正しい動機

10月 3, 2026

Right Motivation
September 7, 2026

ピーター・アムステルダム

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マタイの福音書6章で、イエスは山上の説教のこの部分を次のように始めています。「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう」(マタイ6:1)。

ここで使われる「義」という[多くの翻訳聖書では「善行」と訳される]言葉は、聖書に記されている信仰の実践・順守のことであり、イエスの例には、貧しい人に施すことや祈り、断食が含まれています。この3つは、信仰生活のあらわれとして信者たちが実践することの代表例です。イエスは、これらのことをする際に、他の人に見せることを目的とすべきではないと言っておられます。

また、「見る」というギリシャ語の言葉は、「見つめる、注意深く眺める、称賛をもって見られる重要な人に目を向ける」という意味です。マタイ書の後の方に、まさにそういったことをしているパリサイ人をイエスが非難して「そのすることは、すべて人に見せるためである」(マタイ23:5)と言っておられる場面があります。

山上の説教の少し前の方で、イエスは、弟子たちの生き方の結果として、他の人たちが「あなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめる」(マタイ5:16)ようになるべきだと言われました。これは、6章にあるイエスの教えと矛盾しているようにも取れますが、両者の違いは、最初の方でイエスは弟子の人格や生活様式の全体について言われていたのに対し、山上の説教のこの部分では、特に宗教上の実践や義務について語っておられたことです。

リチャード・フランスは、このように説明しています。

[この]箇所は、故意に人前で認められようとすることについてですが、5章16節には、真の弟子の特徴とはどうあるべきかを突き詰めた結果が書かれています。そこで焦点が当てられている重要なこととは、そのような生き方をする者は、いやがおうでも「隠れることのできない、山の上にある町」となることです。宗教的な見えの結果は、人からの称賛という望み通りの「報い」を受けることですが、弟子の生き様という光を輝かせた結果は、人々が彼らではなく神に栄光を与えることです。[1]

弟子として、私たちは自分の人生に神の姿を映し出そうと努めますが、それは、人から気づかれ、称賛されることを目的として祈りや施しをすることで、故意に注目を自分に集めることとはかなり違います。

イエスがあげられた最初の例は、困っている人に施すことに関してでした。「だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている」(マタイ6:2)。

生活に苦しむ貧しい人に施しをすることは、ユダヤ人の信仰生活における大切な一部として、聖書が命じていることです。申命記には、こうあります。「貧しい者はいつまでも国のうちに絶えることがないから、わたしは命じて言う、『あなたは必ず国のうちにいるあなたの兄弟の乏しい者と、貧しい者とに、手を開かなければならない』」(申命記15:11)。

この点について、リチャード・フランスは次のように書いています。

1世紀までには、シナゴーグ(会堂)を拠点とした、よく整備された救貧制度が存在するようになり、それは、現代では国家が福祉制度によって提供しようとしていることをしていました。この制度の運営資金は、地域住民からの寄付に頼っていました。「貧しい人のための十分の一」に関する規定(申命記14:28–29)に従って与えられたものもありましたが、大きく個人の自主性によるものでした。[2]

イエスは明らかに、弟子たちが貧しい人に施すことを期待しておられました。「施しをするなら」ではなく「施しをする時には」と言われたのです。イエスは、施しをする時に人の注目を集めて自分がどれほど気前が良いかをほめてもらい、施しをする人に注目を集めるために、ラッパを吹きならしている様子を描写されました。イエスは、貧しい人々を助けることよりも、自己宣伝的な施し方をする人々の偽善を強く非難されています。彼らは、貧しい人に施すという良いことはしているものの、その動機は間違っており、自己欺瞞に陥っています。貧しい人に施す時には、愛と思いやりから、また神のいましめに従おうとしてするべきであり、自分の評判を高めるためにそれを利用してはいけないのです。

他の人の注目を得ることが目的である人について、イエスは「よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている」と言われました(マタイ6:2)。「よく言っておくが」という厳粛な言葉で始まっているので、これは大切なことだとわかります。イエスが言われたことは、確かに大切なことです。人の注目と称賛を集めるために施しをする人は、受けるべき報いをすべて受けてしまっています。結局のところ、それこそが彼らの求めていたものなのですから。

何をすべきでないかを示した上で、次にイエスは、神への奉仕をする時に――この場合は生活に困っている人へ施す時に――私たちはどのような態度を取るべきかを説明しておられます。「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(マタイ6:3–4)。

いうまでもなく、実際、片方の手がしていることをもう一方の手に知らせないというのは、不可能です。イエスはこの修辞表現を使って、私たちは人の称賛を求めるために与えるべきではないというだけでなく、自分が与えたということ自体にこだわり、得意になってもいけないと告げておられます。

