塩となれ、光となれ

2月 16, 2026

Be Salt and Light!
October 3, 2023

引用文集

オーディオ所要時間: 8:14
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日々出会う人に神の愛を示すことは、クリスチャンとしての人生のかなめとなるものです。この点について使徒パウロは、それをするようにと「キリストの愛がわたしたちに強く迫っている」とさえ語っています(2コリント5:14)。世界に神の愛を伝える上で、神が一人一人をどう導かれるのであれ、私たちは皆「世の光」となり、その「光を人々の前に輝かし、そして、人々が[私たち]のよいおこないを見て、天にいます[私たち]の父[=神]をあがめるように」、神に召されているのです(マタイ5:14, 16)。

何世紀もの間、それどころか、キリスト教のごく初期の頃から、クリスチャンはよく、地域社会における「善を促進する力」として知られることによって、世界に手を差し伸べてきました。たとえクリスチャンとしての信条が受け入れられず、信仰が理解されなかった時でも、また、クリスチャンが迫害され、中傷されていた時でも、彼らの親切な行いや善行はすべての人の前で明るく輝き、その結果、人々は、クリスチャンがどうして他の人たちとそれほど違うのか知りたがるようになりました。使徒ペテロが語った通りです。「[信じない人たち]の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう」(1ペテロ2:12)。

私たちがそれぞれ自分の地域社会で手を差し伸べ、神が出会わせてくださる人を霊的な面や実際的な面で助けるようにし、神の愛を示して、どんな形であれ相手の人の人生をより良くするためにできることをするならば、そのような良い行いは次第に「燭台の上のあかり」となっていきます(マタイ5:15)。

隣人に手をのばし、信仰を行動に移すことによって、私たちの愛や気づかいを目に見える形で示すなら、神の愛の生きた手本になることができます。時間や能力があまりなくても、地域社会に手を差し伸べ、率先して必要を満たし、できる時に連帯を示し、他の人の人生の幸福や質に関心を示すことはできます。そうすることで、神の愛を行動に移すことになるのです。—ピーター・アムステルダム

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聖霊の導きのもと、キリストに従順に生きるクリスチャンは、塩が振りかけられた食べ物の味に良い影響を及ぼすのと同じく、必然的に世界に良い影響を与えます。私たちは、争いのあるところでは、平和をつくる者であるべきです。悲しみのあるところでは、キリストの奉仕者として傷を癒やすべきです。憎しみのあるところでは、キリストにある神の愛を身をもって示し、悪に対して善を返すべきです(ルカ6:35)。

「世の光」の比喩において、キリストの弟子たちは、すべての人に見えるように良い行いを輝かせなさいと言われています。「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:14–16)。… この世におけるクリスチャンの存在は、闇の中の光のようでなければなりません。それは、神の言葉の真理が、罪深い人間の暗くなった心に光をもたらすという意味だけでなく(ヨハネ1:1–10)、私たちの良い行いを、すべての人にはっきりと見えるようにすべきだという意味でもあります。…

塩や光としての立場は、キリストの戒めに謙虚に従うことから自然に生じるものです。私たちと世の人との違いがあいまいになり、証が妨げられるのは、御霊に導かれた真の弟子としての生き方から外れたときです。キリストに目を注いで、従順であり続けることによってのみ、私たちは世において塩や光であり続けることができるのです。—GotQuestions.org [1]

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聖書が示す事実とは、「あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい」(1ペテロ3:15)という召しが与えられていることです。私たちは、聖書の真理を必要としている人たちが自分のもとに来るのを待つのではなく、こちらから彼らのもとに赴く(マルコ1:39)という主の模範にならい、闇の中に光を携えていくよう命じられています(マタイ5:14–16)。

パウロが当時の文化的・霊的問題に取り組んだように(参照:使徒17:16–31)、私たちもそうしなければなりません。彼の問いは、今の世にも通じるものです。「信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか」(ローマ10:14)。

脱キリスト教化社会から撤退することは、主の大宣教命令(マタイ28:18–20)に従おうとする者にとっては、選択肢ではありません。他文化との関わりは居心地が悪いこともあり、文化的に敵対してくる人から敵意を向けられることもありますが、私たちは出会うすべての人に、私たちの人生を変えた真理を聞く機会を与える義務があるのです(参照:ローマ1:14)。

そういった意味で、私たちは文化の戦士ではなく、文化の宣教師です。戦士は、自分たちの敵が間違っていると信じて戦い、相手を打ち負かそうとします。宣教師は、自分たちが奉仕している相手よりも優れているわけではないと知っており、自らに伝えられた良い知らせを他の人にも伝えようとします。

後者を選ぶに当たり、良い知らせ(福音)は確かに良い知らせなのだという事実を、決して忘れてはなりません。ヘンリ・ナウエンは、こう述べています。「喜びは、世界の状態に関する楽観的な予測から生まれるのではありません。人生の状況の浮き沈みに左右されるものでもありません。喜びは、私たちの生きる世界が闇に包まれているとしても、神がすでに世に打ち勝っておられるという霊的な認識に基づいています。イエスは、力強く、はっきりと、こう言っておられます。「この世において、あなたがたには苦難がある。しかし、喜びなさい。わたしはすでに世に勝っている。」

「驚きとは、物事が思いがけず予想よりもうまく行くことではありません。そうではなく、真の驚きとは、神の光があらゆる闇よりも現実的であること、神の真理があらゆる人間の嘘よりも強いこと、そして、神の愛が死よりも強いことなのです。」

あなたが今日出会う人は、あなたを通してそのような光を見、そのような真理を聞き、そのような愛を体験するでしょうか。—ジム・デニソン [2]

2023年10月アンカーに掲載 朗読:ジェリー・パラディーノ 音楽:マイケル・フォガティ


1 https://www.gotquestions.org/salt-and-light.html

2 The Daily Article (December 16, 2022).

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