10月 18, 2025
人は、希望を見いだせないと、挫折感や落胆、心痛、不安やストレスを抱え、怒りを覚えることがあります。その上、さらに打ちのめされ、希望がしだいに消えていくと、それは諦めや無気力、生気のなさへと変わり、ただ惰性で日々を過ごすようになってしまうこともあります。… 神は私たちが押しつぶされそうに感じる気持ちを理解しておられます。それを示すために、神は同じような感情を経験した人々の思いや祈りを聖書に記録してくださいました。… 神はそのような叫びを確かに聞いてくださいます。神は、「乏しい者の祈をかえりみ、彼らの願いをかろしめられないからです」(詩篇102:17)。…
イエス・キリストの生涯と死は、今この瞬間に意味ある人生への真の希望の扉を開き、永遠に続く豊かで喜びに満ちた人生への道を開いてくれました。この希望を与えることは神にとってそれほど重要であったため、神はご自分の御子を犠牲にしてまで、私たちを救う道を備えてくださいました。イエス・キリストの生涯と死は、今この瞬間における意味ある人生への真の希望、そして永遠に続く豊かで喜びに満ちた人生への扉を開いたのです。
一方、この世のさまざまな苦難のただ中にあって、使徒パウロは私たちに、神は「慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神」であると語っています。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(2コリント1:3–4 新共同訳)。
神が約束された希望と慰めを、私たちはどのように見いだし、受け取ることができるでしょうか。詩篇107篇に描かれた人々の手本に従うことができます。この詩篇は、荒野をさまよう者、囚人、死の門に近づく者など、希望を失ったあらゆる人々の苦難を語っています。そして、どの場合も「彼らはその悩みのうちに主に呼ばわった」ゆえに、主は彼らを救われたのです(詩篇107:4–6, 13, 19)。神は私たちの悩みを知っておられますが、それでも私たちがご自身のもとに来て助けと救いを求めることを望んでおられます。私たちに、神こそ助けの真の源であり、唯一の真の希望であることを認めることを望んでおられるのです。
パウロはこのように述べています。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(ピリピ4:6–7)。…
神の希望と助けを経験すると、私たちもまた、その希望をほかの人々と分かち合いたいと願うようになります。これこそが、神の教会が、神の計画と来るべき御国についての福音、すなわち良き知らせを熱心に宣言することの核心なのです。
今日の世界の状況は、絶望的に見えることがあります。私たち一人ひとりの人生も、希望を失い、押しつぶされそうになることがあります。しかし、神は存在し、心から私たちを愛し、真の希望を与えてくださるのです。神なしに、希望はありません。けれども、神と共にあるならば、私たちは、「たましいを安全にし不動にする錨」である、確かな希望を持つことができます(ヘブル6:19)。—マイク・ベネット [1]
困難な状況に直面すると、私たちの心は慰めを求めます。将来への希望を失い、どうすることもできない無力さに苛まれるとき、慰め、新たな希望を与えてくれる存在が必要になります。嵐のただ中にあっても、イエスは私たちの心を静けさと慰めで満たしてくださいます。たとえば、病が私たちの体に及ぶことがあるかもしれません。しかし、神はその苦しみが心や思いにまで及ぶのを防いでくださるのです。嵐の中にあっても、私たちの心はなお静まり、平安を保つことができます。…
聖書はこう教えています。「たとえ水の中をくぐり、大きな困難にぶつかっても、わたしは共にいる。悩みの川を渡るときも、おぼれはしない。迫害の火の手が上がり、そこを通り抜けていくときも心配はない。炎はあなたを焼き殺さないからだ。」(イザヤ43:2 リビングバイブル)。
神は常に、困難な状況から抜け出す道を備えてくださいます。神は新しい扉を開いてくださるのです。私たちに見えないものを、イエスには見えます。私たちには理屈では理解できないことも、神は私たちのために説明してくださいます。 …
神に、語りかけていただけるように、そして慰めてくださるようにお願いしなさい。神は道を備える方です。あなたの人生に、前に進むべき道を示してくださいます。絶望的な状況の中でも希望を与えることがおできになります。