ジョン・ストットは、このように書いています。

クリスチャンの与え方は、自己犠牲的で自分を忘れて行うことを特徴とすべきであり、自画自賛であってはいけません。助けを必要とする人に何かを与える時、私たちが望むべきなのは、人のほまれや自己称賛の機会ではなく、むしろ神に満足していただくことであるべきです。[3]

施しをすることは、神のいましめに従って行うあわれみの行為であり、神の性質をあらわし、自分の栄光ではなく神の栄光のためになされるべきことですが、だからといって報いを受けないわけではありません。「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(マタイ6:4)。

私たちが「義を行う」時、つまり自分の信仰が命じることを行い、祈りによって魂を育み、神を礼拝し、御言葉のうちにとどまり、正しい心の態度を持ってあわれみの行為をなす時、神はそれを見ておられ、報いてくださいます。イエスは、それがどのような報いなのかをはっきりと告げてはおられませんが、福音書の随所で、私たちのした行いとは比べ物にならないほど大きなものであることを繰り返し口にされました。「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』」(マタイ25:21)。「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい』」(マタイ25:34)。「あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく …」(ルカ6:35)。

私たちの永遠の報いがどのようなものであるかにかかわらず、正しい動機で与える時、私たちはすでに報われています。それは、自分が神に従ったこと、また、与えたものが時間であれ金銭であれ祈りであれ、それが他の人の役に立ったことを知っているからです。それに、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ25:40)ということを知っているのですから。

それから、イエスは祈りについても同じようなことを語られました。「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている」(マタイ6:5)。

ここで「会堂や大通りのつじに立って」祈っていたのは、ユダヤ教を実践する人が1日に3回決まって朗誦する祈りのことです。この祈りは、起床の際、神殿の午後の犠牲の時間(3時ごろ)、そして床につく前になされました。それぞれの時間にどこにいたとしても、立ち止まって祈るのです。

イエスはこの祈りについても、公の場所で祈ることについても、反対しておられたわけではありません。イエスが反対されたのは、自分の予定を調整して、3時の祈りの際にわざと人目をひく場所へ行き、祈っているところを人に見せようとする人たちのことです。人に見せるために施し物を与える人たちの場合と同様、自己宣伝のために祈る人のことも、イエスは非難されました。

公の場で祈ることは、何も間違ってはいません。それは教会や聖書研究会、祈りの集いなどでよく行われていることです。さらに言えば、いつどこで祈っても構いません。私たちは「絶えず祈りなさい」と言われているのです(1テサロニケ5:17)。ここでイエスが焦点を当てておられるのは、目的や動機であり、特に「人に見せようとして」行うという間違った動機を暴露することです。イエスは、人に見せようとして祈るという例をあげたうえで、そのような目的で祈る人は、報いをすべて受けており、また人からの注目や称賛も受けてしまっているが、それ以上に神から報いを受けることはないと言っておられます。

それからイエスは、正しい祈り方とはどんなものなのかを説明されました。「祈る時には、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(マタイ6:6)。

イエスの使われたこの比喩的描写は、神と二人きりでいることを表現したものです。イエスがしばしば父と二人きりになって、祈るための時間を取られたことが書かれています(ルカ5:16; マルコ1:35)。言うまでもなく、イエスは公の場で祈られたし、弟子たちもそうしました。そこで、イエスが非難しておられたのは公の場で祈ることではなく、自分の栄光や注目を得ようという間違った動機で祈ることであったとわかります。

神との交わりを持ち、神を誠実に求め、正しい動機で祈りつつ神の御前へと行く人には、人目につかない祈りを見聞きしておられる神からの報いが約束されています。イエスが語っておられたのは、私たちの動機です。私たちの動機は、神に喜んでいただくことでなければいけません。主との親密さと関係を求める清い心でこれらのことを行いたいと願うことです。そのような姿勢こそ、神に祝福されるものです。

私たちはクリスチャンとして、神との関係を持っています。そして、私たちの願いは、神が聖書で告げられたこと、神が喜ばれることを行うことです。それはつまり、礼拝や祈り、惜しみなく与え、人を愛することであり、神との関係を育むことです。そのようなことを、主の愛と栄光を求める心で行うならば、内面の変化、霊的成長、そして成熟がもたらされます。

神を愛したい、神に喜んでいただきたい、もっと神のようになりたいという願いにもとづいて信仰を実践するなら、神の光をあらわすようになって、人々は神のために生きる人生、神に栄光を帰する人生の結ぶ実を見ることとなります。私たち各自が正しい動機をもって信仰を実践し、それによって、隠れたことを見ておられる私たちの父からの報いをいただけますように(マタイ6:4)。

初版は2016年6月 2026年9月に改訂・再版 朗読:ジョン・ローレンス


1 R. T. France, The Gospel of Matthew (Grand Rapids: Eerdmans, 2007), 234.

2 France, The Gospel of Matthew, 235.

3 John R. W. Stott, The Message of the Sermon on the Mount (Downers Grove: InterVarsity Press, 1978), 130–31.

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