことをしたら死んじゃう!」と言いましたが、まさにそうなのです。

実際、そうでなくてはいけません。プライドや利己心、エゴを殺し、身体的にもかなりの犠牲や負担があって当たり前なのです。とにかく出て行って、進歩を遂げ、進み続けなければならない、さもないとそれこそ死んでしまう、そういう衝動にかられることがなくなったなら、また、目的もなく生き続けるよりも、出て行って、何かのために死んだほうがましだという気持ちがなくなったなら、殉教者精神を失ったことになります。それこそが真の殉教者精神なのですから。

この日々死ぬというのが一番大変なことです。何千回と「死ぬ」のですから。最後の死は卒業です。けれども、日々少しずつ、ゆっくりと死ぬことには大変な勇気が必要です。

ある若い記者が、かつて東洋宗教の著名な指導者に、年若い信者たちはまだ若すぎてその宗教を理解できないのではないかと質問しました。すると、その指導者は賢くもこう答えたのです。「我々は皆年老いています。あなたも年老いています。明日死ぬともわからぬ身じゃないですか。信者たちも年老いています。明日で人生が終わりになるかもしれないのだから。我々は皆、年老いているのです。」 つまり、彼らだって充分に年老いていると言える、なぜなら、明日死ぬかもしれないのだから、ということなのです。

「あすのことを誇ってはならない。」3 残された時間はあなたが思うより少ないかもしれないばかりか、あなた自身だって、自分で思っている以上に年老いているかもしれないのです。いつか近い内にやろうと思っているかもしれませんが、今したほうがいいでしょう。さもないと、やらずじまいに終わるかもしれません。

こんな質問をしたいと思います。「私たちはわだちにはまっているのだろうか?」 私たちは冷めてしまい、自分の火や確信、ビジョン、信仰、勇気を失ったのだろうか? イニシアティブはどうなったのだろうか?

成功ほど波に乗るものはないが、その逆もまた然り。失敗ほど素早い転落もありません。山頂の崖っぷちに立っている時ほど、底知れぬ淵と背中合わせになっている時はありません。てっぺんというのは、最も輝かしい場所であると同時に、最も危険な場所でもあります。どん底にいる時には失うものは何もありません。どん底ならもう上に上がるしかなく、一番安全な場所です。あなたは無名の人であり、誰もあなたのことなど気にもかけていないのですから。

ところで、時に私たちは事を急ぎ過ぎることがあります。主とのつながりを失い、死ぬほど働き、倒れんばかりになるのです。そんな時は休みを取らないといけません。神の言葉にも、そうするように書いてあります。神は、人が週に1日休んで必要な休息をとるものと信頼できなかったので、それを戒めとされなければなりませんでした。「わたしがそう言ったのだから、一日休みなさい」4と言われなければならなかったのです。休みをとらないなら、燃え尽きてしまうことでしょう。

たとえ日々死にたいとしても、今すぐ完全に死んでしまうべきではありません。神のために御仕事を続けられるよう生き続けることが、あなたの責任です。できる限り長く生きられるよう努力せずに、主への奉仕に打ち込むあまり死に急ぐという態度は、神が望まれるものではありません。私たちは、神の望まれることを成し遂げるために、少しでも長く生きるよう努めるべきです。

パットン将軍は、アクがあって荒々しく、威勢がよくて活気に満ちており、また遠慮なくものを言う性格で、大いなる功績もあげた人物でしたが、こんな言葉を残したと言われています。普通よく言われていることに反して、「良き兵士の務めは、国のために命を落とすことではない。相手国の馬鹿な兵士どもが自分の国のために命を落とすのを見届けるのが務めである。」 つまり、良き兵士は必要とあらば大義のために命を落とす覚悟があるべきだが、国のためにどう生き、どう生き残って闘っていくかを学ぶほうがもっといい、ということです。命がなければ、あまり役に立てませんから。

やるべきことは山ほどあるのに、時間はとても限られています。すべき事、世話すべき人が山ほどあって、全部を成し遂げ、あらゆること、あらゆる人の面倒を見ようとして神経をすり減らし、くたくたになるまでに働いていると、その内、神や神の御心がなおざりになってしまいます。

私たちの主要な任務が、弟子を維持し人数を増やすことだと考えているなら、ゴール全体を見失っていることになります。それが主要目的だと考えているなら、私たちの存在目的を忘れてしまったということです。私たちの任務は、地の果てまでも福音をのべ伝えること、メッセージを出すことです。それこそが私たちの任務なのです。神よ、どうか私たちがその任務に失敗することがありませんように。

1972年9月初版。2012年8月更新、再版。
朗読:ピーター・アムステルダム


1 2 コリント 5:14

2 1 コリント 15:31

3 箴言 27:1

4 出エジプト 20:10–11

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