誰もが人生で困難を経験します。自分の人生には問題がなく、これからもまったく問題のない人生を歩む、と言える人はいません。富める者も貧しい者も、学のある者も無学な者も、誰もが人生で試練の時を迎えるのです。けれども、私たちを造られた神は、喜びの時も悲しみの時も共にいてくださいます。私たちがそうしていただくなら、神は手を取って共に歩んでくださいます。私たちを導く方法をご存じなのです。語るべき言葉を与え、正しい選択ができるよう助けてくださいます。イエスは私たちを知恵で満たし、困難な時を乗り越えられるよう力を与えてくださいます。…
神は聖書の中でこう語っておられます。「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」(エレミヤ29:13–14 新共同訳)。イエスはあなたのすぐそばに立っておられます。あなたの祈りに耳を傾け、応えたいと願っています。涙をぬぐい去りたいと願っておられます。イエスは、あるがままの私たちを愛しておられます。神を尋ね求める者は神を見出します。神はへりくだった祈りを軽しめられません。…
神は必ずあなたのすべての涙をぬぐい取ってくださいます。そして必ず、あなたの人生に新しい希望を与えてくださいます。—Believe Him.org [2]
「いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。」—2ペテロ1:3–4
主の約束は大いなる希望の源です。決して失望させることのない御言葉です。その約束と成就は、私たちへの神の愛のあらわれなのです。
主の約束を学び、その上に立つことは素晴らしいことです。聖書全体を通して、私たちの将来に関する神の数多くの約束が記されていますが、それらの言葉に慣れてしまったり、中にはそれを単なる美しい言葉や力強い言葉だとは感じても、今日の自分には関係ないと思ってしまうことがあるかもしれません。それでも、主のための人生の様々な局面で経験してきたように、主を信頼しその約束を信じるとき、主は本当に私たちのために働いてくださることを知るのです。
主はこのような時のために、私たち一人ひとりを御国に召してくださいました。あなたがどう感じていようと、どんな賜物を持っていようと、あるいは持っていなかろうと、あなたは、今この時代に地上にいるべき存在なのです。あなたは、主にとって、そして主のみわざと将来の計画にとって、かけがえのない存在です。あなたが捧げ、貢献するもの、そしてあなたを通して主の光が輝く様は、必ずや違いをもたらすでしょう。
直面する試練や困難がどのようなものでも、あなたは落胆したり、希望を失いそうになったりするかもしれません。けれども、どうか思い出してください。神の御言葉は決して敗れることがありません。あなたはイエスご自身によって召され、選ばれたのです。それこそが、賛美と喜びの理由です。当然、人生では問題や障害、痛みや苦しみに直面しますが、そのような時こそ、この真理を心に留めておくことが大切です。
「種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」(詩篇126:6)。あなたは犠牲の涙を流しながら出て行くかもしれませんが、束を携え、喜びの声をあげて帰ってきます。犠牲を払うことは、刈り入れをもたらすために欠かせない大きな部分を占め、皆がよく知っているように、それは決して容易なことではありません。しかし、あらゆる犠牲と忍耐の中、涙さえも通してあなたが道を切り開いているのは、収穫の束への道なのだということを思い出してください。それは永遠に続く、世界を変える、栄光に満ちた大義であり、私たちは皆、その成就に少しでも関われたことを、永遠に感謝し、誇りに思うことでしょう。
今日がどれだけ辛くても、いつか全てが報われる日が来ます。私たちは、さまよえる人々のための「靴革で綴じられた」イエスの愛であったことを、喜ぶようになるでしょう。
主が必ず救い出してくださることを、あなたは知っています。しかし、主はすべてのことを、すぐに、いっぺんに行われるわけではありません。主は、私たちが豊かに満たされるべき時と、へりくだって待つべき時とを知っておられます。耐え忍び、信仰によって主の約束に立つべき時をも、ご存じです。主はその大いなる知恵と愛をもって、私たち一人ひとりと共に働いてくださるのです。
誰でも、荷が重過ぎて押しつぶされ、疲れ果てたと感じることがあります。人間とはそういうもので、それは普通のことです。けれども、そんな時には、霊を奮い立たせ、重荷を軽くすると約束された神の言葉に立ち返ることができます。主は約束されました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28–30)。—マリア・フォンテーン
2022年10月アンカーに掲載 朗読:ジェリー・パラディーノ
音楽:マイケル・ドーリー
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