荒野での誘惑

11月 24, 2025

Temptations in the Wilderness
November 6, 2025

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 12:10
オーディオ・ダウンロード(英語) (11.1MB)

イエスがバプテスマのヨハネによってバプテスマ(洗礼)をお受けになったとき、神の声がして、イエスは神の子であると告げました(マルコ1:9–11)。その際にイエスは聖霊によって宣教のための力を授けられました。神の国を宣べ伝え、人類に救いをもたらすために父から与えられた務めを果たせるようにです。

共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)すべてに、バプテスマをお受けになった直後にイエスが経験されたテスト(試練)の期間について書かれています。マタイによる福音書では、このように書かれています。

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”[御霊]に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた(マタイ4:1–11 新共同訳)。

バプテスマの際に天から下ってイエスの上にとどまった聖霊が(ヨハネ1:32)、テストのためにイエスを荒野へ導かれました。荒野はイエスが宣教を始める前の試験場であり、そこで悪魔はイエスが父の御心を行うのを妨害しようとしたのです。イエスが40日間の断食をされたことは、モーセとエリヤの断食を連想させます(出エジプト34:28; 列王上19:8)。イエスの受けられたテストは、イスラエル民族が荒野に40年いたあいだに経験したことと似ています。そして、それぞれの誘惑に対して、荒野でのイスラエル民族の経験とご自分の経験を結びつけて、申命記から引用して答えられたのでした。

イエスの最初の誘惑は、石をパンに変えることでした。「誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』」 ギリシャ語の原文では、「~なら」の部分は「~なのだから」の意味にとれます。つまり、サタンは、イエスには神の子として石がパンになるように命じる力があることを認めていたのでしょう。

これはどういった意味でテストだったのでしょうか。また、イエスが石をパンに変えることのどこが間違いなのでしょうか。それは、イエスがこれからどのように宣教を行い、どのようなメシアとなり、ご自身の力と権威をどのように用いられるかと関係しています。その力を自分自身の個人的なニーズを満たすために用いるのでしょうか。それとも、父の御心にそって、父に服従しつつ、用いるのでしょうか。神が日々の食物を与えてくださると信頼するようにこれから弟子たちを教えようとしておられる方は、今自分のお腹が空いているときに、同じように父を信頼するでしょうか。イスラエル民族が荒野にいた40年の間、神が彼らを養ってくださったのと同じようにして、今イエスを養ってくださると、神を信頼するのでしょうか。

イスラエル民族が荒野での期間を終えたとき、モーセは約束の地に入ろうとしている人たちにこう語りました。「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった」(申命記8:2–3)。

神は荒野において、イスラエル民族を世話し、必要なものを与えてくださいました。神の子であるイエスは、神を信頼するでしょうか。それとも、自分で何とかしようとするでしょうか。この決断がこれからの宣教を方向づけ、またこれからどのようなメシアになるのかを方向づけるのです。

イエスの答は申命記8章からの引用で、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」というものでした。これはイスラエル民族がしなかったこと、つまり神に信頼するということです。神の御心と導きにそって行動し、ご自身の人生の主権を父に握っていただくことを決意しておられました。

二つ目の誘惑つまりテストとは、マタイによる福音書の順番では、悪魔がイエスに、エルサレムにある神殿の屋根の端から飛び降りるように挑み、もしそうするなら神がイエスを守られると言っているものです。悪魔がイエスをどのようにして神殿に連れて行ったかは書いてありませんが、ただそうしたとだけ書かれています。

最初の誘惑に対して、イエスは聖句でお答えになりましたが、今回は、悪魔の方から詩篇91篇11–12節を引用してきています。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と。なぜ悪魔はイエスを神殿へ連れて行き、飛び降りるように挑発したのでしょうか。悪魔はイエスに、神が保護してくれるか試すように、つまり単純に神の約束を信頼する代わりに、神が奇跡を起こしてイエスを「守らざるを得ない」立場に置くように挑発していました。

イエスはサタンが聖句を用いたことに異議を唱えてはおらず、ただ他の聖句を引用して、悪魔の聖句の使い方が間違っていることを示されました。それは申命記6章16節で、こう書かれています。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」(新共同訳)。

この聖句で言われている出来事とは、イスラエル民族が荒野にいた際に、飲み水がないとモーセに不平を言ったときのことです。モーセは言いました。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」 神はモーセに、ホレブの岩の上で彼の前に立とうとおっしゃり、また、岩を打てばそこから水が出るとの指示をお与えになりました。「彼[モーセ]は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである」(出エジプト17:2–7 新共同訳)。

悪魔の言うとおりに主を試すなら、それはイスラエル民族にとってそうであったように、イエスにとって信仰に欠けた行為となります。イエスは父を信頼しておられたので、神の愛や保護の奇跡的な現れは必要ありませんでした。ご自身の人生が愛情深き父の御手のうちにあるという確信と平安を持っておられたのです。

三つめのテストは、これです。「悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。」 ルカはサタンの誘惑を次のように書いています。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」(ルカ4:6–7 新共同訳)。

今一度、イエスは聖句によってお答えになりました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(マタイ4:10 新共同訳)。

この節は申命記6章にあり、イスラエル民族が約束の地に入るにあたり、モーセが偶像崇拝について警告を与えている箇所からの引用です。サタンは、イエスが彼を拝み、仕えるならば、この世の権力と権威と栄光とを与えようと言いました。それを断ることで、イエスは父に対する忠実さと、世界をあがなうという父の計画に対する忠実さを示されました。この世の権力に興味はなく、神が与えられた道を選び、人類の救いのためにご自身をお与えになるということを示されたのです。悪魔はイエスにこの世とその繁栄を与えようと言いましたが、イエスは父をお選びになることによって、後にこう言うことができました。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」 (マタイ28:18)。

マタイはこう書いています。 「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた」(マタイ4:11 新共同訳)。また、ルカはこのように締めくくっています。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」(ルカ4:13 新共同訳)。テスト期間はこうして終わり、イエスはご自身が忠実でふさわしい方であることを証明しました。そして、天使たちが送られてイエスに仕え、その必要を世話しました。

荒野でイエスが受けられた誘惑に関する情報は、ただイエスから伝わったものです。他にはだれも一緒にいなかったのですから。宣教の合間に、悪魔とのこの遭遇について弟子たちにお話しになったに違いありません。悪魔が離れ去ったからと言って、二度と悪魔から誘惑されなかったということではありませんが、イエスはテストに耐え、宣教を始めるにあたって妨害しようとしたサタンの試みを打ち破られました。福音書には、イエスがサタンとの遭遇やその誘惑について語っておられる箇所が他にもいくつかあります(マタイ16:21–23)。

イエスは十字架の死に至るまで、常に父に忠実であり、その死を通してサタンに決定的な勝利を収め、神の救いの計画を成就するというご自分の使命を完成されました。イエスの弟子である私たちは、「失われたものを尋ね出して救う」というその活動を引き継ぎ、主のメッセージを世界に伝えるよう委ねられているのです(ルカ19:10; マルコ16:15; ヨハネ20:21)。

初版は2015年3月 2025年11月に改訂・再版 朗読:ジョン・ローレンス

Copyright © 2025 The Family International