イエスの最後の現れと委任

8月 31, 2026

The Final Appearances and Commission of Jesus
July 27, 2026

ピーター・アムステルダム

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マタイ、マルコ、ルカによる福音書はすべて、イエスと弟子たちとの最後の交流と、それに続くイエスの昇天の話で締めくくられています。

マタイの福音書には、こうあります。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた」(マタイ28:16–17)。イエスを見たとき、ほとんどの弟子の反応はイエスを拝することでしたが、ユダの死後に残された「十一人の弟子たち」(使徒)の中には、ためらいや迷いを抱え、疑う者もいた、とあります。それは、自分の目の前にいるのが実際にイエスであると確信できなかったということかもしれません。

福音書の他の箇所には、弟子たちがイエスに気づかなかったときのことが書かれています。「彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」(ルカ24:16)。「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった」(ヨハネ21:4)。(こちらも参照:ルカ24:30–31。)

マタイによれば、弟子たちが山に着いたとき、「イエスは彼らに近づいてきて言われた、『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた』」(マタイ28:18)。イエスは先ず、ご自身は復活されることによって、彼らがよく知っていたような巡回伝道者や、癒やしを行う者、奇跡を起こす者とはかなり違った存在になったことを告げられたのです。

「天においても地においても、いっさいの権威を」 という言葉は、ダニエル7章14節を思い出させます。「彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。」

イエスはマタイの福音書の幾つかの箇所で、人の子による将来の統治について、ダニエル7章13–14節にある言葉を用いて語っておられます。たとえば、「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう」(マタイ24:30–31)。

天と地のいっさいの権威を授けられていると告げた後、イエスは弟子たちに、次のような指示を与えられました。「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」(マタイ28:19–20)。

イエスは、その権威がどのように行使されるかについては特に語らず、ただそれが弟子たちにとって何を意味するのかを告げられました。彼らと話しているのは復活のキリスト、神の子であり、神のいっさいの権威を授かっている方なので、「行って … 弟子と」する権限を弟子たちに与えることができたのです。彼らの仕事とは、イエスの生涯と死と復活について皆に知らせ、さらに、信じた者たちを教え訓練することであり、それによって、その人たちもまた世界中にメッセージを伝えることができるようにすることです。

マタイの福音書に書かれた、イエスの最後の言葉とは、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」というものでした(マタイ28:20)。イエスの弟子たちは、最善をつくしてイエスに従うにあたり、自分ひとりでそうするわけではなく、イエスが共におられるのだという最終的な約束で、この福音書は締めくくられているのです。

マルコによる福音書の「長い結び」

マルコによる福音書の最後の章(マルコ16章)には、マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、そしてサロメが、イエスの体に塗るための香料を持って墓へ行ったことが書かれています(マルコ16:1–4)。一行が墓に入ってみると、右手に真白な長い衣を着た若者(天使)が座っており、非常に驚きました(マルコ16:5)。天使は彼女らにこう告げました。「今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と。」 すると、「女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ16:7–8)。

翻訳聖書の中には、この時点をもって、マルコによる福音書を終わらせているものがあります。しかし、他のほとんどの翻訳聖書には、もう12節(マルコ16:9–20)多く載せられています。これは、「長い結び」と呼ばれているものです。現代の聖書にこの箇所が含まれるとき、通常は斜体で印刷されており(英訳聖書)、多くの場合、最初の8節と区切るために括弧で囲まれています。

初期のクリスチャン、たとえば殉教者ユスティノス(100年頃–165年)は、その著作にマルコ16:20を引用しており、他の1~2世紀のクリスチャンたちもそうしているので、この箇所を原文の一部とする根拠はあります。ただ、もっとも古い写本(ギリシャ語、ラテン語、シリア語、コプト語、アルメニア語)の中には、この最後の12の節が含まれていないものがあるため、その部分は後に追加された可能性も考えられるのです。ESVスタディノートは、この箇所について次のように解説しています。

多くの翻訳聖書がしているように、ESVの編集者たちは、この部分を括弧で囲むことによって、マルコが本来書いたものの一部であったかどうかについて疑念を示すと同時に、教会内で長きに渡り多くの人々に受け入れられてきたという事実も認めています。9–20節の内容は、福音書の他の箇所や新約聖書の残りの部分と照らし合わせて解釈するのが最も適切です。(その内容の大部分は他の箇所にも見られ、9–20節の有無によって教理上の要点が左右されることはありません。)

ほとんどの翻訳聖書には、この「長い結び」が含まれているので、本記事でもこの箇所について解説していきます。

「週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。マリヤは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった」(マルコ16:9–11)。

