小さなことと、真に大切なこと

8月 1, 2026

Little Things and What Truly Matters
April 29, 2026

クリスチャン

最近、私はかなりペースを落として過ごすようになったのですが、そうすることで、日常の中で起こる小さなことに気づいて、それについて考えてみる時間を取ることを学んでいます。それは、「もう一つの目」ができたような感じです。これがいつ始まったのか、あるいはそういう目がもとからあったのか、はっきりとは分かりませんが、これまで常に「仕事一辺倒」だった私にとって、これは大きな変化です。

数日前、近所で小さな店を営む裁縫師に、服を預けに行かなければなりませんでした。アポとアポの合間にそこへ向かう途中、主の声が聞こえました。「彼女に元気かどうか尋ねて、それから耳を傾けなさい。」 そこで、私はそのとおりにしました。

すると、彼女はここ数か月、両膝に始終痛みを感じており、「それがどんどんひどくなっているんです」と打ち明けてくれました。彼女は60代で、運動不足に加え、長時間座り続けてミシン作業をしていることもあり、何かのきっかけで、両膝の半月板が断裂してしまったのです。

そうして話を続け、私は耳を傾けました。そして、最後にこう言って話を終えました。「時には、私たち人間がいかにもろい存在で、天のお父さんの助けと癒やしが必要であるかを悟れるように、何かが起こることもあります。あなたのためにお祈りしますね。」

妻のクリスティーナにこの女性のことを話し、一緒に店に立ち寄ることにしました。妻は彼女と話して、実用的なアドバイスと霊的な支えとを与えることができ、彼女はそれをとても感謝してくれました。私の服に起きたことの中に、天の父の御手を見ました。それがきっかけとなり、彼女の痛みや苦悩を知り、少しでも安らぎを、そして、何よりも、彼女が愛され、大切にされているという確信を、もたらすことができたからです。また、この経験は、その時その場に意識を向けて、厳格な「予定」に縛られないことの重要性を、私に教えてくれました。

神の子として、また神の使節として、私はどんな用事で出かけていようとも、神が私の人生の小道に連れてきてくださる魂に寄り添うことが、私の召しであり、常に最優先すべきことなのです。それが、私が生きている真の理由です。

息子のパトリック(22歳)がまだ私たちと一緒に暮らしていることは、私にとって大きな恵みです。時々、息子が仕事に行く際、地下鉄の駅まで車で送っています。そうすることで、一緒に過ごす時間が持てるし、ゆっくり寝ていたい気分のときでも、その15分がとても楽しみなのです。いつも話をするわけではなく、ほんの短いやり取りだけのときもありますが、それは私たち2人にとって、かなり大切な時間となっています。これもまた、人生とは今この瞬間を生きることだと実感させてくれることです。

帰り道、私のチームのためにパンを買って帰ることがあります。カウンターの女性や、裏で働くバリ出身の男性、そして順番を待つ他のお客さんたちと、ほんの数分間おしゃべりをして、互いを思いやったり、信仰を強めてくれたりするような言葉を交わす時間を、私は大切にしており、それが楽しみなのです。彼らが私の姿を見るとき、嬉しそうにしてくれるのが分かります。自分たちが大切にされ、重要な存在だと感じているからでしょう。実際、彼らはそういう存在です。ときどき、アクティベーテッドを1部渡し、私が感銘を受けた記事をいくつか紹介していくこともあります。

また、いつも近所の花屋に少し立ち寄って、そこで働いている女性に挨拶をします。いくらか言葉を交わし、たいていはアクティベーテッドの最新号を1部置いていきます。

今朝、車に戻る途中、ベビーカーを押している中年の夫婦に声をかけ、少し話をしました。初めて会った人たちです。2人の頭の中は、その日の考え事ややるべきことでいっぱいになっているのが見て取れましたが、気づけば、私たちは笑顔でおしゃべりし、天の父からの励ましの言葉をいくつか分かち合っていました。このことがあって、彼らは数分の間、この瞬間に、つまり、今というときと真に大切なことに、立ち戻ることができたようです。「あなたがたが息子さんを見るとき、まるで天国の様子を垣間見ているかのようですね。」 私がそう言うと、夫婦は微笑み、一瞬、2人の魂に平安が満ちたようでした。

家に帰る道中、私自身もまるで平安の雲の中にいるかのように感じました。そのとき、フランチェスコの生涯にまつわる、ある物語が頭に浮かんだのです。

アッシジのフランチェスコはある日、何人かの追随者たちにこう言いました。「説教をしに、向こうの村へ行きましょう。」 彼らが歩いていると、重い荷物を背負って道を行く、質素な姿をした人に遭遇しました。フランチェスコは先を急ぐことなく、その人の苦労話にじっくりと耳を傾けました。

村に着くと、フランチェスコは店の人たちと話をし、果物や野菜を売る露店では農夫たちと時間を過ごし、また、通りで子どもたちと遊びました。帰り道では、干し草を運ぶ農夫に出くわし、フランチェスコはその人とも時間を過ごしました。そうして午前が終わり、一行は早朝に出発した修道院に戻ったのです。

同行した者の1人がかなり落胆した様子で、こう言いました。「フランチェスコ兄弟、あなたは説教に行くと言いましたが、午前中が過ぎたのに、一度も説教することがありませんでした。」

すると、フランチェスコはこう答えました。「でも、道中ずっと説教をしてきたではないですか。」

私の人生の大半は、達成を目的とし、それに重点を置いて費やされてきました。活動やプロジェクトを立ち上げ、人を教え、証をし、物事の最前線で動いてきたのです。こうした活動そのものには何の問題もないし、それを行うべきときがあるのも確かですが、年を重ねるにつれ、自分が少しバランスを欠いていたことに気づきました。そのせいで、同じく大切ないくつかのことをないがしろにしていたのです。パウロがコリント教会への手紙で、「愛の章」の導入として書いた、「そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう」という言葉を思い出します(1コリント12:3113:3)。

この気づきは、人生とは華々しい達成がすべてなのではなく、日々の静かで見過ごされがちな瞬間の積み重ねであり、真に大切なこと(その場その時を大事にし、神が私の小道に連れてきてくださる人に寄り添うこと)を理解することにある、という認識が深まったことから生まれました。私は今、自分の第一の召しは、神のために何かをすることではなく、世界に対する神の愛となることだと、改めて気づいているところです。

「人生は目的地ではなく、旅そのものにある」という言葉は、私にとって単なる決まり文句以上のものとなりました。それは、私が心から信じていることであり、日々の生き方にも表れています。つまり、自分の目的や目標に固執せず、旅そのもの、この瞬間、今のこのときに意識を向けて、真に大切なことを見失わないようにしているのです。

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