12月 23, 2025
あなたにとってクリスマスとは何ですか? 多くの人にとって、クリスマスは一年で最も大きな祝日の一つです。仕事や学校が休みになり、休暇を取ってゆっくり過ごせる時期でもあります。一方で、クリスマス・シーズンは大変な時期だという人も多いでしょう。人々は家族や友人、知人へのプレゼントを探して奔走するので、買い物客にとっても店員にとっても、慌ただしい時なのです。またクリスマスは大切な人たちと過ごした過去の休日を懐かしむ、感傷的な時でもあります。
皮肉なことに、クリスマス当日そのものは、その前後の何日も何週間も続く慌ただしさの中で、いつの間にか埋もれてしまいがちです。近ごろは、カードや飾り付けにも「Season’s Greetings(季節のごあいさつ)」と書かれているだけで、「クリスマス」という言葉が全く使われていないものが少なくありません。クリスマスツリーやイルミネーション、プレゼント、雪だるま、ジングルベル、キャンディケインなどが、このお祭りの季節を象徴するものとして人々の心に強く残る一方で、本来の意味はすっかり忘れられてしまっているのです。
クリスマスは、ツリーや飾り付け、プレゼントやパーティーだけではありません。そうした気を逸らすものから少し距離を置くなら、クリスマスの本当の美しさと驚異に気づき、その真価を感謝することができるでしょう。クリスマスとは、宇宙の創造主が、この世への最大の贈り物である御子イエスを、か弱く無力な赤ん坊の姿で遣わされた日を祝う時です。その赤ん坊とともに、愛と希望と救いのメッセージが、あらゆる場所にいるすべての人々にもたらされたのです。
この聖なる幼子は、奇跡によって身ごもった身分の低い一人の乙女のもとに生まれました。しかもその子は王として、いや、まさに王の中の王となる定めを受けていたのです。それにもかかわらず、豪華な宮殿で宮廷の要人たちに囲まれて生まれたのではありません。当時の支配層や権力者たちから、称賛や敬意が寄せられることもありませんでした。むしろ、家畜やろばのいる家畜小屋で生まれ、布切れにくるまれ、動物の餌桶の中に寝かされたのです。
その誕生は、人間の制度や政府から大々的な祝賀や公式な承認を受けることはありませんでした。しかしその夜、近くの丘の上で、身分の低い羊飼いたちは驚きに打たれました。彼らの前に御使いが現れて、こう告げたのです。「見よ、私はすべての民に与えられる大きな喜びの知らせを持って来た。きょう、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです」(参照: ルカ2:10–11)。
すると、まばゆい光が彼らを包み込み、大勢の天使たちが天からの宣言と賛美の歌で夜空を満たしました。「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」(ルカ2:14, 11)。
イエス・キリストは神がこの世界に与えてくださったクリスマスプレゼントです。イエスは、単なる預言者や哲学者、教師、ラビ、あるいは導師ではありません。神の御子です。多くの偉大な教師たちが愛や神について語り教えてきましたが、イエスは愛そのものであり、神そのものです。そして、この世の罪のために死ぬことのできた唯一の方でもあります。イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)。このクリスマス、そしていつまでも、私たちが主の喜びのうちに生きることができますように。—アクティベーテッド誌
卑しい誕生から辱めに満ちた死に至るまで、高く掲げられた王は、予言されていたとおり、自らの民には認められないまま、私たちと同じ人間としての歩みを担われました。それは、私たちを御国へと導き入れるためです。クリスマスとはなんと壮大な物語なのでしょう。
時の初めから、神はご自身の被造物とともに住まわれることを意図しておられました(創世記3:8)。そして感謝すべきことに、時の終わりにおいても、神はまさにそうなさるのです(黙示録21:4)。しかし、最初の家族の不従順によって、その結果、全人類は神から引き離されてしまいました(創世記3:22–23, 詩篇51:5)。
神は、贖いの計画を展開される中で、契約を通して、その使命のために特定の民に対してご自身の臨在を恵み深く与えられました。それはノア、アブラハム、イサク、ヤコブに、そして後にはイスラエルの民に対してなされたことでした。ユダヤ人は、神が自分たちのただ中におられなければ滅びてしまうということを、はっきりと理解していました。モーセが神の栄光を示しくださるよう祈った有名な祈りは、その思いをよく表しています(出エジプト33:12–18)。神が近くにおられるということは、異教の隣国とは違って、イスラエルの民にとっていつも喜びをもって祝われることでした(出エジプト13:21–22, 出エジプト40:34–38)。
「卑しい誕生から辱めに満ちた死に至るまで、高く掲げられた王は、私たちと同じ人間としての歩みを担われました。それは、私たちを御国へと導き入れるためです。」
