9月 15, 2026
ルカの福音書には、答えが明白な質問で始まるたとえがいくつも出てきます。例えば、イエスは次のような質問をしておられます。「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか」(ルカ15:4)。次のような質問もなさいました。「あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、… まず、すわってその費用を計算しないだろうか」(ルカ14:28)。
他にも、次のように、誰もが否定の答えを出すであろう質問もされています。「あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか」(ルカ11:11)。
従順な僕(しもべ)のたとえは、ただ1つの質問から始まるのではなく、3つの質問が含まれています。そのうちの2つは否定の答えが期待され、もう1つは肯定の答えが返ってくるはずのものです。
「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17:7–10 新共同訳)。
このたとえでは、イエスが僕について話しておられます。聖書の訳本によって、この僕という言葉は奴隷と訳されている場合があります。それは、ここで使われているギリシャ語のドゥーロスと言う言葉が、僕とも奴隷とも訳せるからです。イエスの時代、奴隷制はローマ帝国全体で一般的に行われていました。帝国全域の人口の20~30%が奴隷であったと推定されています。僕または奴隷を例にしたからといって、イエスが奴隷制を容認されたというわけではありません。要点を伝えるために、僕・奴隷のたとえを使われたのは、当時は奴隷が一般的だったために、人々が確実にその概念を理解できたからです。
イエスは、負債をゆるすよう弟子たちに求められましたが(マタイ6:12)、それによって債務奴隷の土台を揺るがしたであろうことを考えると、奴隷制に対するイエスの態度を垣間見ることができるかもしれません。また、聖書には、イエスについて、このように書かれています。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをと … られた」(ピリピ2:6–7)。ここで「僕」と訳された言葉も、ドゥーロスです。
イエスの時代の奴隷制は、17世紀の植民地における奴隷制のような、人種に関係したものではありませんでした。ローマ帝国時代には、奴隷がいるからこそ、他の人が自由であれると信じられていました。彼らは、自由である権利が全ての人にあるとか、奴隷制は悪であるという考え方とは無縁でした。当時の奴隷の大部分は、戦いに敗れた側の者や、彼らに生まれた子どもたちでした。
また、貧困から抜け出したり、負債を返済したりするために、自ら身売りして奴隷になる者もいたし、特定の仕事が欲しくて奴隷になる者もいました。奴隷の中には、財産を管理し、自分自身の奴隷を所有した者もいます。ある時点で、奴隷が解放されたり、自由を買い取ったりすることは珍しくありませんでした。学識豊かな奴隷もいて、その多くは機密を扱い、極めて責任の重い地位についていました。また、訓練を受けて、医者や設計技師、工芸人、小売店主、料理人、理髪師、芸術家として仕える人もいたし、主人の事業を経営し、その家の者と見なされた人もいます。
当時の文化では、多くの人が、社会的・経済的に高い地位にある人に仕え、その家の者となることを通して、目的意識と個人の名誉、そして経済と食料の安定を得ていました。いつもそうできたわけではないものの、珍しいことではなかったのです。しかし、どのような状況にあろうとも、イエスの時代の奴隷は、やはり奴隷であり、自由な人間ではありませんでした。[1]
誰かに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、来て食事の席に着くようその僕を招いたりするだろうか、という冒頭の問いですが、イエスの話を聞いていた人は一人として、そんなことを考えたこともなかったでしょう。当時、主人と僕の伝統的な役割は明確に定められており、そのようなことを許しでもしたら、それは僕が賓客の地位にある、あるいは主人と同格であると言っていることになりました。イエスがこのような切り出し方でたとえを話されたことで、聞いていた人たちの好奇心はそそられたことでしょう。
それからイエスは、2番目の質問をします。「むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろう」 (ルカ17:8 新共同訳)。畑で一日の労働を終えた者に対して、食事の準備をして主人に給仕することを期待し、そういった仕事がすべて終わってから初めて食べることが許されるというのは、私たちにはかなり厳しく聞こえるかもしれませんが、古代世界ではごく当たり前のことと考えられていました。
当時の状況においては、このたとえ話を聞いた人の中で、務めを果たした僕が特別の待遇を受けることを期待した人は一人もいないはずです。その僕は、自分が僕として期待されていることをしただけなのですから。僕が羊を飼ったり畑を耕したりしたからといって、主人は僕に借りができたわけではありません。僕はただ自分の仕事をしていただけなので、この僕が特別扱いされることを期待する人は誰もいなかったことでしょう。
