1月 31, 2026
聖書は、この世界にしても、そこに住む私たちの人生にしても、それがすべてではないと言っています。私たちの霊は体が死んだ後も生き続けるので、この人生は私たちの存在のほんの一部だからです。また神の言葉は、人間である私たちは、まず神と和解することなしに、来世において神と共にいることはできないとも教えています。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。
神は、この世界とそこに生きる私たち一人ひとりへの大いなる愛により、私たちの罪のために死なれたイエスを通して、私たちとご自身との間にできた溝を埋められるようにしてくださいました。この大いなる愛の行為により、イエスを救い主として受け入れた時に私たちの罪はゆるされ、私たちは来世において神のおられるところで生きることができます(エペソ2:4–6)。私たちはクリスチャンとして、この深い真理を信じています。イエスが犠牲を払われたゆえに、イエスを受け入れた人は全員、来世において永遠に神と生きられると知るのは、なんと安心できることでしょうか。
しかし、この話には悲しい部分もあります。それは、すべての人が神の救済計画を耳にしたわけではなく、多くの人は、イエスを信じることで自分も神と共に永遠に生きることができるのを知らないか、理解できないか、受け入れていないということです。私たちのほとんども、別のクリスチャンからじかに、あるいはクリスチャン系文書かメディアを通して聞くまでは、このことを知りませんでした。私たちはそれを聞き、信じたので、永遠の命を受け継いだのです。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである」(エペソ2:8–9)。
私は、高校の頃の友だちが私に証し、辛抱強く私の質問に答え、私が理解できるよう簡単に説明してくれたことで、信じるようになりました。友人は、鍵となる聖書の節を幾つか私に見せてくれ、それが私の心に強く語りかけたのです。そうやって、関心と忍耐と気遣いと理解を示しながら、私の質問に答え、神が私に抱いておられる深い愛を説明してくれました。私の人生は完全に変わりました。答を探していた時に、誰かが時間を取って私に証し、信仰を伝えてくれたからです。
きっと皆さんにも似たような話があるでしょう。誰かがあなたにイエスのことを告げてくれたのです。説教師から救いのことを聞いたか、誰かが学校や街頭やレストランであなたに証してくれたのかもしれません。おそらく、友だちか親戚、職場の人、あるいは、バスや電車や飛行機で隣りに座った人が話してくれたのでしょう。
私たちが日々の生活の中で、他の人々に対してイエスの愛、受容、そして憐れみをどのように示すか、私たちの生き方、示す愛、内に宿る御霊の光は、人々を主のもとへ引き寄せる重要な要素です。しかし、説明の言葉も必要です。出会う人に主や救い、信仰について語る必要があります。使徒パウロも、こう書いています。「なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか」(ローマ10:13–14)。
他の人たちに福音について語ることは、この人生の後にも生命があることや、人類に対する神の深い愛ゆえに、十字架上でのイエスの死によって、神と永遠に生きるという贈り物、機会が与えられたということを伝えるための鍵です。クリスチャンが「宣べ伝える」ことをしないなら、人々はこの素晴らしい知らせを聞き、救われる機会を失ってしまいます。どのような状況にいようと、この知らせを分かち合いなさいという呼びかけが、いつも私たちに与えられているのです。イエスは言われました。「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむす[ぶためである]」(ヨハネ20:21, 15:16)。
私たちはそれぞれ、救いという無料の贈り物を受け取りました。私たちにとってそれは無料ですが、イエスにとっては高い代価がかかっています。イエスは人類の贖いのためにご自身の全てをお与えになりました。しかし、メッセージを他の人たちに分かち合うことについては、主はそれを私たちクリスチャンに頼り、命じておられます。そして、私たちがそうしないなら、人々が他の方法でそれを耳にするという保証はありません。
