4月 29, 2026
聖書を1年で一気に速いペースで通読するという方法には、賛否両論があります。反対する人たちは、そのやり方では多くのニュアンスを見落とし、重要な点を見過ごし、読んだ内容をじっくり考えたり、きちんと理解したりする時間がない、などと言います。これらはもっともな指摘ですが、私自身も1年で聖書を通読してみて、いくつか意外な結論に至りました。
姉とその友人が、1年で読めるように構成された年代順聖書を送ってくれたのです。最初は、前述の理由からあまり乗り気ではありませんでしたが、わざわざ送ってくれたことだし、主に背中を押されて、私はこのチャレンジを受け入れることにしました。
確かに、大変ではありました。毎日読まなければならない文章量が膨大だったため、普段のように読んだ箇所についてじっくり考えたり、黙想したり、聖句を比較したり、メモを取ったりする時間はほとんどありませんでした。しかし、聖霊は私たちにすべてのことを教え、真理を理解するよう導くことのできる方です(ヨハネ14:26; 16:13)。神の言葉は、速く読もうと、ゆっくり丁寧に読もうと、力強いものです。
聖書を1年で通読したことで、他にもいくつか価値あるものを見いだしました。長期入院中、聖書は常に私の傍らにあり、私が取り組むべき具体的な課題を日々与えてくれました。また、全体像を把握することには、大きな意義があります。途中で休まず、中断せずに聖書を読み進めることで全体像が得られ、ゆっくり読むときには気づけない大切な原則を発見できるのです。
例えば、書簡を速読していたとき、以前は見逃していたあることに気づきました。それは、パウロがキリストにどれほどの重点を置いているかということです。彼の手紙はすべて、キリストを中心に展開しています。すべてはイエスに関してなのです。イエスは至高の存在です。比べてみれば、他のすべてはパウロにとって、取るに足らず、価値がなく、重要ではありません。パウロはキリストに完全に心をつかまれていました。ユダヤ教の伝統も、文化の違いも、すべて取るに足りません。パウロの著作では、イエスが最も重要で一番の存在です。彼は実に、イエスに夢中なのです。書簡に次ぐ書簡で、彼はイエスについて熱弁を振るっています。パウロにとって、他のことは何も重要ではなかったのです。コリントの信徒たちにこう書いたように:
「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである」(1コリント2:2)。
キリストがすべての中心であることを示す聖句は数え切れないほどありますが、ここではキリストの至高性を示すものをいくつかを紹介したいと思います。
「なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである」(1コリント3:11)。
「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である」(エペソ2:19–20)。
「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る」(エペソ3:17–19)。
「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」(1テモテ2:5)。
大預言書と小預言書を読み返したときにも、同じような感覚がありました。速く読み進めることで、預言者たちのメッセージの全体像が見えてきて、今日の世界にもかなり当てはまる聖句が、いくつも目に入ってきました。
最近、著名な新約聖書学者であるN・T・ライトが、これと似た考えを述べているのを耳にしました。聖書を速読することについてどう思うかと尋ねられたとき、彼は、何も悪いことではないと答えました。それなりの意義があるし、天の下のすべてのことには時があるのです(伝道の書3:1)。速く読むか、ゆっくり読むか、どちらを選ぶにせよ、大切なのは、聖書を継続して読み、学ぶことです。聖書は、神が私たち一人ひとりに宛てた愛の手紙なのですから。
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