不正な家令のたとえ話

7月 24, 2026

The Parable of the Unjust Steward
June 22, 2026

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 15:07
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不正な家令のたとえ話は、ルカの福音書の中で、お金や持ち物の使い方について語られた3つのたとえ話の内、2つ目のものです。他の2つは、愚かな金持ち(ルカ12:16–21)、そして、金持ちとラザロ(ルカ16:19–31)です。不正な家令(管理人)についてのこのたとえ話は、最も理解が難しいたとえ話の1つとされています。何世紀にも渡って、どれほど多くの異なる解釈がなされてきたかを見るのは、興味深いことです。

イエスは、ルカ16章1–13節にあるこのたとえ話で、裕福な地主の家令、つまり運営管理人をしていた人の話をされました。この家令は、金持ちの主人に不正がばれたことで解雇されたのですが、それからさらに主人をだまして、自分の益のために行動します。ところが主人はそれを知って、家令をほめたのです。

イエスが家令の罪深い行動を容赦し、さらには讃えているようにも受け取れるので、確かに少々扱いにくいたとえ話ではあります。実際、4世紀には、ローマ帝国最後の非キリスト教徒皇帝であり、背教者ユリアヌスとして知られている皇帝が、このたとえ話を利用して、イエスは自分の信者たちに嘘をつき強盗になるよう教えたと主張しました。[1]

このたとえ話の意味については、何世紀にもわたってさまざまな解釈がなされてきました。貧しい人々への施しについて、または金銭の適切な使い方についてである、あるいはイスラエル民族への警告である、などといったものです。[2] ここでは、主にケネス・ベイリーの著書『Jesus Through Middle Eastern Eyes』(邦題:中東文化の目で見たイエス)にある見解をもとに、このたとえ話の背後にあるメッセージを的確に説明していると思われる解釈を取り上げていきます。

では、たとえ話の最初の節から始めましょう。ここでは2人の中心人物を紹介し、これから起こる出来事の背景設定をしています。

ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった(ルカ16:1)。

物語が展開していくにつれ、この金持ちはかなりの土地の所有者であることが明らかになります。彼はそれを農地として人々に貸し出し、その管理の責任を負う家令を置いていました。ある人がこの金持ちの地主のところに行って、管理人が主人の資産を浪費していると告げました。ここで浪費と訳されているギリシャ語の言葉は、放蕩息子のたとえ話(ルカ15:11–22)の中で、弟の方が道楽のために父の財産を無駄遣いしていたことについて使われたのと同じ言葉です。管理人は、主人の財産を無駄遣いしていることで非難されていたわけです。

そこで主人は彼を呼んで言った、「あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから」(ルカ16:2)。

金持ちはこの管理人に、彼がお金を不正に管理していると人から聞いたことを知らせました。おそらく、自分の地位を利用して、主人のお金で私腹を肥やしているようだということなのでしょう。

1世紀当時のパレスチナや古代世界の他の地域における管理人は、地主の名の下に事業を遂行する完全な権限を持っていました。地主の名によって管理人が結んだ契約はすべて、地主に対する法的拘束力を有していたので、地主はその人を完全に信用していないかぎり、事業や家庭や経済的な事柄の管理人に任命したりしません。明らかに、この金持ちは管理人に対して、それだけの信頼を置いていたのですが、その信頼は裏切られてしまいました。

主人に問いつめられても、管理人は何も言いません。弁解もせず、誰が告げ口をしたのかも尋ねませんでした。否定もせず、そのように黙っていることは、罪を認めたということになります。主人は彼をその場で解雇し、会計簿を引き渡すように言いました。その時点から、この男には地主に代わって取引を行う法的権限がもはやないということです。

次の2つの節には、管理人が会計簿をまとめながら、頭の中で自分の将来の職について検討している様子が描かれています。

この家令は心の中で思った、「どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい」(ルカ16:3)。

彼は、将来の見通しは暗いと判断しました。職を取り上げられたということは、これまでの地位から首になったことが間もなく村中に知れ渡る、ということなのです。彼には農作業員や日雇いとして畑で働くほどの体力がありません。また、物乞いは恥ずかしいと考えています。というわけで、見通しはあまり良いものではなさそうです。ここで、次の心の声が聞こえてきます。

「そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう」(ルカ16:4)。

この人は、誰かの家に迎えてもらうための計画を思いつきました。「家に迎えてもらう」というのは、別の地主から仕事をもらうことを意味する慣用句です。不正を働いて解雇されたことが人々に知られたとしても、彼の計画通りに行けば、別の仕事につけるかもしれません。次に彼は、その計画を実行し始めます。

それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、「あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか」と尋ねた。「油百樽です」と答えた。そこで家令が言った、「ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい。」 次に、もうひとりに、「あなたの負債はどれだけですか」と尋ねると、「麦百石です」と答えた。これに対して、「ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい」と言った(ルカ16:5–7)。

管理人が主人の負債者を1人ずつ呼び出したとあるので、この時点で管理人が職を取り上げられたのを知っているのは、主人と管理人本人だけであったことが分かります。主人のしもべたちは、明らかにまだそのことを知りません。彼がもう管理人ではないことを知っていたなら、その命令に従いはしないでしょう。

また、負債者たちも、それを知りません。知っていたなら、呼び出されても、おそらく一対一で管理人と会うために来ることはなかったでしょうから。この負債者たちは、貧乏人ではありません。この金持ちが所有する土地の、大きな区画を借りていたのです。ある人はオリーブ畑を、またある人は麦畑を借りていました。当時、人々は農地や果樹園やぶどう畑を借りて作業し、収穫物のうち、あらかじめ決められた分を地主に納めていたのです。そのような人の1人が収穫物からオリーブ油百樽を、また別の人は麦百石を、地主に渡すことに同意していました。

樽と訳されている油の量の単位は、ヘブル語では「バト」で、およそ39リットルでした。ですから、この負債者は3,900リットルほどのオリーブ油を納めると誓約していたということです。それはおよそ150本のオリーブの木から取れる量で、1,000デナリほどの価値がありました。1デナリは未熟練労働者が稼ぐ1日分の賃金に相当します。もう1人の負債者は、収穫された麦から27トンを地主に納めると誓約していました。つまり、100エーカーの畑に実る作物の量です。負債に相当する麦の価値は、およそ2,500デナリでした。

不正な家令は、負債となっていた油の量を5割、すなわち500デナリ分減らし、麦を2割(こちらも500デナリ分)減らしました。家令はそれぞれの人に、元々負っていた負債よりも500デナリ分少ない量に証書を書き換えるよう指図したのですが、これはかなりの金額です。すでに主人のお金をごまかして自分の利益とした後、家令はまたもや主人をあざむいて、1,000デナリ分もごまかしたのでした。ただ今回はそれを着服するためではなく、これらの人たちに良く思われれば、自分が解雇されたことが知れた時に、仕事をもらえるかもしれないと考えたからです。

負債者たちは、地主がそんなにもよくしてくれたことや、これほども寛大な措置を取るよう地主を説得してくれたと思われる管理人のことを喜んで、満足して帰って行きました。

ある意味では、管理人は主人を難しい立場に追い込みました。管理人が負債の額を変更したことを主人が知ったなら、彼には、減額された金額を無視して、収穫時に全額支払うよう要求する法的権利があります。けれども、もし証書の修正を地主が撤回すれば、先ほど賃借人たちから好感を得たばかりなのに、それを失ってしまいます。それに、疑いもなく村人たちはそのことを耳にすることでしょうし、そうなったとき、地主は村人たちからの好感をも失うでしょう。

管理人はまたしても地主のものを盗み取っているわけですが、それを巧妙に、自分にとって利益になり、地主にとってもプラスになるようなやり方で行ったのでした。物語は次のような結末を迎えます。

ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた(ルカ16:8)。

ここには明確に、家令が不正であったことが述べられているので、彼が善人・義人だから、あるいは悔い改めているからほめられたという解釈は成り立ちません。彼は主人から、その「利口なやり方」、つまり抜け目のなさや巧妙さゆえにほめられたのでした。彼がしたことは間違っており、職を取り上げられるという罰を受けたものの、地主の人となりや性格を正しく判断したことと、抜け目なく巧妙に計画を立てたことについて、ほめられたのです。