まさにこのゆえに、イエスの誕生は壮大なのです。宇宙の神は、ご自身で私たちを贖うことを選ばれただけでなく、最も予想外の方法を用いられました。遠くから私たちを救うのではなく、私たちの経験のすべてを分かち合うために来られたのです。かつてはごく少数の人々を通して語り、ご自身を啓示してこられた神は、今や私たちのただ中に住むことを選ばれました。だからこそ、その名、インマヌエルがまさにふさわしいのです(マタイ1:23)。さらにこの名は、マタイのユダヤ人読者たちに、神が幕屋や神殿において彼らの先祖の間に住まわれたことを思い起こさせるだけでなく、その名をインマヌエルと呼ばれる幼子の誕生を告げたイザヤの預言をも暗示していました(イザヤ7:14–17)。
イスラエル民族は長い間、救い主を待ち望んでいました。その救い主が、今や、闇のただ中に現れたのです。この闇は、罪や悲しみを通して、今日に至るまで私たちをとらえる病のようなものです(イザヤ9:1–2, マタイ4:15–16)。しかしそれとは対照的に、聖書は私たちに良い知らせを告げています。光がすでに来たのです(ヨハネ1:9)。
神は幾千年もの時をかけて、御子というこの賜物を私たちにもたらしてくださいました。だからこそ、イエスがどのような方であり、その真の使命が何であるかを正しく理解し、ふさわしい敬い方をすることが大切です。この時を逃さず、もはやためらうことなく、これまで語られてきた中で最も壮大な物語に加わりましょう。高く上げられた王、イエスに立ち返りなさい。—ダフネ・ビャムカマ [1]
ヨーゼフ・モーア神父は、オーストリアのザルツブルク近郊にあるアルンスドルフの小さな教会を司牧していました。会衆は、その村と同じく、素朴な人たちでした。農民や木工職人が多く、裕福さよりも貧しさのほうが目立っていました。彼らは長時間働き、厳しい冬に耐えながら生きていました。クリスマスは、そんな彼らにとって数少ない安らぎの時でした。彼は信徒の群れのために、この祝日の礼拝を少しでも特別なものにしようと、最善を尽くしていたのです。
ところがこの年、1818年に、彼は一つの問題を抱えていました。オルガンが使えなくなってしまったのです。古びた楽器で、ふいごがネズミにかじられていました。教会には新しいオルガンが必要でしたが、そのためのお金はありませんでした。モーア神父はオルガニストのもとを訪れ、落胆した気持ちを打ち明けました。「深夜のミサには、何か特別なものが必要なのです。」
音楽のないクリスマスとは、いったいどんなものだろうか。彼らはそう思いました。クリスマス・イブの前日、神父は死に瀕した女性に終油の秘跡を授けるために呼ばれました。アルンスドルフへ戻ったころには、すでに時刻は遅く、谷も村も闇に包まれていました。神父は町を見下ろす高台で立ち止まります。使えなくなったオルガン、信徒の死、冷え込む夜、そして長い道のり。それら一連の出来事が彼の心を沈ませていました。
彼の心はまるで谷間のように影に包まれていました。しかしそのとき、遠くの家にともる、かすかな光が目に入ったのです。漆黒の夜の幕を背景に、その光はいっそう鮮やかに輝いていました。司祭はその光を見つめ、思いを巡らせます。きっと、ベツレヘムのあの静かで聖なる夜も、このようなものだったに違いない、と。
突然ひらめきを得た彼は、足早に家へ戻り、机に向かって筆を取り、こう書き始めました。[2]
静かな夜、きよしこの夜
闇に包まれ、ただあの光のみ
甘美な祈りを捧げ人々のいる場所で
静かに眠る幼子の上に輝く
天の安らぎのうちに眠れ
天の安らぎのうちに眠れ
静かな夜、きよしこの夜
闇は退き、光が満ちる
羊飼いたちは天使の歌声を聞く
ハレルヤ! 王に栄光あれ!
救い主キリストが生まれた
救い主キリストが生まれた
翌朝、目を覚ますと、彼はその歌詞を携えて、オルガニストのフランツ・グルーバーのもとへ向かいました。グルーバーの心にはすぐにも、この詞にふさわしい旋律が浮かび上がりました。その歌を妻に聴かせると、彼女はこう語ったといいます。「あなたも私も、いつかは死ぬでしょう。でも、この歌は生き続けます。」
そして、そのとおりになりました。この歌、「きよしこの夜」がなければ、クリスマスはクリスマスではありません。私たちは、この歌が告げる約束を大切に抱いています。世界はいまも影の中にあり、死はその覆いを投げかけ、不運はオルガンの音を沈黙させます。それでも、どのような時代が訪れようとも、イエスの光は、今なお輝き続けています。
クリスマスを与えてくださった神に感謝を。今年もクリスマスがあることに感謝を。—マックス・ルケード [3]
2025年12月アンカーに掲載 朗読:ジェリー・パラディーノ 音楽:『Christmas Moments』アルバムより、許可を得て使用
1 Daphne Byamukama, “When Waiting for Christmas Was Over,” africa.thegospelcoalition.org, December 25, 2022, https://africa.thegospelcoalition.org/article/when-waiting-for-christmas-was-over.
2 ドイツ語の原詩から英訳された歌詞より
3 Max Lucado, “We Need Some Christmas This Christmas,” maxlucado.com, https://maxlucado.com/we-need-some-christmas-this-christmas.
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