11月 17, 2025
ヤコブは真の宗教、真の信心について、簡潔な定義を与えています。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まることなく自分を守ること、これこそ父なる神の前に清く汚れのない宗教です」(ヤコブ1:27 聖書協会共同訳)。ヤコブは、やもめやみなしごを顧みるという行為を、清く汚れのない信心の本質として高く掲げています。…
祖父が亡くなった後、祖母は私たちの家に移り住み、私が子供の頃から何年も一緒に暮らしました。何度か、祖母は夜遅く私に話しかけ、涙を流しながら、夫を失っただけでなく、地域社会でも居場所を失ったように感じるという痛みを抱えていることを打ち明けてくれました。夫が亡くなると、夫の生前に共に深く関わっていたものから突然締め出されたように感じたのです。
生涯の伴侶を失うというのは、自分の不可欠で親密な一部を失うようなものです。というのも、私たちは、結婚という神秘において夫と妻は一体であると教わっているからです。そのため、やもめになるという痛みは、独特の次元の孤独感をもたらします。長い年月、絶えず共にいた配偶者を失い、突然ひとりになるというのは、衝撃的です。神はご自分の民の偉大な慰め主なので、夫を亡くした女性が経験する苦痛を考えれば、神が彼らに深い関心を寄せられるのは当然のことでしょう。…
イエスはご自身の教えの中で、しばしばやもめたちに目を向けられました。… 新約聖書の中でも最も心打たれる場面のひとつが、ヨハネ19:25–27に記されています。キリストが十字架にかかっておられたとき、ご自分の受難を目の当たりにしていた母マリアの方を見て、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」と言われました。このときイエスは、母に自分(イエス)を見るように言われたのではありません。彼女はすでに息子を見つめていました。次にイエスは弟子ヨハネに向かって、「ごらんなさい。これはあなたの母です」と言われました。イエスは死に際に、やもめである母の世話を、愛する弟子ヨハネに託されたのです。十字架上でイエスがヨハネに言われたのは、こういうことです。「ヨハネ、母を頼みます。母はやもめなので、これからは自分の母親のように大切にしてあげてください。」 そしてマリアには、「母よ、ヨハネをあなたの実の息子として受け入れてください」と語られたのです。…
イエスの兄弟であるヤコブは、やもめを世話するというこの務めをきわめて重要なものと見なし、それを、真の宗教の結晶とも言える本質を表すものとして用いているのです。—R・C・スプロール [1]
数年前に家政婦として働き始めたとき、これが単に生活の糧を得る手段以上のものになるとは思ってもいませんでした。血のつながった親族が近くにいない私の子どもたちは、この仕事を通して何人もの「おばあちゃん」ができました。また、私にとっては、自分の悩みや不安を分かち合える、賢く励ましてくれる母親たちができました。一方で、これらの女性たちは、日々をひとりで過ごし、思いや痛みを胸に抱えていることが多く、そんな彼女たちにとっても、人と出会い、話をする機会ができたのです。子どもがいるという喜びによって、彼女たちは活力を取り戻し、辛い話を聞いてくれる人がいることで重荷も軽くなっていきました。愛情と優しさを注ぐ相手ができたのです。私自身、そうした機会を求めていたわけではありませんが、神は私にやもめたちに奉仕する機会を与えてくださいました。そして彼女たちもまた、私を支えてくれたのです。彼女たちは私を励まし、新たな視点を与えてくれました。キリストの愛を目に見える、意味深い形で示してくれたのです。…
聖書には、やもめに関する物語や教えが数多く記されています。神はやもめを顧みられ、ご自分の民にも同じようにするよう命じておられるのです。詩篇の作者は、神をやもめの保護者であり支え主であると描写しています(詩篇68:5, 146:9)。神は、預言者を無一文のやもめのもとに遣わし、困窮する彼女の息子を生き返らせた方です(列王下4:1–7, ルカ7:11–15)。旧約・新約を通して、神はご自分の民に、やもめに対するご自分の配慮、供給、保護を見倣うよう命じられています。 … そしてイエスは、新約の中でその旧約の教えを繰り返し示されました。長い祈りや律法の細かな遵守には熱心でありながら、自らのやもめとなった母を顧みないパリサイ人たちを厳しく非難されたのです(マルコ12:40)。…
神はやもめに対して、単に食べ物を与える以上の特別な思いやりと配慮をお持ちです。私たちのまわりにも、裕福ではあっても、友人のいないやもめがいるかもしれません。あるいは、家族が近くに住んでいながら、誰も訪ねてこないやもめがいるかもしれません。そうした人々に神の愛を示すことは、光栄なことではないでしょうか。必ずしもお金や食べ物、法的な助けを与えることはできないかもしれません。けれども、キリストの愛を目に見える形で示す、ほかの具体的な方法があることでしょう。神は「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と命じられました。では、私たちは身近にいるやもめたちを、どのようにして自分を愛するように愛することができるでしょうか(マルコ12:31)。
やもめに対する神の愛と深い思いやりは、聖書全体を通して明らかにされています。旧約聖書と新約聖書に記された律法や原則は、神の御心を証ししています。実際、キリストは地上での宣教活動において、やもめへの愛を具体的に示されました。とりわけ重要なのは、キリストが死なれたのは、やもめたちを含む私たちすべての者が、神の家族の一員となるためだったということです(ヨハネ1:12)。…
私たちが永遠に続く大きな家族の一員であると知るのは、なんという慰めであり、喜びの源なのでしょう。夫を失い、子どもや兄弟姉妹を失ったやもめにとって、このことはどれほど大きな意味を持つことでしょう。私たちは、そのようなやもめの兄弟姉妹として、彼女たちを訪ね、支え、世話をすることによって、彼女たちが神の家族の一員であることを示すという喜びにあずかるのです。—エリザベス・ブローケル [2]
