神の導きに従う

2月 20, 2026

Following God’s Lead
January 27, 2026

引用文集

オーディオ所要時間: 11:54
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多くの人と同じように、私も予測可能な状態を好みます。変化というのは未知の世界へ踏み出し、慣れ親しんだルーティンを手放すことを意味しており、それは怖いことですし、同時にある程度のコントロールを手放すということであり、それもまた怖いものです。どれほど準備を重ねたとしても、関わる要素があまりにも多く、すべてを自分の思い通りにすることはできません。

プライス・プリチェットは、「変化は常に贈り物を携えてやってくる」と書きましたが、誰しも、その贈り物が本当に価値あるものなのだろうか、変化に伴う不快感と向き合うくらいなら、いっそそれを受け取らないほうがいいのではないか、あるいは少なくともそのほうが楽なのではないか、と思ったことがあるのではないでしょうか。しかし往々にして、私たちには選択の余地がありません。望むと望まざるとにかかわらず、変化はやってきます。

けれども最近、ひとつ実感していることがあります。それは、神と共に歩むなら、変化は一人で乗り越えるよりもはるかに容易に通り越せるということです。

神はすべてをご存じです。未来さえも。神は私たちにはできない方法で備えてくださり、万事を共に働かせて益としてくださいます(ローマ8:28)。曲がり角や予想外の出来事にも、神は決して驚かれることはなく、たとえその時に何が起きているのか私たちには理解できなくても、神はこれから起こることのために私たちを導き、備えてくださるのです。

神はすべてを支配しておられます。私たちを造り、私たちのうちに始められた御計画を成し遂げてくださる方が味方でいてくださると知ることは、どんな状況に直面するときにも必要な確信を与えてくれます(詩篇138:8)。「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)。

変化の時に神が気づかせてくださる最も大切なことの一つは、私たち一人ひとりへの神の無条件の愛です。変化が困難で恐ろしく、心が痛むものであっても、神はずっとそばにいてくださいます。神の愛は決して揺らぐことがなく、私たちにとって最善のものだけを望んでおられます。私たちは数えきれない変化や経験を通して人格が形づくられ、やがて変えられていきますが、神は変わらず支え続け、常に頼ることのできる方です。神は私たちが持ちうる最高の友です。そして、これだけは決して変わりません。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル13:8)。—ローナン・キーン

ゲージとインジケーター

昨年の夏、私は我が家のワゴン車をだめにしてしまいました。まさかそんなことになるとは、誰も思っていませんでした。真夏の真っ盛り、しかもラッシュアワーのピーク時に、私は道に迷いながら運転していました。のろのろと進む渋滞の中で、突然エアコンが止まってしまったのです。渋滞にはまり、しかもエアコンも効かないなんてついていない、と思いました。そして、物事がうまくいかないときに私がよくやるように、無理やり乗り切ろうとしたのです。

やっとGPSが使えるようになり、子どもたちを迎えに行く場所にたどり着けたので、窓を全開にして帰路につきました。家まであと少しというところで、妙な音が聞こえ始めました。3キロほど先にガソリンスタンドがあるのを知っていたので、そこを目指して走り続けました。スタンドに入るころには、まるで周囲に私たちの到着を知らせるかのように、オイルの混じった煙がもくもくと上がっていました。

一目で「要救助の女性」と分かる私の周りには、数分もしないうちに何人もの男性が集まってきました。彼らはすぐに、ラジエーターが空っぽで、深刻なオーバーヒートを起こしていることを突き止め、そしておそらくエンジンに亀裂が入っているだろうと言いました。

そのうちの一人が、ダッシュボードの温度計を見せてくれました。針は上限あたりで激しく振れていて、エンジンが加熱していることを示していました。おそらくその水温計は、テキサスの灼熱の炎天下、オーバーヒートした車を100キロも無理やり走らせようとするずっと前から、私に警告を発していたはずなのです。

もしその警告サインに注意を払い、水温計を確認していれば、エンジンが加熱していることに気づけたはずです。路肩に止めてラジエーターに冷却液を補充する方法を考えることもできたはずです。ほんの小さな行動で、車は救えたのです。後知恵とはまさにことのことです!

この経験を通して、人生に応用できる大切な教訓を学びました。神は私たち一人ひとりに、肉体的・精神的・感情的・霊的に必要なものを知らせるゲージを備え付けておられます。疲れや消耗を感じ始めたなら、そのサインに気づき、立ち止まって霊を補充し、神とその御言葉との交わりの時間を費やす必要があるのです。

時に、無理やりやり抜こうとする衝動に抗うのは難しいものです。そうすることで危険信号を見逃してしまうこともあります。イエスはその誘惑を理解し、ストレスのピークにどう対処するかを私たちに教えてくださいました。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28–30)。

イエスによれば、私たちはいつも自分でコントロールし、力ずくで乗り切らなければと感じる必要はありません。重荷を負って苦労している時、つまり、押しつぶされそうになり、負担を抱え込み、圧倒され、ストレスにさらされている時、私たちは主のもとに行けばよいのです。主が休みを与えてくださいます。

ゲージに耳を傾け、インジケーターに注意を払うことは、身体と心と霊が生きのび、栄えるために何を必要としているのかに意識を向ける助けになります。神と交わり、導きを求める時間をとることは、その日に訪れるあらゆる出来事に備える力を与えてくれます。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:33)。—マラ・ホドラー

召しにふさわしく生きる

哲学者や神学者たちが何千年もの間、苦悩してきた革新的な問いの一つとは、何が人生に意味を与えるのかという神秘です。誰もが幸せで満たされた人生を望みますが、本当の幸せとは何か、それはどこから来るのかを、どうすれば知ることができるのでしょうか。

古代ギリシャの人々は、幸福の源は内面にあり、価値ある人生を生きることで育まれると信じていました。彼らはその状態を「ユーダイモニア」と呼び、アリストテレスはこれを、自らの才能を発揮し能力を試される活動に取り組み、他者の益となる行動をとること、原理と徳に導かれて生きることだと説明しています。ただ能力や資質を持っているだけでは十分ではありません。ユーダイモニアは、それを実践し行動によって表すことを求めるのです。

パウロはエペソ人への手紙の中で、そこにいるクリスチャンたちに、「召しにふさわしく歩みなさい」と勧めています(エペソ4:1)。そしてそれは、周囲に人々に対して謙虚で柔和になり、忍耐と愛を持ち、平和をもって互いに接することによって実現されると語っています(エペソ4:2–3)。

徳と原則に基づいて生きることは、素晴らしい響きを持っています。しかし残念ながら、私たち人間は不完全であり、自力ではそれを達成できないことが多いのです。それでも信仰者として、私たちは神の力に頼って、自らの限界を超え、さらに前進することができます。「神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を安全にされました」(詩篇18:32)。

かつて史上最高の賢者といわれたソロモンもまた、この世と自分自身のためだけに生きる人生のむなしさを悟りました。そして彼は答えにたどり着きます。伝道の書において、意味と幸福を求めた探求の結論として、彼はこう記しています。「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」(伝道の書12:13)。

神と他の人々の幸福を自分の思いや行動の中心に置くことを学ぶほどに、私たちの人生はより深い意味と目的を持つようになるのです。—ローナン・キーン

2026年1月アンカーに掲載 朗読:ジョン・ローレンス 音楽:マイケル・フォガティ

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