管理人の行動は、賃借人たちに対して、管理人自身と地主の両方をよく見せました。地域の人たちもおそらく、地主はとてつもなく心が広いという話を耳にするはずです。管理人がしたことは、いずれ結局は外に漏れて、地域に住む人々は、地主はそもそも管理人を罰して家族を売り飛ばすこともできたのに、そうしなかったことに気づくでしょう。家令は不正を働いたので、地元で管理人として雇われる可能性はあまりないでしょうが、その抜け目のなさゆえに、何か他の仕事で雇われる可能性は高いと思われます。そして、それが彼の狙いなのです。彼は、自分にとっても、地主にとっても、プラスとなる計画を立てたのです。ただし、金持ちにとっては高くつくプラスでしたが。

このたとえ話は、その場で聞いていた人たちの興味をかき立てたことでしょう。ちょうど、現代でも、極めて巧妙で入り組んでおり、想像力に富む計画を立てた強盗についての映画や本を見たり読んだりした人が、興味をかき立てられるように。しかし、彼らはまた、地主が寛大で優しいという点も理解したはずです。

物語を話し終えた後、イエスはそれをどう当てはめるかについて、さらにこのように語られました。

ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう(ルカ16:8–9)。

理解するのが難しいこの言葉によって、イエスは「この世の子ら」と「光の子ら」とを比較しています。この世の子らは光の子らよりも、他の人たちに対して抜け目なくふるまっており、この管理人のように、この世の体制の中でいかにして利口に働くかを知っています。いかにして良い取引をするか、お金をもうけるか、富を手にするか、この世のやり方と原則に従って成功するか、を知っているのです。

しかしイエスは、光の子らに、異なる原則、つまり神の愛情深く、寛大で、恵み深い性質に基づいた、神の御国の原則に従って賢く働くよう告げています。光の子らは、「神の前に豊かになって、天に宝を積む」ために、神の御旨に沿って行動し、愛と寛大さをもって他の人に接するという、神の御国のやり方で物事を行うべきなのです(マタイ6:19–21)。

信者たちは、この世の金や富を使って、この世で「友だちをつくる」ようにと教えられました。つまり、自分のお金を用いて良いことをするようにということであり、物惜しみせずに分け合い、困っている人に与え、助けられる人を助けなさいということです。いずれ、お金にはもう価値も重要性もなくなるときが来ます。あなたがこの世から去って来世に移るときのことです。神の御国の原則に沿って生きているなら、あなたが天国に着いたときには、以前に助けてあげた、すでに他界した人たちがあなたを歓迎し、永遠のすまいに迎え入れてくれるでしょう。

イエスはこのたとえ話で、あの地主のように恵み深く寛大な、神の性質について教えておられます。また、信者は不正な家令から何かを学ぶべきだと指摘しておられます。不正な家令がしたことは明らかに悪いことでしたが、彼は少なくとも地主の性質を理解していたし、その理解に基づいて行動しました。ましてや、私たちクリスチャンは、愛情深く寛大な神の性質をよく理解しているべきだし、神の愛と恵みと寛大さに対して大いなる信仰をもって人生を生きるべきです。また、神の性質にならい、他の人に対して寛大になって、人を赦す態度を示すべきです。

私たちは皆、生活を成り立たせ、自分自身や家族を養うために、お金が必要です。しかし、神から授かったものの一部を用いて他の人を助けることは、「友だちをつくる」手段であり、また彼らに、神が彼らを愛して祝福したがっておられることを知らせるための手段なのです。お金や時間などを分け合うとき、私たちは神の寛大さを映し出しています。また、そうすることで、私たちは他の人たちを助けるばかりか、天に宝を蓄えることになるのです。

私たちには、他の人たちと分け合うだけのこの世の富はないかもしれませんが、単なるお金よりもずっと価値のある豊かな富を分け合うことができます。神の言葉の真理や、神の愛があり、イエスを通していかに神との関係を結べるかを知っているのです。今現在は、金銭的に他の人を助けられる状態ではない人でも、時間や関心、力添え、祈り、慰め、愛を与えることはできます。

私たち一人ひとりは、真の正しい富を持っています。それは、他の人たちにただで分け与えられる、救いの福音です。どうか私たちが、困っている人たちに、金銭的・霊的な祝福を分け合うことができますように。そして、それを受け取った人たちが、私たちの愛情深く寛大な神と、素晴らしい御子イエスとを知るに至りますように。

初版は2014年8月 2026年6月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク


1 Kenneth E. Bailey, Jesus Through Middle Eastern Eyes (InterVarsity Press, 2008), 333.

2 Klyne Snodgrass, Stories With Intent (Eerdmans, 2008), 406–409.

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