12月 1, 2025
多くの人と同じように、私も毎年クリスマスシーズンを楽しみ、心待ちにしています。この季節ほど、神が私たちのために御子を送り、永遠の救いを与えてくださった偉大な愛を思い起こさせてくれる季節はありません。
長年にわたり、クリスチャンがクリスマスを祝うのは間違っていると主張する人々に出会ってきました。もちろん、誰もが自分の意見や信念を持つ権利があり、クリスマスを祝うかどうかは個人の選択です。この記事では、私がクリスマスシーズンを大切にし、感謝している理由と、それを裏づけると信じている聖書の根拠を分かち合いたいと思います。
まず第一に、神と御子が示された愛を祝い記念するこの特別な機会を逃してしまうなら、救われてイエスを知ることから来る喜びを祝う機会を自ら手放してしまうことになります。私自身、人々を主に導く最も意義深い機会のいくつかは、クリスマスのお祝いを通して与えられてきました。一番昔のクリスマスの思い出のひとつは、祖父母と叔母の家でクリスマスを過ごした年のことです。両親の助けと指導を受けて、私たち3人兄弟は、クリスマスイブに親戚のためにささやかなクリスマスプログラムを披露しました。
その夜、祖父は私と一緒に祈り、イエスを受け入れました。およそ15年後に亡くなる前、祖父は私に、「主のもとへ導いてくれたことに感謝している」と言い、あのクリスマスがこれまでで最も意味深いものだったと語ってくれました。
クリスマスを祝うべきではない理由として挙げられる主張のひとつに、聖書にはイエスの誕生日が記録されていない、というものがあります。確かにその通りで、イエスが生まれた正確な時期は記されていません。けれども、イエスが確かにお生まれになり、私たちを贖い、いのちを与えるために地上に来てくださったことは間違いありません。聖書はまた、キリストの誕生が大きな喜びと祝福の機会であったことも示しています。天使たち自身が神を賛美して神に栄光を帰し、羊飼いたちはその喜びとお祝いを目撃し、その中にあずかることを許されたのです(参照:ルカ2:8–14)。
かつて私は、孤児として育った目の見えない男性を知っていました。そのような境遇だったため、彼は本当の誕生日を知ることができませんでした。そこで彼はある日付を誕生日として選び、それが行政にも認められて、すべての公式書類にその日付が使われるようになったのです。
彼は、「日付が正確でないことは私には問題ではありません」と私に話してくれました。「大切なのは、ほかの人と同じように、毎年楽しみにできる何かを持てることなのです。」
イエスの誕生を祝うことで味わえる計り知れない喜びを、ただ日付が正確でないという理由だけで手放す必要があるでしょうか。
「それはそうかもしれないが」と反論する人もいるかもしれません。「それにしても、今日の伝統的なクリスマスの祝い方は、キリストの誕生を記念するどころか、むしろ無視してしまうことが多いではないか」と。
その通りです。クリスマスの多くの要素は、イエスを称えるどころか、イエスのお祝いやイエスの名すら出さないことがあります。たとえばプレゼントを贈ることは、本来、神が私たちにくださった尊い贈り物、私たちを愛し救ってくださる御子を象徴するものでした。クリスマスの真の精神は、他の人々に仕えるために自分自身を与えることにあります。けれど今日では、多くの人が物質的なものにお金を費やす一方で、本当に困窮して助けを必要としている人々を顧みません。
ニュー・ソングが歌う「クリスマスの靴(The Christmas Shoes)」という曲では、ある男性がクリスマス直前に店で買い物をしていた時の話が歌われています。長い列に並んでいた彼の前には、ボロボロの服を着た小さな男の子が不安げな表情で立っており、手には一足の靴を持っていました。男の子はその靴を、まもなくイエスのもとに行くことになる母親に買ってあげたいと言いました。
少年は持っていた小銭をレジ係に渡しましたが、それでは足りないと言われました。すると少年は懇願するようにある男性を見つめ、どうすれば良いか尋ねました。するとその人は少年を助けて靴を買えるようにしてあげたのです。
これがその歌詞です。
少年が礼を言って走り去ったとき、
私は天の愛のひとかけらを見た。
クリスマスの本当の意味を思い出させるために、
神さまがあの少年を送ってくださったんだ。
また、クリスマスツリーの伝統について問題を提起する人もいます。エレミヤ書の次の記述から、ツリーは偶像であると考える人もいるのです。「異邦の民のならわしはむなしいからだ。彼らの崇拝するものは、林から切りだした木で、木工の手で、おのをもって造ったものだ。人々は銀や金をもって、それを飾り、くぎと鎚をもって動かないようにそれをとめる。その偶像は、きゅうり畑のかかしのようで、ものを言うことができない。歩くこともできないから、人に運んでもらわなければならない。それを恐れるに及ばない。それは災をくだすことができず、また幸をくだす力もないからだ」(エレミヤ10:3–5)。