週の初めの日、つまり日曜日に、イエスがマグダラのマリヤにご自身を現されたとあります。ルカとヨハネの福音書にも、マグダラのマリヤは、イエスがもはや墓におられないと発見した人の一人であることや、そのことを弟子たちに知らせに行ったことが書かれています。マルコの福音書では、イエスの死を悼み、悲しんでいた弟子たちは、マグダラのマリヤがイエスに会ったことや、イエスが生きておられることを信じるのを拒んでいます。それと同様の反応が、ルカの福音書にも記されています。「使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった」(ルカ24:11)。

「この後、そのうちのふたりが、いなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわされた。このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった」(マルコ16:12–13)。これは、ルカの福音書にある、エマオという村へ行く途上でイエスに会ったけれど、それがイエスだとは気づかなかった2人の弟子の話を思い出させます(ルカ24:13–16)。ここでは、イエスが彼らに会われた時の「違った姿」とはどういったものなのか、またすぐにイエスだと気づいたかどうかは書かれていません。エマオに向かっていた弟子たちと同様、この弟子たちも、残りの弟子たちのところへ戻り、自分たちがイエスに会ったことを伝えました。

「その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」(マルコ16:14)。イエスは「十一弟子」に現れ、彼らの不信仰とかたくなな心とをおとがめになりました。11人の誰も、弟子仲間が彼らに本当のことを話していると信じなかったとは想像しにくいことですが、その少し前に起こったこと(イエスの逮捕、十字架刑、埋葬、復活)を考慮すれば、おそらく弟子たちにとって、それは非常に辛く頭が混乱させられる時だったのでしょう。

それからイエスは、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と言われました(マルコ16:15)。ここでイエスは、弟子たちに、イエスのメッセージである福音を携え、それをすべての人に伝えることを委任されたのです。言い換えれば、マルコの福音書で、「すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」という言葉が意味するのは、イエスのメッセージはイスラエルの枠を超え、ユダヤ教の枠を超えて、伝えられていくべきだということです。弟子たちは、すべての場所で、すべての人に、福音を伝えるべきなのです。

ここでイエスは、さらにこう言われます。「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる」(マルコ16:16)。イエスを信じることは、救いに不可欠です。この点は、福音書のさまざまな箇所に記されています。「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」(ヨハネ3:36)。

「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」(マルコ16:17–18)。

使徒行伝には、信じる者にはしるしが伴うというイエスの約束の成就が書かれています。「そのころ、多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行われた」(使徒5:12)。また、弟子たちが悪霊を追い出したことについても記されています。一例をあげると、使徒パウロがある女性から霊を追い出した時のことです(使徒16:16–18)。異言を話すことについては、ペンテコステの日に、弟子たち「一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」と記されています(使徒2:1–4)。

マルコの福音書の「長い結び」は、イエスの昇天で幕を閉じます。「主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった」(マルコ16:19–20)。

使徒行伝にも、イエスが弟子たちに宣教を委任し、昇天された様子が記されています。「イエスは・・四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話され」、「お選びになった使徒たちに聖霊を通して指示を与え、天に上げられた」(使徒1:2–3 聖書協会共同訳)。イエスはこの箇所で、福音書における弟子たちへの委任と同様のことを、昇天前の最後の言葉として、次のように語られています。「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)。

マタイによる福音書の結びであるマタイ28章18–20節において、天と地のいっさいの権威を授かったイエスは、弟子たちに、至るところに「行って」、人々を「弟子と」しなさいと指示されました。この方向性は、同じ福音書の前のほうで、イエスが弟子たちに次のように命じられたものとは異なっています。「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな」(マタイ10:5)。

ここでは、行って、すべての国民に手を差し伸べ、父と子と聖霊との名によって(三位一体の神)、信じる者たちにバプテスマを施しなさいと命じられています。なぜなら、「からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」(エペソ4:4–6)。

イエスの弟子たちは、行って、人々を弟子とすること以外にも、「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように」彼らに教えるよう言われています(マタイ28:20)。信者たちは、イエスに命じられたことを人に教えると共に、自分自身もイエスの教えを守り、それを日々の生活に当てはめるよう求められました。神の愛、イエスの犠牲的な死、そして永遠の命という贈り物のメッセージに生き、それを伝えることが、私たち一人ひとりに委任されています。

愛をもって、また神への奉仕をもって、人生を生き、最善をつくして神の愛と救いのメッセージを他の人に伝える時、イエスの次の約束を耳にして、私たちは喜びと安らぎを得ることができます。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)。

初版は2022年8月 2026年7月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー

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