イエスの復活(パート2)

4月 3, 2026

The Resurrection of Jesus—Part 2
March 30, 2026

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 11:27
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復活されたイエスに会った後、女性たちはイエスから言われたとおり、そこから出ていって、イエスが生きておられることを弟子たちに話しました。ルカの福音書には、弟子たちは「それが愚かな話のように思われて」、 女性たちの言うことを信じなかったとあります(ルカ24:10–11)。

「しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った」(ルカ24:12 新改訳2017)。弟子たちは信じませんでしたが、ペテロはそれでも墓へ行き、状況を確認してから、驚きながら家に帰りました。

ルカは続けて、2人の弟子に起こったことを記しています。この人たちは、どちらも11使徒ではなく、おそらく歩いて自分の家に戻るところだったのでしょう。

この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった(ルカ24:13–16)。

エマオという地名は、聖書でこの箇所にしか出てこないので、それがどこにあったのか、正確な場所は知られていません。その途上で、この2人の弟子は最近の出来事について論じ合っていました。ずっと大変なことが続いていたのです。イエスは逮捕され、死刑宣告を受け、十字架にかけられ、埋葬され、そして三日後には墓が空っぽになっていました。彼らはエルサレムを出てきたということなので、おそらく家に戻って、以前の生活に戻ろうとしていたのでしょう。

ところが、ここで思いがけないことが起こりました。いっさいの出来事について論じ合っている時、「イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた」のです。しかし、「彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」とあります。ヨハネの福音書にも、イエスの弟子たちが復活されたキリストに気づかなかったという、似たような状況が記されています。「イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった」(ヨハネ21:4)。マグダラのマリヤも、初めは復活されたキリストに気づきませんでした。「うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった」(ヨハネ20:14)。

道を歩いていた例の2人の弟子に、イエスは話しかけられました。

イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか。」 彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」(ルカ24:17–18)。

クレオパは、イエスの質問にショックを受けています。エルサレムから来た人が、この数日の出来事を知らないなんて、信じられなかったのです。イエスの裁判と十字架刑は、それほど周知の出来事だったからです。

「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです」(ルカ24:19–21)。

クレオパともう1人の弟子は、イエスを信じ、イエスとその宣教にかなりの望みをかけていました。しかし、逮捕や十字架刑など、大変な出来事があって、彼らは失望していたのです。イエスは公生涯の間、死人をよみがえらせるなど、力強いわざをなされましたが、祭司長たちや役人たちはイエスを拒みました。この人たちが、十字架刑に処せられるようにとイエスをローマ人に引き渡したのであり、彼らのせいでイエスは死刑宣告を受けたのです。

イエスが十字架につけられてから三日目になっています。福音書のいくつもの箇所でイエスが予告された、あの「三日目」です(ルカ9:21–22; マタイ20:17–19)。

2人の弟子は、ルカがこの章の冒頭に記していた、女性たちが墓に行くと、イエスの体が見当たらなかったという出来事を、かいつまんで述べています。

「ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」(ルカ24:22–24)。

この説明には、墓が空っぽだったことや天使が現れたこと、また、イエスは生きておられると天使から告げられたことが含められています。しかし、この2人が言うには、他の弟子たちが墓に行くと、そこは空っぽで、イエスに会うことはありませんでした。そこでイエスは、彼らに答えてこう言いました。「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」(ルカ24:25–26)。

イエスは、この2人の弟子たちを「愚かで心のにぶいため … 信じられない者たち」 と呼ぶことによって、彼らは明白なことも分かっていないことを指摘されました。イエスは、預言者たちが説いた「すべての事」と言うことによって、この件については旧約聖書の教えに多くが書かれていることを強調されました。イエスは、キリストが必ず苦難を受けて、その栄光に入ることは、イザヤ書などに書かれているので、彼らはすでに聖書から知っているべきだったと言われたのです(イザヤ53:5–7)。

「こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」(ルカ24:27)。このようにイエスは、聖書(旧約聖書)全体にわたり、約束されたメシアであるイエスについて記してあることを、クレオパともう1人の名前が明かされていない弟子とに説明されました。

