金を借りた二人の人のたとえ

5月 23, 2026

The Parable of the Two Debtors
April 13, 2026

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 15:56
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金を借りた二人の人のたとえ、あるいはパリサイ人と罪深い女のたとえとも言われている話は、愛と憐れみと感謝についての美しい物語です。この物語にあるたとえ話の部分は非常に短く、シモンというパリサイ人の家にイエスが訪れて食事をした際の出来事と対話の中に挟まれている2節のみとなっています。たとえ話は短いものの、それは神のゆるしと、それに対する適切な反応に光明を投じています。

このたとえ話(ルカ7:41–42)が含まれたルカの福音書の記述は、このように始まります。「あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた」(ルカ7:36)。

その場で起こったことが、そのままに述べられているように見えますが、物語の中心となるのは、そこで「起こらなかった」ことです。当時、家の主人は、客が家に入る際に、その客の頬か手にキスすることが習慣となっていました。次に、客の手と足を洗うために水とオリブ油を持ってきます。家の主人が客の頭に油を注ぐこともありました。しかし、シモンはイエスに対し、これらの礼儀の一つも示していません。これはわざと礼儀作法とマナーを示さなかったものと思われます。

この物語の後の方で、シモンはイエスのことを「先生」と呼んでいます。昔のユダヤ教文書によると、家で教師や学者をもてなすことは、栄誉と見なされていました。イエスは、シモンの家に呼ばれたことで、挨拶のキスをされ、足を洗うための水と手を洗うためのオリブ油が出されるぐらいは期待できたことでしょう。しかし、その内どれも提供されませんでした。

その時、イエスは「私は歓迎されていない」と言って、腹を立ててそこを去っても当然だったでしょうが、そうはされませんでした。シモンがイエスをもてなさなかったことが無礼と見なされかねないにもかかわらず、イエスはその侮辱をやんわりと受け止め、手も足も洗わないまま、食卓につかれたのです。

物語は、次のように展開していきます。「するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で[イエスが]食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った」(ルカ7:37–38)。

罪人として知られていたという女性はその日、イエスがシモンの家で食事をされることを知ったので、イエスの到着の際にはその場にいました。その女性はおそらく売春婦だったのではないかという解釈が、最も広く受け入れられているものです。さて、この女性がシモンの家での食事に参加できたというのは、いったいどういうことなのでしょう。ある著者はこのように説明しています。

中東にある村々では、伝統的に、地域社会から蔑視されている者たちを食事から締め出すことをしませんでした。彼らは壁際の床におとなしく座り、皆が食事を終えた時に、食べさせてもらえます。家の主人は、地域社会から蔑視されている者にさえも食べ物を与える気高い人間として見られるので、そういった者たちがいることは、主人にとって栄誉でした。ラビは、「食物を欠かすことのないように」(つまり、神の祝福を締め出さないように)、食事中に戸を開けたままにさせました。[1]

どうやら、女性がそこいたのは客として招かれていたからではなく、食事の様子を見ることが許されていたからのようです。けれども、なぜ彼女はそこにいたのでしょう。おそらく、以前イエスが話していることを聞いて人生が変わったので、そこにやってきたのでしょう。聖書には明確に述べられていませんが、そのように推測されるし、物語が展開するにつれてそれが明らかになっていきます。この物語の後の方で、イエスがシモンに、「彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった」と仰っています。これは彼女がイエスよりも先にそこにいたか、あるいはイエスが到着時に無礼な歓迎をお受けになったその時に着いて、それを目撃したということでしょう。

彼女は、イエスが罪人たちとつき合うのをいとわないことを聞いていたのかもしれません。イエスが、罪のゆるしや、神は彼女のような人たちを愛しておられること、たとえ彼女が罪深くても、神の恵みを受けられることについて話しておられるのを聞いたのでしょう。そして、自分の罪がゆるされたことを喜び、この良き知らせを分かち合ってくださった方への感謝の気持ちを表すために、この家に来たのでした。

彼女は香油が入れてある石膏のつぼを持って来たと書かれています。石膏のつぼとは、香油を入れるために作られた小びんのことで、香油は当時、非常に高価でした。この女性は、イエスが自分にしてくださったことへの感謝のしるしとして、イエスの足に注ぐための香油を用意して来たのです。

しかし、イエスがシモンからお受けになった、冷たく、むしろ侮辱的な応対を見て、彼女は深い悲しみに襲われました。シモンはイエスの足を洗いませんでした。それはシモンがイエスのことを自分よりも下に見なしていたという、確かな証拠です。イエスが自分で足を洗うための水さえ出しませんでした。接吻の挨拶もなしです。これを見て、女性は涙を流しました。自分の人生を変えてくださった方に対する、明らかなもてなしの欠如を、彼女はどうすれば埋め合わせることができるのでしょう。