牧師職に就いたばかりの頃、牧師を務めていた教会の公の祈りに、やもめのための祈りを加えるようになりました。牧師たちの集会で公の祈りについて語った際にも、教会の祈りや奉仕においてしばしば見過ごされがちな存在として、夫を亡くした女性たちのことに触れました。自分の教会のやもめたちを世話するようにと召された私は、聖書を調べ始めたのです。
やがて私は、やもめの世話について書かれた書物が非常に少ないことに気づきましたが、聖書がやもめについてどれほど多く語っているかに驚かされたのです。モーセと預言者たちの書、詩篇やソロモンの箴言、四福音書、さらには使徒行伝や、教会に宛てた新約聖書の書簡を読んでも、やもめという主題を避けて通ることはできません。聖書にはやもめに関する直接的な言及が約80か所もあります。なぜでしょうか。
根本的に言えば、神はやもめを注意深く顧みられる方です。寄留者やみなしごとともに、やもめのことを深く心にかけておられます。神は正しい方であり、彼らを守られます。なぜなら、神は「みなしごの父、やもめの保護者」だからです(詩篇68:5)。
受肉された神の御子イエスもまた、父なる神と同様です。イエスはやもめであるご自身の母を気づかい(ヨハネ19:26–27)、ナインという町のやもめの息子を死人の中からよみがえらせて、その母のもとに返し(ルカ7:11–17)、預言者たちと同じ姿勢で、やもめから搾取する者たちを厳しく非難されたのです(マルコ12:40)。
神はイスラエルの民に、やもめを世話し、彼女たちを孤立させたり、その弱さにつけ込んだりしないよう命じられました。申命記16:11–14には、神がやもめたちに配慮し、彼女たちが除け者にされることなく、七週の祭り(五旬節)や仮庵の祭りを余すところなく楽しめるようにされたことが示されています。…
パウロは第1テモテ5章で、やもめたちをどのように見てどう扱うべきかについて明確な指示を示しました。ヤコブは、ヤコブ1:27で、言葉を濁すことなく語っています。彼が言っているのは、要するにこういうことです。「真の信心とは何かをはっきりさせよう。それは目に見える実際的なものでなければならない。それは、困っているやもめやみなしごを訪ね、また、悪しき世の中で道徳的な清さを保つことである」と。—オースティン・ウォーカー [3]
使徒ヤコブは、信仰の真の実践とは、外に向かう行動と内に向かう献身の両方から成り立つと書いています。外的には他の人々への実際的な行いとして現れ、内的には神への献身として現れるのです。彼はこう述べています。「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない」(ヤコブ1:27)。
デイブ・トーマスは、著書『Well Done(よくやった)』の中でこう述べています。「腕まくりで取り組むタイプのクリスチャンは、キリスト教を信仰と行動の両方として捉えている。彼らはなお、祈りを通して神と語り合う時間を持ち、熱心に聖書を学び、教会で積極的に活動し、良き知らせを広めるために他の人たちに伝えに行くのだ。」
イエスは、「腕まくりで取り組むタイプの信仰」の模範を示された方です。イエスはいつも他の人々に愛を示されました。困っている人々に深いあわれみを抱き、心動かされて、愛の行動へと駆り立てられました。イエスは憐れみ深く、優しさをもって人々に接し、飢えた者に食べ物を与え、苦しむ者を癒されました。また、悪と不義に立ち向かわれたのです。
私たちも、人類への神の愛をこの世に具体的に示すために、できることをしましょう。霊的な面では、人々にイエスを紹介することで、また、実際的には彼らの他の必要に奉仕することで、神と神の愛を分かち合うことによって。—ピーター・アムステルダム
伴侶を亡くす悲しみは、心に深い打撃を与えるものです。伴侶を失った人の多くは、感情的な痛みだけでなく、身体的にも苦しみを経験します。また、やもめとなった人々は、日々の労苦を共に担ってきた伴侶を失うだけでなく、経済的な困難にも直面することが少なくありません。
聖書の時代から、神はご自分の民にやもめを顧みるよう求めてこられました。… 同じように私たちも、やもめのために祈り続け、神が彼女たちを助け、支えてくださるよう願うべきです。
主よ、私たちを多くの方法で顧みてくださることを感謝し、賛美します。今日、すべてのやもめたちの上に、あなたの助けを注いでください。
愛する人と死別する悲しみは、耐えがたいものです。配偶者の死はさらに打ちのめされるものです。多くのやもめたちは、伴侶を亡くした後も長いあいだ悲しみと向き合い続けています。しかしあなたは、悲しみに暮れるすべてのやもめたちを助けることがおできになります。
どうかすべてのやもめたちを祝福し、助けてください。特に今日は、悲しみに苦しんでいるすべてのやもめたちを、あなたが慰め、支えてくださるようお願いします。—Pray More Novenas [4]
2025年8月アンカーに掲載 朗読:ジョン・マーク 音楽:ジョン・リッスン
1 R. C. Sproul, “Caring for Widows,” Ligonier.org, January 24, 2017, https://www.ligonier.org/learn/articles/caring-widows
2 Elisabeth Bloechl, “The Biblical Imperative to Care for Widows,” Modern Reformation, April 18, 2022, https://www.modernreformation.org/resources/articles/the-biblical-imperative-to-care-for-widows
3 Austin Walker, “Why Does the Bible Say So Much about Widows?” Crossway, June 3, 2015, https://www.crossway.org/articles/why-does-the-bible-say-so-much-about-widows
4 “Novena for Widows,” Praymorenovenas.com, https://www.praymorenovenas.com/novena-for-widows
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