イエスと2人の弟子たちがエマオの村に近づいた時、イエスはなお先へ(おそらく次の村へ)進み行くような様子をされました。その日はもう遅く、夕暮れも近かったため、弟子たちはイエスを無理に引き止めました。イエスは彼らの言うとおりにして、「一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった」(ルカ24:28–31)。

2人の弟子たちはイエスと一緒に食卓につきましたが、それでもまだ、それがイエスであることに気づきませんでした。そして、彼らの目が開け、それがイエスであることがわかった途端に、イエスは姿を消されたのです。福音書の幾つもの箇所に、イエスが復活後、信者たちの前に現れたり、姿を消されたりしたことが書かれています。(参照: ルカ24:36; ヨハネ20:19

イエスの姿が見えなくなってから、2人の弟子は互いにこう言いました。「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」(ルカ24:32)。2人の弟子が、それまで一緒にいたのはイエスであったと気づいた時、イエスがいて話をしてくださったことが彼らに与えた影響について、興奮した口ぶりで互いに語りました。

そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した(ルカ24:33–35)。

2人の弟子は、イエスに会ったことを仲間に知らせたかったので、道を引き返し、エルサレムへ戻りました。しかし、自分たちの身に起こったことを告げる前に、別の人たちの話を耳にすることになりました。「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と聞かされたのです。

復活したキリストに会ったという、この2件の出来事について話していると、「イエスが彼らの中にお立ちになった。そして『やすかれ』と言われた。」 しかし、使徒たち、そして彼らと共にいた他の弟子たちは、霊を見たのだと思い、驚き恐れました(ルカ24:36–37)。彼らを落ち着かせるために、イエスは2つの質問をされました。

「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ。」 こう言って、手と足とをお見せになった(ルカ24:38–40)。

イエスは弟子たちに、手や足を見て、十字架刑で受けた傷を確認するよう言われました。この箇所やヨハネ書にある記述(ヨハネ20:25)から、イエスは十字架に縛り付けられただけではなく、釘付けにされていたことが分かります。傷を見る以外にも、体を触ってみるように言われました。肉と骨のある体を持っており、肉体を離れた霊とは異なることを知ってほしかったのです。

彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた(ルカ24:41–43)。

イエスは、何か食べ物があるかと尋ね、食卓について一緒に食事をすることで、自分は幽霊でも幻影でもないことを示されました。また、それは、イエスが本当に死からよみがえられたという証拠でもあります。イエスは彼らに現れ、話をし、共に食事をされました。イエスが死から復活されたことについて、疑いの余地はなくなったのです。

「それから彼らに対して言われた、『わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する』」(ルカ24:44)。イエスが「話して聞かせた言葉」 とは、イエスの教え全般のことではなく、ご自身の死と復活についてされた教えのことです。

イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民[あらゆる国の人々(新共同訳)]に宣べ伝えられる」(ルカ24:45–47)。

イエスの説明によって、弟子たちは、イエスの死や復活に関する聖書の教えをよりよく理解することができました。それは、以前、幾つかのことが彼らから「隠されて」いたため、よく理解できなかったことと対照的です(ルカ9:45, 18:34)。

イエスが挙げたもう1つの点は、「その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということです。神の将来の計画がここに示されています。悔い改めと罪の赦しのメッセージが、すべての場所で宣べ伝えられるということです。イエスが指示されたのは、まずエルサレムで宣教を始め、いずれは他の地域にも移って、全世界に福音を伝えよということでした。

イエスはさらに、「あなたがたは、これらの事の証人である」と言われました(ルカ24:48)。弟子たちは、イエスの生涯、死、復活、そして昇天の目撃者です。彼らは、復活のキリストとの個人的な経験を伝えるという委任を受けており、あらゆる国の人々にメッセージを伝えるという任務がありました。それは、今日のイエスの弟子たちの任務でもあります。イエスに従う者として、私たち全員もまた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」との召命を受けているのです(マルコ16:15)。

初版は2022年7月 2026年3月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク

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