食事をしているイエスの足が洗われていないのを見て、彼女はシモンがしなかったことをしようと思い立ち、涙でイエスの足を濡らしました。足を拭くタオルは持っていなかったので、髪の毛を下ろしてイエスの足を拭いました。それからイエスの足にキスしたのです。ここで「接吻した」として使われているギリシャ語には、何度も何度もキスしたという意味があります。つまり、彼女はイエスの足にキスを繰り返したということになります。イエスには挨拶のキスがされていなかったため、彼女は何度も何度もイエスの足にキスしたのであり、それは、深い謙虚さと献身、そして感謝の念を公に表すものでした。

夕食に招かれていた客は、この様子を見て愕然としました。彼らはこれを、いろいろな点で間違っていると見なしたことでしょう。女性が髪を下ろすというのは、夫以外の誰の前でも決してしない、親密な行為です。さらに悪いことに、彼女は親戚でない男性に触れました。身持ちの良い女性なら誰もこんなことはしません。

彼女の行動はそこにいた人たちからすれば恥ずべきことと見られました。いかにも不道徳な女がしそうなことだと。彼らは、その女性が以前にゆるされていたことなど、毛頭知りません。恥ずべき罪人としてしか見ていないのです。彼らは、イエスがなぜこの悪評ある女性が自分にそのようなことをさせるのか、信じられませんでした。

物語の続きはこうです。「イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、『もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから』」(ルカ7:39)。

家の主人としての落ち度を見せつけられたにもかかわらず、シモンは心の中でキリストを批判しています。イエスが説教したり教えたりされているのを聞いて、シモンはおそらく、イエスははたして本当に預言者なのだろうかと考えていたのでしょう。どうも、イエスがそうであるという考えを、拒んでいたように見えます。シモンの頭の中では、もしイエスが預言者であるなら、あの女性がイエスに触れるというのは不道徳なことであり、ゆえに彼女から汚されていることを、イエスは知っているはずだと考えていたからです。

おそらく、シモンがイエスを食事に招いたのは、イエスを試みて、本当に預言者なのかどうかを見るためだったのでしょう。シモンはその場で起きたことを見て、頭の中で、イエスには識別力が欠如していると考えた結果、おそらく、イエスは神の預言者としての霊的基準を満たしていないと確信したことでしょう。

しかし、シモンは間違っていました。イエスはその女性の霊的状態をご存知でした。後に「その多くの罪」と述べている通りです。イエスはまた、イエスが以前神のゆるしについて語られたのを彼女が聞いて、信仰によってそれを信じたゆえに、彼女の罪がゆるされていることもご存知でした。それ以外にも、イエスはシモンの思いを見抜いたことで、ご自分が預言者であることを示しておられます。シモンは自分の考えを言葉にしなかったというのに、イエスはそれに答えられたのです。

「そこでイエスは彼にむかって言われた、『シモン、あなたに言うことがある。』 彼は『先生、おっしゃってください』と言った」(ルカ7:40)。

「あなたに言うことがある」という言葉は、聞き手が聞きたがらないような率直な話をする時の前置きとなる、中東の典型的な言い回しです。話がここまで来て、イエスは金を借りた二人の人についての短いたとえ話をされます。

「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」(ルカ7:41-42)。

1デナリは、一日分の労働に対して通常与えられた賃金でした。ですから、たとえ話に出てくる、金を借りた一人の人は、500日分の賃金に当たる額を、そしてもう一人の人は50日分に当たる額を、金貸しから借りていたということになります。明らかに大きな差です。金貸しは、この二人の借り手が払えなくなると、寛大にも借金を帳消しにしてやりました。

新約聖書を通して、「ゆるす」という動詞は、負債をゆるすといった金銭的な意味と、罪をゆるすといった宗教的な意味の両方に使われています。イエスはたとえ話の中で金銭的な意味で話していましたが、先を読めばわかるように、負債のある者、借りのある者という言葉は、神による罪のゆるしに関しても使われています。

負債をゆるした人を最も愛したのはどちらかという質問に対し、シモンが答えました。「『多くゆるしてもらったほうだと思います。』 イエスが言われた、『あなたの判断は正しい』」(ルカ7:43)。

シモンは、このたとえ話がいわば言葉の罠のようであり、自分はそれに引っかかったとわかったので、言葉を濁して、「だと思います」と答えました。たとえ話の要点は、恵みや自分に値しない好意を受けた時の適切な反応とは愛であり、負債を多くゆるされた人が最も愛し、最も感謝の気持ちを表すということです。その点をはっきりさせたうえで、イエスはシモンに率直に語られます。

「それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、『この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである[この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる(新共同訳)]。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない』」(ルカ7:44–47)。

この言葉はシモンに対して語られたものですが、イエスは話している時に女性の方を向かれました。そして、「シモン、あなたはこの女を見ないか」と尋ねられた時、イエスはシモンに、彼女を一人の人間として見させようとしていました。罪人としてではなく、多くをゆるされ、それゆえに多く愛し、行動によって愛と感謝を表している人として見てほしかったのです。彼女の罪はゆるされており、もはや罪人としてではなく、神の子どもとして、地域社会に迎え入れても良いことに、シモンが気づき、それを受け入れることを望んでいたのでした。

イエスはシモンの落ち度を口にされ、女性の気高い行為と対比されました。それは、シモンがすべきだったことを、はるかに超える行為だったのです。そして、イエスは彼女の大きな愛と、ゆるされた罪の大きさとを関連づけられました。

「そして[イエスは]女に、『あなたの罪はゆるされた[赦されています(新改訳2017)]』と言われた」(ルカ7:48)。

イエスが言われたのは、その時に彼女の罪をゆるそうということではなく、彼女の罪はすでにゆるされているということです。彼女が表した愛と、溢れ出る感謝の気持ちは、以前にイエスが話されているのを聞いてすでに受け取っていたゆるしへのお礼だったのです。ゆるしを必要としている人がそれにふさわしくなくても、神は慈しみ深くも罪をゆるされるのだと知ることで、彼女に大いなる喜びと解放がもたらされたのでした。

食卓にいた他の来客は、要点をすっかり逃しました。彼らは検討外れなことに焦点を合わせ、イエスの言われたことを間違って解釈したのです。「すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、『罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう』」(ルカ7:49)。

イエスはたしかに、福音書全体を通して人々の罪をゆるしましたが(宗教的指導者らはこれを神を冒涜する行為と思いました)、その女性の罪をその場でゆるそうとされたのではありません。彼女の罪はすでにゆるされていたのです。

「イエスは女にむかって言われた、『あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい』」(ルカ7:50)。

彼女の信仰が彼女を救いました。神の恵みを信じていたのです。そして、それを受け入れました。自分は救いを受けるにふさわしくないことを、彼女は知っていました。多くの罪を犯していたので、救いを受けるにふさわしい人間になるためにできることは何もありませんでした。彼女は主から言われたこと、すなわち、信仰があり、信じ、受け入れるだけで、十分であるということを、信じ、受け入れたのです。

それが、この物語の結末です。シモンがどう反応したかは何も書かれていません。彼は要点をつかんだのでしょうか。自分も負債のある者であり、神の愛とゆるしを必要とする罪人であることを理解したでしょうか。その女性がゆるされており、今は別人であることを認めたでしょうか。また、彼女を地域社会に再び受け入れたでしょうか。これらの質問の答えは書かれていません。物語を読む私たちがそれを考え、自分自身で結論を出すようになっています。

シモンの家での出来事について考えてみると、私たちが主に対してどのように応答し、人をどう扱うべきかについて、人生に適用すべき問いがいくつも浮かんできます。私たちは今でも、自分自身の救いについて感謝の気持ちを抱き、あがないについて神に賛美と感謝を捧げているでしょうか。イエスが私たちの罪を負って罰を受けるためにどれほどの代価がかかったかを、忘れないようにしているでしょうか。あるいは、救いの喜びと驚嘆の気持ちを失ったのでしょうか。

私たちは、イエスと同じ見方で他の人たちを見ており、イエスは彼らのためにも死なれたのだし、救いという素晴らしい贈り物を彼らにも受け取らせたいのだということを認めているでしょうか。負債がゆるされたことへの感謝によって、他の人たちがそれと同じゆるしを見いだすのを助けようという意欲を駆り立てられているでしょうか。救いに導くために、彼らを愛し、話をし、自分自身や時間、努力、気力を捧げているでしょうか。どんな相手にも、そうしているでしょうか。貧しい人でも、金持ちでも、若い人でも老人でも、無学な人でも、知識人でも、愛するのが難しい人でも、愛しやすい人でも、罪人でも、信心深い人でも、社会ののけ者でも、受け入れられている人でも、関係なく、そうしているでしょうか。イエスは彼らを救おうとしておられます。私たちはそれを実現させるために、自分の分を果たしているでしょうか。

私たちは皆、多くの罪をゆるされています。私たちも同じように多く愛して、その愛を他の人々と分かち合えますように。

初版は2013年7月 2026年4月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク


1 Kenneth E. Bailey, Jesus Through Middle Eastern Eyes (InterVarsity Press, 2008), 246 footnote 15.

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