行く先々で善い行いをする

8月 13, 2026

Going About Doing Good
August 29, 2024

バージニア・ブラント・バーグ

オーディオ所要時間: 7:11
オーディオ・ダウンロード(英語) (6.5MB)

私は今日、イエスがひざまずかれた場所で
主がただお一人で祈られたその場所
ゲッセマネの園でひざまずき
私の心は恐れを感じなかった

私は重い荷を背負い
そばにおられる主と共に
カルバリの丘を登った
主が十字架の上で死なれたその場所を

私は今日、イエスが歩まれた場所を歩き
主がすぐそばにいてくださるのを感じた [1]

「I Walked Today Where Jesus Walked(私は今日、イエスが歩まれた場所を歩いた)」というこの賛美歌のことを考えるたびに、使徒10章38節を思い浮かべずにはいられません。「つまり、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。イエスは、方々を巡り歩いて善い行いをなし、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒やされたのです。それは、神が共におられたからです」(聖書協会共同訳)。なんと素晴らしい聖句でしょう。

以前、ある話を聞いたことがあります。事故でひどいケガをした新聞売りの少年の話で、実話だと言われました。別の新聞売りの少年が見舞いに来て、何か欲しいものはないかと尋ねると、こう答えたそうです。「うん、本屋に行って、善い行いをしてあちこち回った男の人の本を買ってきてほしいんだ。」 ただ、その人の名前を知らないとのことでした。そこで、少年の友人が本屋の店員に尋ねると、店員は、探している本は聖書で、善い行いをしてあちこち回ったのはイエスのことだと教えてくれました。

足の不自由な少年は、その素晴らしい聖書を受け取って、何度も読み返しました。やがて、少年は自分もイエスのように善い行いをしたいと願うようになり、聖書からの言葉を書き写しては、自分が住んでいる屋根裏部屋で、不自由な体を引きずって窓辺まで行き、聖句が書かれた紙を歩道に落としていったのです。

ある日、やせ細った手が窓から伸びてきて、その紙を落とすのを、大金持ちの男性が見て、急いで駆け寄り、それを拾いました。そこには、イエスが方々を巡り歩いて善い行いをなし、神がイエスと共におられたというあの聖句が書かれていたのです。彼はその言葉についてしばらく考えた後、建物を上がっていって、その足の不自由な少年を見つけました。2人はすぐに友だちになり、その男性は少年の証を通して、主に心を捧げたのです。

そしてある日、その男性は少年のところへやって来て、こう言いました。「良い知らせがあるんだ。この安アパートを出て、私の素敵な家に連れて行こうと思う。君だけの部屋を用意するからね。使用人もいるし、美味しい食べ物もある。きっと気に入ってくれるはずだ。」

少年は、こう答えました。「ええっと、ハットフィールドさん、ちょっと考えてみますね。明日また来てくれたら、行くかどうかお答えします。」 翌日、ハットフィールドさんがまた来たので、少年はこう尋ねました。「お宅について、1つ聞きたいことがあります。僕が住むことになる部屋の窓の下を、人が通ることはありますか。」 すると、ハットフィールドさんは言いました。「いや、そこはとても静かで、美しい段々になった芝生が広がっているんだ。窓の下を通る人は誰もいないよ。」

少年がなんと答えたか、分かりますか。こう言ったんです。「ごめんなさい。僕は窓の下を人が通らない場所には住めません。」 というわけで、少年は引っ越すことなく、あの貧しい地区にある、あの小さな部屋に留まったのです。

イエスがされたように、行く先々で善い行いをするため、いかなる犠牲もいとわない人たちがいるというのは、なんと素晴らしいことでしょう。もし私たちが、イエスが歩まれた道を歩もうとするなら、他の人々のために善を行える場所を歩くことになります。それは少々陳腐な言い方かもしれません。しかし、先ほどの素晴らしい聖句を思い出してください。「イエスは、方々を巡り歩いて善い行いをなし、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒やされたのです。」

ある人が小さな男の子に、こう尋ねたという話を思い出します。「お母さんはおうちにいますか。」

「いないよ。」

「お母さんはどこですか。」

「どこにいるかは分からないけど、どこにいても、きっと善いことをしているよ。だって、いつもどこかに出かけて人を助けているから。」 なんて素晴らしい言葉でしょう。

神の言葉には、あなたのすることはすべて、言葉によると行いによるとを問わず、すべて神の栄光のためにしなさい、とあります(コロサイ3:17; 1コリント10:31)。善い行いをすること、主のために本当に善い行いをすることは素晴らしいことです。しかし、それが本当に主のためであって、自分は善行をしているからと安心するためではないよう、十分に注意しなければなりません。

神の言葉は、それは行いによるのではないと告げています。エペソ第2章に、このような素晴らしい聖句があります。「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――」 あなたの行いによるのではありません。「キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである」(エペソ2:4–9)。

神がそのように計画してくださったのは、なんと素晴らしいことでしょう。そうでなければ、あまりにも不公平なことになるでしょうから。良い家庭環境や良い両親に恵まれて、生まれつき善良な人がいます。一方、悪い家庭環境やひどい両親のもとに生まれた人もいます。もし私たちの善行だけが私たちを救うのだとしたら、それはあまりにも不公平でしょう。しかし、神はその驚くべき知恵によって、誰もが同じ道を通らなければならない計画を立てられました。それは、御子、主イエス・キリストの流された血によって、すなわちカルバリ(ゴルゴタ)での犠牲によって救われる、という道です。

もう一度読みましょう。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」 それは、神の恵みによるのです。ですから、ただ自分自身の栄光をいくらか得ようとして、善い行いや、素敵なことをして回ろうとするのであれば、天にその報いが用意されることはありません。それは主イエス・キリストの御名によらなければならず、それこそが救われる唯一の道なのです。「わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒4:12)。

神があなたを祝福して守り、また、あなたを他の人への祝福としてくださいますように。あなたが行く先々で、主イエス・キリストの御名によって善い行いをすることができますように。

ラジオ番組『Meditation Moments』を書き起こしたものより 2024年8月アンカーに掲載 朗読:レノア・ウェルシュ


1 “I Walked Today Where Jesus Walked,” by Geoffrey O’Hara (1937).(日本語では、「主イエスの歩みし道」というタイトルで翻訳されています)

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