キリストの弟子になること(パート1):召命

6月 26, 2026

Christian Discipleship, Part 1: The Call
May 11, 2026

ピーター・アムステルダム

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福音書には、イエスの生涯、宣教、死、そして復活について書かれており、また、弟子として従ってきた者たちにイエスが教えられたことも記録されています。4福音書全体を通して、従ってきた者たちとのイエスの触れ合い、そして、彼らがイエスとは誰なのかを理解するに至る霊的な旅路、またイエスの教えを時に誤解したことで生じた問題について、読むことができます。

福音書全体を通して、弟子の全体的なあり方が描かれています。そして、各福音書にイエスの弟子たちについて書かれていることには、類似点もあれば、いくらか異なっている点もあります。[1] 例えば、ルカの福音書では、イエスが使徒として任命した12弟子(ルカ6:13)と共に、他の福音書には言及されていない、その12人とは別の72人というより大きな弟子の集まりについても書かれています(ルカ10:1)。また、ルカの福音書は「大ぜいの弟子たち」にも触れており、彼らは「みな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた」とあります(ルカ19:37)。

福音書に描かれている弟子たちは、間違いを犯し、イエスの言われたことを誤解し、内輪もめをし、高慢で自分勝手な態度を示す普通の人間であり、それと同時に、他の者たちが去った時にもイエスのそばを離れず、その内にイエスが神の子であるメシア(キリスト)だと理解するに至った人たちです(マタイ16:16)。

イエスの生きておられた頃、神の言葉に完全に従うことによって神を崇めることを望むユダヤ人男性は、ラビの弟子になることがありました。そのためには、自分が学び仕えたいラビを選び、次にそのラビと師弟関係を結ぶ必要があります。けれどもイエスは、ご自身の弟子について、通常とは逆の手順を行い、イエスの方から弟子を選ばれました。

さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った(マタイ9:9)。

イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4:19)。

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである(ヨハネ15:16)。

イエスの方から弟子たちを選び、召されたのですが、弟子たちもそれに応えました。たとえば、シモン(ペテロ)とアンデレ兄弟は、「すぐに網を捨てて、イエスに従った」 し、ヤコブとヨハネ兄弟は、「父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において、イエスのあとについて行った」 とあります(マルコ1:17–20)。

弟子になる召命に応えたことで、彼らのライフスタイルは著しく変りました。イエスがこう語られたように。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」(ルカ9:23–24)。イエスが地上で生きておられた当時、弟子になることは、誰よりもキリストに忠誠を誓うことを意味していました。

この忠誠は、福音書で様々な形に描かれています。12弟子やイエスの他の弟子たちは、所有物や土地、家族など後にして、イエスに従ってともに宣教を行うという召命を受けました。

弟子になる代価をあらかじめ数えることは、全ての弟子に求められたことですが、町々を旅するイエスに従うことが、全ての人に求められたわけではありませんでした。それは、例えばイエスによって悪霊から救い出された人が、弟子として従わせてほしいと願った話に見られます。イエスは彼にこう答えられました。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 その後のことが、こう書かれています。「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた」(マルコ5:18–20 新共同訳)。その人はイエスの言うとおりにし、立派にイエスのことを人々に説きました。そうやって、イエスとともに旅することはなかったけれど、弟子としての行動はしたのです。

また、アリマタヤのヨセフはある時点で弟子となりましたが、ユダヤ教団内に留まったようです。福音書には、彼は「地位の高い議員」(マルコ15:43)また「金持」であり(マタイ27:57)、「ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となった」(ヨハネ19:38)と書かれています。彼はピラトの所へ行き、イエスの体を引き取って自分の墓に納めるのを願うことによって、弟子としての忠誠を示しました。イエスの時代においても、弟子たちは必ずしも仕事や家、家族を後にしたわけではありません。

福音書に書かれていることから、弟子たちは完璧とは程遠く、イエスの教えを理解しないこともしばしばだったのは明らかです。また、時とともに理解が深まっていったことが見て取れます。読んでいてわかるのは、彼らには弱さがあったけれど、それでもイエスは彼らを教え、正すことによって、彼らがより多くの弟子を作り、世界中に福音を伝える手助けができるほど強くなれるようにしておられたことです。

ルカは使徒行伝で、イエスを信じて従うことを、弟子であることと同じ意味として書いています。使徒行伝には、パウロがエペソを訪れた際、そこで「ある弟子たち」に出会ったと記されています。パウロが彼らに、キリストを信じた際に聖霊を受けたかどうか尋ねたところ、彼らは「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えました(使徒19:1–2)。イエスを信じるこの人たち(ここでは「弟子」と呼ばれています)は、まだ聖霊について聞いたことがなかったのです。

