10月 21, 2025
「わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。」—イザヤ61:10
[ガラテヤ3章]27節で、パウロは信徒たちに「あなたがたは、皆キリストを着たのである」と語っています。この「着る(着ける、まとう)」という描写は、パウロが好んで用いる比喩です(参照:ローマ13:12; エペソ4:24; コロサイ3:12)。ここでは、キリストご自身を衣服にたとえているのです。
そして、「キリストを着る」というこの概念には、4つのすばらしい意味が込められています。
1. 私たちの第一のアイデンティティはキリストにある。私たちの衣服は、人々に私たちがどのような人間であるかを示します。ほとんどどの種類の衣服も、実際には制服のようなものであり、私たちが同じ性別、社会的階層、あるいは国民的な集団に属する者と同化していることを示しています。しかし、「キリストが私たちの衣である」と言うことは、私たちの究極的なアイデンティティは、これらの分類のいずれにもではなく、キリストに見いだされるということなのです。
2. キリストとの親密な関係。衣服は、他のどんな所有物よりもあなたの身近にあります。あなたは常に衣服に身を守られています。衣服はどこへ行くにもあなたについていきます。ですから「キリストが私たちの衣である」と言うことは、その瞬間ごとにキリストに依り頼み、キリストを存在の意識の中心に置くようにとの呼びかけです。霊的に、私たちは「臨在を実践する」べきなのです。
3. キリストに倣う。キリストの臨在を実践するというのは、私たちが絶えず、まるで主の御顔の前に直接いるかのように考え、行動することを意味します。聖書には、主の「前に歩む」という類似の表現があります(参照:創世記17:1; 詩篇56:13)。これは、人生のあらゆる領域にイエスを招き入れ、御心と御霊に従ってその領域を変えていくことを意味します。私たちはイエスの徳と行いを「身に着ける」ように召されています。「イエスのような装いをまとう」者とされているのです。
4. 神に受け入れられること。最後に、衣服は装飾として身につけるものです。それは私たちの裸の体を覆います。そして、神は人類の堕落以来、私たちが恥ずかしいと思う部分を覆う衣を与えてこられました(参照:創世記3:7, 21)。「キリストが私たちの衣である」とは、神の目から見れば、私たちがイエスのわざと救いのおかげで愛されているということです。神が私たちを見られるとき、神は私たちを子として見てくださいます。なぜなら、神は御子を見られるからです。主イエスはご自身の義と完全さを、私たちに与えて着せてくださいました。
ですから、ガラテヤ3章27節は、真新しい人生を大胆かつ包括的に表す比喩なのです。それは、絶えずキリストを思い、あなたの思考や言葉、行動のすべてに、キリストの御霊と性質が染みわたり、浸透することを意味します。これは単に規則や律法を守ることをはるかに超えています。単純な従順さすらも超えているのです。それは、キリストを愛し、キリストに浸され、キリストに包まれて生きることです。クリスチャンが、神に完全に受け入れられるために、あるいはそれを維持するために、モーセの律法にさらなる義務を付け加える必要は決してありません。キリストを着ているからです。—ティモシー・ケラー [1]
「夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。」—ローマ13:12
あなたはすでに闇から光へと移りました。すでに闇の支配からキリストの御国へと移されたのです。あなたはすでにキリストにあって新しく造られた者となっています。すでに神の子どもなのです。あとは、そのように「身に着け」、そのように生き、そのように戦うだけです。衣服や戦いが、あなたを光の子にするのではありません。それらは、あなたがすでに光の子であることを示すものです。
これはローマ書の流れの中ではっきりと示されています。… まず、キリストが成し遂げてくださったことを信じる信仰によって、私たちと神との関係が正しいものとされます。それから、私たちは昼の者らしく装い、生き、戦います。しかし、信者が衣を「身にまとう」ことについてパウロが語っている他の2カ所では、これがさらに一層明確に示されています。
コロサイ3章12節に書かれていることを聞いてください。「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。」 あなたがたはすでに神に選ばれた者であり、神の聖なる者であり、神に愛されている者です。だからこそ、ここでパウロは語っているのです。新しいアイデンティティを映し出す性質を身にまといなさい、と。
新約聖書全体の中でも、パウロが「キリストを着る」と語っているもう一つの箇所では、それがすでに成し遂げられたこととして描かれています。ガラテヤ3章27節には、「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである」とあります。バプテスマは、回心に際し信仰によって起こることを、目に見える形で表す行為です。そしてそこで起こったこととは、あなたは一度限りで永遠にキリストを身にまとった、ということです。つまり、「キリストを着なさい」という命令は、すでにそうである者として生きなさい、すなわち「キリストをまとう者」として歩みなさい、という呼びかけなのです。