「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか」(ルカ17:9 新共同訳)という3つ目の質問を聞いた人たちは、またしても「もちろんそんなことはない」と答えたことでしょう。ここで「感謝」と訳されているギリシャ語の言葉はカリスで、新約聖書では通常「恵み」と訳されています。しかし、ルカの福音書では、称賛や好意の意味でも使われています。つまりこの質問は、「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕を称賛したり報いを与えたりするだろうか」ということです。
ケネス・ベイリーは、次のように説明しています。
主人が僕に対して、一日の仕事の終りに優しい言葉をかけて、感謝を示すことはあるでしょう。しかし、ここでの論点は、それよりもはるかに深いものです。命じられたことが遂行された時、主人は僕に報いる義務があるのかということです。このたとえにおいて、この質問に期待される答えは、断然否定的なものです。[2]
この時点で、たとえを聞いている人たち(ルカの福音書では弟子たち)に対して、イエスはこう言っておられます。「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17:10 新共同訳)。
ここで「取るに足りない僕」、あるいは他の翻訳では「無益な僕」「ふつつかな僕」などとされている箇所は、「お役に立たない僕」とも訳すことができます。つまり、僕や弟子が命じられたことを果たしたとしても、「お役に立たない」存在であり、別の言葉で言えば、主人に対して何の貸しもあるわけではない、ということです。
ここで弟子たちに与えられた教訓とは、神に仕える者は神に恩を売ったりしないということです。神は、神に仕える人から恩義を受けてなどいません。神は私たちに何も負っていませんが、私たちは、命そのものも含めて、神にすべてを負っています。パウロが書いたように。「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか」(1コリント4:7)。これは、神がご自身を愛し仕える者たちに報いを与えないという意味ではなく、むしろ、私たちと神との関係は、報いを「勝ち取る」ものでも、「当然の権利として得る」ものでも、あるいは「取引して得る」ものでもないということです。弟子とは、主への愛と崇拝、そして忠誠心から、主に仕える僕のことです。
使徒パウロは、自らを「ドゥーロス(僕・奴隷)」と呼びました。「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロ」(ローマ1:1)。(こちらも参照: テトス1:1。) これは、彼が、金銭的あるいはその他の利益のためではなく、愛と献身をもって召しを果たすために労苦する者として、主との関係を捉えていたことを意味します。パウロは、主人が自分の面倒を見てくださることを知っており、完全な安心感を持って仕えていたのです。
私たちの救いは神から与えられた贈り物であり、働いて手に入れるものではありません。私たちが神に仕えるのは、あがなってくださった方への感謝と愛、そして献身と忠誠心からです。神に命じられたことを行ったからといって、神に「恩を着せる」わけではないとわかっています。頭のなかで、自分が主のためにしたことを全て帳簿につけ、神は自分に借りがあるという考え方はすべきでありません。
それは、神に仕える者には何の報いもないという意味ではありません。イエスは、報いについて幾度も語っておられます。
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう(マタイ6:3–4, 6)。
そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである(マタイ25:34–36)。
私たちには報いが約束されていますが、神との関係は、当然の報いとか、それを当てにするとか、それを得ようとして働くとかいうことではありません。主の僕として、私たちが主のために働くのは主への愛からであり、主に対する務めを果たすのは感謝の気持ちからです。私たちが神からいただくものは、神の手からの贈り物であり、仕えたことに対する支払いではありません。私たちが神に仕えるのは、神が救ってくださり、感謝しているからです。神を愛しているからです。そして、神に対する私たちの奉仕の動機は愛と感謝であって、報いではないからこそ、神は私たちに報いてくださるのです。
初版は2017年10月 2026年8月に改訂・再版 読:ルーベン・ルチェフスキー
1 Points taken from J. A. Harrill, Slavery, in C. A. Evans & S. E. Porter, eds., Dictionary of New Testament Background. (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 2000), 1124–1127.
2 Kenneth Bailey, Through Peasant Eyes (Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1980), 120.
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