キリストの弟子になること(パート2):代価

7月 6, 2026

Christian Discipleship, Part 2: The Cost
May 18, 2026

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 8:56
オーディオ・ダウンロード(英語) (8.1MB)

イエスに従うことについて、イエスご自身が福音書の中でいくつか強い発言をされています。弟子となるには犠牲が伴い、必要条件はたやすいものではないことを、はっきりと示されたのです。イエスに従うという決意には、自分の人生や忠誠関係、人間関係、願望、優先順序を向ける方向を調整することが必要とされました。それは、今も同じです。

弟子になるということは、自分自身をキリストと一致させることであり、この再調整を行うことは、私たちの優先順位が変わることを意味します。弟子となるには、私たちの心、生活、決断において、イエスを最優先することが求められます。これは、以前の優先順位がもはや重要ではないという意味ではなく、それらが以前と同じ位置を占めなくなったという意味です。

ルカの福音書にはこう書かれています。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14:26 新共同訳)。また、マタイの福音書で、イエスはこのように言っておられます。「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:37)。

しかし、これら同じ福音書の他の箇所で、イエスは親を敬いなさいという戒めを肯定されています。ある人がイエスに、永遠の生命を得るためには何をする必要があるのかたずねた時、イエスは「いましめを守りなさい」と言われました。そして、その人が「どのいましめですか」とたずねると、イエスは十戒から幾つかの戒めをあげられ、その中に「父と母とを敬え」もありました(マタイ19:16–19)。他の箇所では、神殿の宝庫に捧げるためのお金や供え物だと言って、それを必要とする親が手を出せないようにしつつ、自分では使い続けるという偽善について、イエスが律法学者とパリサイ人を叱責されました(マタイ15:4–6)。

イエスは、親は互いを愛し、子どもを愛すべきであり、そして子どもは親を愛し大切にすべきであると主張されました。ですから、ご自身に従う者はその家族を「憎む」べきだという発言は、家族関係について語られた、より大きな背景に照らして考える必要があります。イエスが父親、母親、配偶者、子どもを「憎む」ことについて語られた時、文字通りの意味で話しておられたわけではありません。憎むというのは、聖書の他の箇所で見られるように、「他者ほど愛することをしない」という意味です。

マタイの福音書にも、ルカの福音書にあるのと同じ点が書かれていますが、イエス「よりも」両親を「愛することをしない」という観点からになっています(マタイ10:37)。

弟子の召命を受けるとは、私たちの愛情と忠誠の面で、イエスを最優先することです。それは、他を退ける愛ではなく、イエスに第一の場所を捧げることによって、自分の愛し方に正しい優先順位を付けることです。イエスは、ご自分の母親や兄弟よりも宣教を優先して、優先順位の付け方の手本を示されました。「さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、『母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます』との知らせがあった。するとイエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである』とお答えになった」(ルカ8:19–21 新共同訳)。

弟子は自分の両親を敬うべきですが、神の方が優先されます。イエスがご自分に従うよう誰かを召される時、親がそれに反対するなら、弟子は、親を愛してはいるものの、自分に求められているのは神をそれ以上に愛することであり、親に反対されたとしても神に従うべきだと判断するのです。イエスの生涯において従ってきた者たち、そして、その復活後数十年の間に教会に加わった者たちは、家族から疎外されました。ユダヤ教の正式な習わし、または生まれ育ってきた宗教的信条を捨てたと見なされたからです。

聖書は、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」と教えています(2コリント5:17)。そして、キリストにあって新しくなることの一つに、人生における優先順位を調整することがあります。他の人への愛や忠誠、責任を完全に捨て去るわけではなく、神との関係を始めたので、それが最も重要な関係となったと理解しているのです。

また、イエスは他の何にも勝って神を愛することを求めた一方、他の人を愛するようにとも命じられました。誰かが「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」と尋ねてきたときには、次のように答えておられます。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。… 自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」 そして、最後にこう言われました。「これより大事ないましめは、ほかにない」(マルコ12:28–31)。私たちは、他の全てに勝って神を愛すべきですが、同様に親族や近しい人たちを含む他の人々も愛すべきなのです。

イエスが、信者たちに対して、まずご自分に忠誠を尽くすべきだと教えたもう一つの分野は、物質的な富です。裕福な若い役人の物語において、イエスは、忠誠には物質的所有物よりもイエスを優先させることも含まれると教えられました。共観福音書3書すべてに、永遠の命を得るためには何をすればいいのかをイエスに尋ねた、この金持ちの若い役人の話が出てきます。[1] 彼は戒めを守ってはいたものの、何かが欠けていると感じ、さらに何をすべきかイエスに尋ねました。「イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、『あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい』」(マルコ10:21)。

この若者は、戒めのほとんどは守っていたけれど、「あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない」(申命記5:7)という大切な戒めを喜んで守ろうとはしていませんでした。そして、こう書かれています。「すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである」(マルコ10:22)。翻訳聖書によっては、「気を落とし」「陰鬱になり」などと訳されています。彼は神に仕えるよりも富に仕える方を選んだのであり、彼の地上での富は、天の宝以上に大切だったのです。

弟子たちは、この若者が去った後にイエスが言われたこの言葉に驚きました。「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」(マルコ10:23–25)。ペテロは弟子たちを代表して、「わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」とイエスに告げました。そして、イエスは素晴らしい約束を語られたのです。そして、イエスは、次のような素晴らしい約束を語られたのです。

「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける」(マルコ10:28–30)。

ペテロは弟子たちを代表して話し、あの金持ちがしようとしなかったことを自分たちはしたのだということに注目させようとしています。イエスは、召命に従ってくる者たちは、この世においても永遠に渡っても大いに報いを受けると言って、弟子たちを安心させました。自分の持ち物や親戚、家、土地よりもキリストをまず優先した人は、この世でも来るべき世でも報いを受けます。

弟子になるということは、私たちにとって何が重要であり、人生において何を最優先すべきかを再調整することが求められます。私たちの心と人生においてイエスを第一に置き、イエスが一人ひとりを導かれる道と私たちの人生における御心に従うことが求められるのです。その道や御心は、それぞれ個人的なものになるでしょう。私たちは、「まず神の国と神の義を求めなさい」という主の召しに応え、そうすることで「それらのものはすべて添えて与えられる」と信頼しながら、人生や決断において神の国を最優先するのです(マタイ6:33)。

初版は2017年9月 2026年5月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク


1 参照:マタイ19:16–30, マルコ10:17–30, ルカ18:18–30.

Copyright © 2026 The Family International