10月 12, 2025
聖霊の実の一つである平和(平安)は、神と正しい関係にあることに根ざしており、そのような関係を持てるのは、神からの救いの贈り物ゆえのことです。[1] また、平和は神に対する私たちの信頼と、神が私たちを愛しておられるという確信の結果として表れたものでもあります。
旧約聖書で平和を表すために用いられているヘブル語の言葉「シャーローム」と、それに対応する言葉として新約聖書で使われているギリシャ語の「エイレーネー」には、現代英語における「peace」の標準的な定義(平和・平安)よりも広い意味があります。このヘブル語とギリシャ語の言葉は、平穏、戦争による荒廃のない状態、そして、不安やストレスのない状態といった意味がある他、完全、健全、安全、健康、繁栄といった概念を伝えています。
神は新約聖書の所々で「平和の神」と呼ばれています(ローマ16:20; 1テサロニケ5:23)。聖書では、平和が3つの角度から語られています。神との平和、自分の内にある平和、そして、他の人との平和です。それぞれがお互いを補いながら、私たちの人生において平和の実を現す一翼を担っています。
イエスにあって私たちが持っている救いが、罪によって神と私たちとの間に生じた不和を修復したため、私たちは父と和解できました。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」(ローマ5:1)。
この平和は、罪のせいで失われていた神との関係を回復させてくれました。私たちはこの和解のゆえに、健全さと完全さ、つまりシャーロームという、心と思いと霊の平和を持つことができます。イエスこそが、この類の平和への道です。
神が私たちを赦し、和解してくださったという確固たる確信があり、それに加えて、神が私たちを愛し、気にかけておられると知っていることが、次にあげるように、聖書のあちこちで語られている完全な平和・平安を真に感じさせてくれます。「あなたは全き平安をもってこころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたに信頼しているからである」(イザヤ26:3)。「あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり、何ものも彼らをつまずかすことはできません」(詩篇119:165)。
真の平安の基盤となるものは、私たちに対する神の愛であり、イエスを通して私たちに持てるようにしてくださった和解です。神の救いの贈り物があるので、私たちは神と神の約束に信頼することができるし、神と平和に生きられます。救いは神との平和の基盤となるものであり、それが、自分自身の平安や他の人との平和を与えてくれます。
私たちは、物事がうまく行っている時に、平安を感じやすいものです。健康で、金銭面でうまく行っており、大きな困難に直面してもいない時です。しかし、聖書が言う平安は、全てが順調に行っている時に味わう平安をはるかに超えたものです。真の平安は状況を超越しており、それは、荒れ狂う海にあっても安定させてくれる錨です。神が私たちと共におられること、また私たちは神の御国に住んでいて、人生を神に支配していただいていること、そして神は私たちの父であって、私たちを愛し、常に私たちのためを思ってくださると信じていることと関係しています。
救いにより、「神との」平和を持っているとしても、それは必ずしも私たちの人生に「神の」平和・平安があるという意味ではありません。時には、何か大きなことが起きてから主のもとへ行くという方が自然であり、日々繰り返される小さな困難についてはそうすることを忘れがちです。そして、わりと小さな出来事や困難について心配し、思い悩むために、平安が奪われるということがよくあります。主が共にいて気にかけていてくださると信じ、重荷を主のもとに携えて主に委ねる代わりに、自分で解決しようとしてしまうのです。
十字架につけられる前夜、イエスが平安について弟子たちに話をされたのは興味深いことです。ヨハネ16章では、これから悲しみや試練、苦難に合うと話をされていたのですが、それと同時に、主にあって平安を得ることについても話されました。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみ[苦難]がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)。
ここでイエスが弟子たちに断言された2つのことは、私たちにも当てはまるものです。まず、イエスは、私たちが人生で困難に直面すると言っておられます。私たちが遭遇する困難は、不安定さをもたらすので、それによって私たちから喜びや平安が奪い取られることがあります。どのような結果になるのかわからないため、心配や不安、懸念や恐れを抱くのです。第二に、イエスは、私たちが主にあって平安を得ると約束されました。
イエスがすでに世に勝たれたのですから、私たちは困難で不安定な時にも元気を出すべきです。そう意識することによって、主に信頼し、平安がもたらされます。イエスはまた、こう言われました。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ14:27)。