使徒パウロは、福音を他の人たちに伝えることがどれほど大切なのかを、このように簡潔に述べました。「なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである」(1コリント9:16)。この節は、他の聖書訳(英語訳)ではこのように訳されています。「私にはそうする責任がある」(NRS訳)、「私は宣べ伝えるよう迫られている」(NIV訳)。また、次のように表現しているものもあります。「私はそうするよう、神に強要されている。もし良き知らせを宣べ伝えないなら、それは私にとっていかに恐ろしいことだろうか」(NLT訳)。
クリスチャンとして私たちは素晴らしい贈り物を授かっており、それは誰でも受け取れるものです。私たちは高価な真珠を見つけたのです(マタイ13:45–46)。私たちは、天の御国に入るという恩恵にあずかっています。多くの人たちが熱望しているものを、彼らが気づいているかどうかは別として、私たちはすでに享受しているのです。
神の愛と恵みゆえに、私たちは真理と、人生の目的と意味を知れるようにしていただきました。私たちは天の父である神とつながっており、それは永遠に続きます。他の人たちは答や目的、生きる意味を探し求めており、神はその愛ゆえに、イエスを通してのみ見つかる道と真理と命を知る機会を与えたいのです(ヨハネ14:6)。私たちクリスチャンがこれほど豊かに祝福されていながら、他の人々と真理を分かち合わず、イエスが良い知らせを伝えるよう命じられたことを無視してしまうのは、なんと悲しく、なんと残念なことなのでしょう。
私たちは皆、忙しい生活を送っているので、これを実行するのは確かに難しいことでしょう。けれどもイエスは私たち一人ひとりのために、十字架の上でご自身を犠牲にされました。そして、一人のクリスチャンが、あなたに福音を伝えるため、時間と労力を犠牲にしました。よく言われるように、キリストだけがこの世を救えるけれど、キリストひとりでこの世を救うことはできないのです。誰かがイエスや救いについて他の人に話さなくてはいけないし、神があなたと出会うように人を連れてこられた場合、あなたこそがその「誰か」なのです。
神がそれぞれの人のために持っておられる深い愛と気遣いに気づき、また、彼らが永遠の命を持てるようイエスがご自身の命を与えられたことに真に気づくなら、私たちは、たとえ都合が悪いか、困難か、犠牲が大きいか、身を低くさせられることであっても、主が導かれる人や出会わせられる人に、どうしても告げなければならないという気持ちに駆り立てられるはずです。
私たちは、主を知るための機会を人々に提供するよう、魂の救い主に命じられています。それは、私たちに惜しみなく与えられた偉大な贈り物のことを、まだ福音を聞いたことのない、または理解していない人たちに知ってもらうためです。私たちは自分に求められていることを行う気があるでしょうか。魂のために祈り、それから祈りを実行に移すのでしょうか。人々にメッセージを分け合う働き人を祈り求めているでしょうか。そして、自分自身が、その働き人のリーダーになる気があるでしょうか。真理を探し求めている人たちに出会わせてくださるよう、主に祈るでしょうか。神の愛に反応する人たちのところに導いてくださるよう、聖霊にお願いするでしょうか。イエスが与えられた任務に対して、時間、努力、思考、祈り、行動を注ぎ込む気があるでしょうか。永遠の命を必要とする人と顔を合わせた時、私たちは行動に出て、その人に救いのメッセージを伝えるでしょうか。
私たちは、主の証人となり、生き方や言葉、行動を通して福音を宣べ伝えることを委任されています。「あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである」(1ペテロ2:9)。
私たちが、もしイエスから求められたことを実行すると決意しているなら、良き知らせを伝えるという自分たちの役目を果たすでしょう。それが誰かの人生と将来に与える永遠の影響力に気づくなら、私たちはこの大いなる任務を忠実に果たすでしょう。イエスが教えられた通り、自分を愛するように隣り人を愛しているなら、私たちは神がどれほど彼らを深く愛しているかを知らせ、どうすれば彼らもイエスを信じることによって天の御国に入れるかを知らせよう、という気持ちに駆り立てられることでしょう。
良き知らせを広め、他の人々がイエスを信じるようになり、救いと永遠の命という主の贈り物を受けられるように、私たち一人ひとりが自分の役割を果たしていきましょう。
初版は2013年4月 2026年1月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク
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