しかし、これらの聖句にある「偶像」とは、木を拝むという行為そのものを指しています。クリスマスツリーの伝統には、ツリーを拝んだり恐れたり祈ったりする要素はありません。私たちは神の創造された自然とその美しさを楽しむべきなのです。黙示録4:11はこう語ります。「あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。
クリスマスツリーはまた、暗く孤独な世にイエスの光を輝かせるという、信者に与えられた使命の象徴ともなり得ます。子どもの頃、私はこんな歌を何度も歌いました。
私はクリスマスツリーになりたい。
色とりどりの灯りをまとい
てっぺんには星を輝かせて
イエスの愛を世界に伝えたい。
もし私たちがクリスマスシーズンを避けてしまうなら、クリスマスキャロルを廃止することにもなります。それらは大きな喜びを与え、イエスを通して与えられた神の驚くべき贈り物を讃える歌です。確かに、クリスマスの歌の中にはキリストを称えないものも多くあります。しかし、何世紀にもわたり歌い継がれ、何百万人もの心を慰めてきた美しいキャロルも数多く存在します。
その一つが「オーホーリーナイト(さやかに星はきらめき)」です。母が最期の数週間を病院で過ごしていたとき、教会のキャロルの一団が母を訪ねてきました。歌ってほしい曲を尋ねられた母は「オーホーリーナイト」をリクエストし、さらに私にも一緒に歌うように言いました。彼らはこの曲をあまり練習していなかったので、私が歌に加わることを喜んでくれました。
ギターが手渡され、私は伴奏をしながら歌いました。練習なしとは思えないほど美しいハーモニーが生まれ、病院スタッフの一人が「本当に天使の歌声のようでした」と言ってくれました。
母はほとんど話せないほど弱っていたのですが、歌の間ずっと、まばゆいばかりの笑顔でいたと後で聞かされました。(私は目が見えないので、そのことは人から聞きました。) それ以来、この曲は私にとって特別な意味を持つようになりました。また、この曲ほど、羊飼いたちが天使の歌声を聞いたときの気持ちをよく表している歌はないように思うのです。彼らは本当に[英語の歌詞にある言葉のように]「ひざまずいた」に違いありません。
今日の世界では、クリスマスのお祝いが派手で、表面的で、意味に欠けていることがしばしばあります。けれど私は、4歳のとき家族とともにインドで宣教師として暮らしていた時のことをよく覚えています。現地ではキリスト教徒が非常に少なかったため、どこへ行ってもクリスマスの雰囲気はありませんでした。しかし、それでも私たち宣教師の家族は皆、心からクリスマスの季節を楽しみました。その祝い方は決して豪華ではなく、ツリーがあったかどうかすら覚えていません。飾りつけがあったとしても、とても質素なものだったでしょう。
物質的には不足していたかもしれませんが、私たちが感じた喜びと意味はそれを補って余りあるものでした。救い主の誕生を讃えるキャロルを皆で歌いながら、私はこの季節の本当の意味と本質に満たされていたのを覚えています。
その質素でありながら喜びに満ちたクリスマスを思い返すと、羊飼いたちの気持ちを想像せずにはいられません。天使の告げたとおり、彼らが家畜小屋でマリア、ヨセフ、そして幼子イエスを見つけたときのことを。マリアとヨセフは、イエスの誕生に備えて飼い葉桶を飾りつけたり、ツリーを立てたりはしませんでした。その日、大きな宴もありませんでした。それでも、彼らが経験した数々の驚くべき出来事を思えば、その喜びはかつてないほど大きなものだったに違いありません。
今日、どれほど手の込んだ、どれほど豪華なクリスマスであっても、2,000年前のベツレヘムで味わわれたあの喜びと幸せには到底及ばないでしょう。それでも、状況が許す限り、私たちはクリスマスシーズンを祝い、喜びの機会とすることができます。神はただ、私たちがすべてを神の栄光のために行うことを望まれています。「何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(1コリント10:31)。
最後の晩餐で、イエスが弟子たちと共に聖餐を祝われたとき、主は言われました。「わたしを記念するため、このように行いなさい」(1コリント11:24)。これと同じ基準が、主の誕生を祝うクリスマスにも当てはまると言えるでしょう。
主は、私たちが主の名のために喜び祝い、クリスマスの真の意味を覚え、他の人々にも同じ喜びを分かち合うことを喜ばれます。パウロは、「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」(ピリピ4:4)と語っています。主はご自身の誕生によって与えられた人類への最大の贈り物を、私たちが主の栄誉のために祝うことを望んでおられる、と私は信じています。特に、それが本来あるべき姿である主の栄光のために捧げられるならばなおさらです。
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