使徒パウロは、不安と闘うための強力な方法を述べています。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(ピリピ4:6-7)。
心配に対する治療薬は、祈って、思い煩いを主のもとへ持っていくこと、そして主は私たちの全ての問題を知っており、かつ、私たちを愛してくださっていると信じることです。懸念を主のもとに携えていくならば常にそれから解放される、とは約束されていません。イエスにあって平安を得られると約束されているのです。
試練の時に平安を見いだせない理由は、問題から完全に解放されること以外の結果で満足しようとしないためであることがあります。しかし、約束されているのは、私たちを不安にさせている原因がなんであれ解消されるよう祈ることができるし、そうすれば説明しようのない平安を得ることができる、ということです。その平安によって、私たちの幸福は主の御手に委ねることができるし、主は私たちの状況を知っておられ、心と思いを不安から守ってくださると確信していられます。
問題が解決するよう祈るのは、全く当然のことですが、解決には時間がかかることがよくあるし、それも、かなりの時間がかかる時だってあります。しかし、私たちがそれを主の御手に委ねたなら、その間でも平安を持つことができます。自分の求めるところを神に知らせ、助けてくださるよう願いをささげたなら、神からの平安を持つことができるのです。
新約聖書には、他の人と平和に過ごすことについて、いくつもの言及があります。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい」(ローマ12:18 聖書協会共同訳)。「こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか」(ローマ14:19)。「すべての人との平和を追い求め … なさい」(ヘブル12:14 新改訳2017)。
私たちは、平和を追い求め、できる限り他の人たちと平和に過ごすべきです。言うまでもなく、他の人と平和を保つことは自分だけにかかっているのではありません。だからこそ、パウロは「せめてあなたがた」の方からは、すべての人と平和に過ごすようにしなさいと言っているのです。相手が平和を望まないこともありますが、そういった場合も、私たちは平和を保つために自分にできることをするよう求められているのです。
神の教えにかなった人生を送ろうとし、イエスの使節になって人々を主に近づけたいと願う人は、全ての人と平和を保つよう求められています。
自分の人生にイエスがおられる時、私たちはその御言葉に従います。そして、御言葉に従い、人生の送り方について聖書が告げることに沿って生きることが、私たちに平安を与えます。神の御言葉に沿って生きることに伴って生じるのは、健全、充足、安全、心の平安に恵まれた人生です。
聖書には「わたしの道を守る者はさいわいである」(箴言8:32)と書かれています。神の言葉を人生の基盤とし、思考や決断や行動の指針として見るなら、そして、御言葉に書かれていることを模範として生きるなら、神から来る平安を体感することができます。それは、難しい問題に直面することがないとか、苦しむことも心配することもないというわけではありません。ただ、そうなった時にでも、父が最後に全てをうまく行かせてくださると信じ、確信することから来る平安を持つことができるのです。ある問題については、この人生で解決を見ないかもしれませんが、それでも、来世においては、神の真実や正義、そして愛が勝つと知って、安らかな気持ちでいることができます。
私たちは主と交わり、主の内にとどまり、主に信頼して従うことで、永続する真の平和・平安への道を見出します。持ち物や人間関係、お金、状況が人生の嵐を耐え抜く平安をもたらすわけではありません。神の内にとどまり、神の言葉を実践し、全てのことについて神に信頼することこそ、「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」(ピリピ4:7)を見出す方法です。
神の言葉に沿って生きることと平和とは切り離せません。主とつながりを持ち、その教えを実践し、主の道を歩むことによって、日常生活の困難や逆境にもかかわらず、魂は平安で満たされます。これは、どんな持ち物や人間関係よりも大切なものです。
平和を真に重んじるならば、私たちが進む道は「正義の道」(箴言12:28)でなければいけません。正義の道とは、神の言葉を実践し、その指示に従うことであり、平和という霊の実を強めることをすると決意することです。何よりも、父が私たちを愛しておられ、私たちのために御子を犠牲にしてくださったと知ることは、状況と関係なく、私たちの人生のあらゆる側面について神を信じる確信の基盤です。最終的に、その確信が、永続する平安を与えてくれるのです。
初版は2017年8月 2025年9月に改訂・再版 朗読:ジョン・ローレンス
1 本記事の要点は、次の書籍を参考にしています: The Fitting Room: Putting on the Character of Christ, by Kelly Minter (David C. Cook, 2017), and The Practice of Godliness, by Jerry Bridges (Navpress, 1983).
Copyright © 2025 The Family International