パウロとバルナバが幾つもの町で宣教をした時は、またそれぞれの町に引き返して、「弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し、『わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない』と語った」とあります(使徒14:22–23)。ここでも、信者たちが弟子と呼ばれていることがわかります。使徒行伝の後半の方や書簡では、信者の群れが「教会」と呼ばれているのがわかります。そして彼らは、やがてクリスチャンと呼ばれるようになりました(使徒11:26)。

また福音書の様々な箇所で、弟子の中には女性もいたことが記されており、幾人かはイエスが旅をするときにお供をしていました(ルカ8:1–2)。この女性たちは、イエスがエルサレムへ行かれた時について行き、十字架にかけられた時にその場におり、そして、復活後の空っぽの墓に最初に着いた人たちです。使徒行伝には、教会で重要な役割を担った女性たちが出てきます。タビタという名前の弟子について書かれている箇所では、弟子という言葉が女性形で使われており、男性も女性も弟子として認められていたことが確認できます(使徒9:36)。[日本語訳聖書では、「女弟子」や「婦人の弟子」などと訳されています。]

クリスチャンであることはイエスの弟子であることと同じであると理解したとき、弟子としての生き方に関するイエスの教えはすべての信者に当てはまることが分かります。それは、宣教師やクリスチャン・ワーカー、牧師、説教師といった、キリスト教の奉仕を全時間で行うよう召された人たちだけに与えられた指針なのではありません。イエスの言葉は、全信者に向けられたものであり、私たち全員がそれを信じて実践するよう求められています。

自分を否定すること、日々自分の十字架を負うこと、イエスの足跡に従うこと、物質的な富に対する見方を改めることといったイエスの教えの多くは、かなり厳しいものです。ヨハネの福音書には、しばらく弟子としてイエスに従ったものの、イエスが彼らにとって受け入れがたいことを言われた時に去っていった人たちのことが書かれています。「弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、『これは、ひどい [ギリシャ語原文では「厳しい」「過酷な」]言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか。』… それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった」(ヨハネ6:60, 66)。

彼らは当初、ある程度の決意をもっていたものの、こうしてイエスを去っていきました。ここで「去っていった」と訳されている箇所は、自分たちが後に残したものの所へ引き返したことが示唆されています。彼らは、後ろを向いて、弟子であることをやめたのです。

イエスの生涯の間もその後も、イエスを信じ従った人の多くにとって、弟子になる召命、つまり、イエスを信じ、その教えに喜んで従うという召命は、個人的に多大な犠牲を伴いました。イエスに従う者になるには、強い決意、献身、自己犠牲が必要とされ、イエスは説教や教えの中で、そのことをかなり明確にされています。

弟子たることについての、そのような教えのひとつが、ルカの福音書に記されています。それは弟子になりそうな3人についての話で、そのうちの2人は自分からイエスに従いたいと告げ、もう1人はイエスから招かれました。「道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、『あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります。』 イエスはその人に言われた、『きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない』」(ルカ9:57–58)。

イエスに従うことを申し出たこの人が、イエスの言われたことにどう反応したのかは書かれていません。しかし、メッセージは明白です。主を信じ、主のために生きることには犠牲が伴うのです。

「またほかの人に、『わたしに従ってきなさい』と言われた。するとその人が言った、『まず、父を葬りに行かせてください。』 彼に言われた、『その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい』」(ルカ9:59–60)。

イエスはこの人に、従ってくるよう言われましたが、すぐに網や舟や仕事を後にしてイエスに従った何人かの弟子たちとは違い、イエスに従う前に家族への責任を果たそうとしました。親を埋葬することに重きが置かれていることを考えると、この人の父親が最近死んだからということは、まずありえません。[2] この人が言っていたのは、父親が生きている限り、父親に対する責任を果たさねばならず、それが済むまでは、イエスに従うことを先延ばしにしなければならないということです。それは、数年後かもしれないし、数十年後かもしれません。

この箇所の要点は、家族への責任や家族との関係をけなすことではありませんでした。イエスは他の箇所で、パリサイ人たちが父親と母親を敬っていないと非難しておられます(マタイ15:3–9)。ここでイエスが話しておられたのは、ご自身に従ってくるなら、神と御国を最優先することになり、それまでの忠誠関係を見直さなければいけないということです。それは、家族や友人、自分の持つ責任に対する忠誠が大切ではないということではなく、キリストへの献身が優先されるということです。

これらの例から、私たちは神の御国の召命を最優先しなければならないと教えられています。弟子になること、すなわち、イエスの教えを信じて、それを実践し、神とともに歩むことを目標とする人になることは、神の優先順位に合わせて自らの人生の方向を定め直すことを意味しているのです。

初版は2017年9月 2026年5月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク


1 本記事で取り上げるポイントは、以下の書籍の「Discipleship」(M. J. Wilkins)という章から要約されたものです:『The Dictionary of Jesus and the Gospels』(Edited by Joel B. Green and Scot McKnight. InterVarsity Press, 1992), 182–188.

2 Kenneth E. Bailey, Through Peasant Eyes (Eerdmans, 1980), 26.

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