ですから、これから進んでいくにあたって覚えておいてほしいのは、[ローマ13章]12節と14節にある「光の武具を着ける」ことや「キリストを着る」ことは、もう一度あらためてクリスチャンになりなさいという指示ではない、ということです。パウロが呼びかけているのは、キリストにあってすでに与えられている者として生きることです。あなたがたは光の子、昼の子です。だから、そのように装い、そのように生き、そのように戦いなさい。…
「主イエス・キリストを着なさい」とは、御心を行うために必要な天のあらゆる恵みにアクセスする証しとして、キリストを身にまとうことを意味します。それはまた、かつてない最高の「インターコムシステム」としてキリストを身にまとうことを意味します。そうすれば、他の何よりも愛する方、そして自分にとってすべてである方と、絶えず交わり続けることができるのです。「主イエス・キリストを着なさい」とは、キリストを信頼し、キリストに望みを置き、これらすべてのことのゆえにキリストを愛おしむことを意味します。
夜はすでにふけ、日は近づいています。罪というパジャマを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けなさい。クリスチャンの人生は、ただ目を覚ますことではなく、戦いなのです。光の武具とは、信仰と希望と愛です。ですから、イエスへの信仰をまとい、イエスへの希望をまとい、イエスへの愛をまといなさい。これこそが「主イエス・キリストを着る」という意味なのです。—ジョン・パイパー [2]
コロサイ3章12節には、こう書かれています。「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。」 これらの言葉は、人と接するときに、相手の立場や外見にかかわらず大切にすべき鍵となるものです。これこそがクリスチャンであることの本質です。
神は、私たちが出会う人々に親切であることを求めておられます。そしてその人たちが神にとって特別な存在であることを、私たちが示すことを望んでおられるのです。私たちの行いは、人々に自分が大切にされ、尊ばれ、敬われていると感じさせる上で大きな力を持っています。テトス3章1–2節には、「いつでも良いわざをする用意があり、だれをもそしらず、争わず、寛容であって、すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示すべき」とあります。
ピリピ人への手紙にも、私が長年、皮肉っぽくなったり、人前で高慢になりがちな自分を戒め、親切と謙遜を選ぶよう導いてくれた御言葉があります。以下はピリピ2章3–7節です。
「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず …。」
私はそれ以来、イエスの「僕のかたちをとり」というすばらしい模範に従うことを心がけてきました。しもべのように生きるのは簡単なことではありません。けれども、私たちを召してくださった方を信頼するなら、その御霊によって、親切と謙遜を身にまとう者へと造り変えていただけるのです。—トニ・プレストン
「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」—ローマ13:14
「あなたは誰を着ていますか?(Who are you wearing?)」 これは、ハリウッドのレッドカーペットで、記者がセレブに対して「どのデザイナーの服を着ているのか」を探るためによく投げかける質問です。私たちの身につける服は、実に多くのことを語ります。服装は、その人の気分、優先順位、社会経済的地位、さらには価値観までも映し出します。服装は、私たちの人格や生き方、ユーモアや社会的関心、信仰、好きなスポーツチームや音楽的嗜好を表現することもあります。今日では、服装はほとんどあらゆることを語りうるのです。その「欠如」ですら、何かを語ることがあります。
古代の世界でも、衣服は同様に意味を持っていました。新約聖書は、神との関係のさまざまな側面を表現するために衣服のたとえを用いています。… コロサイの人々に向けて、パウロはこう書いています。
「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい」(コロサイ 3:12–15)。
私たちは毎日、苦しむ人、困窮している人、悩んでいる人への憐れみを身にまとうべきです。隣人への慈愛・親切を着るべきです。野心が高慢に支配されないように、謙遜を身にまとうべきです。
また、「どんな傷や挑発を受けようとも、悪をもって悪に報いたり、悪口を悪口で返したり、受けた害に対して恨みを返すことがないように」、柔和を着るべきです(ベンソンの聖書注釈)。予期せぬ試練や思いがけない困難に耐えるには忍耐という衣を必要とします。苦々しさから守られるには赦しという衣を必要とします。そして、世が私たちを本当にイエスの弟子だと知るためには、愛という衣を必要とするのです(ヨハネ13:35)。
私たちは、目覚めたときにどのような世界が待っているかを選ぶことはできません。けれども、そこで「成功のためにどう装うか」を選ぶことは確かにできます。キリストが備えてくださった衣装棚から、賢く選び取りましょう。—ジミー・ラーシュ [3]
2021年5月アンカーに掲載 朗読:ルーベン・ルチェフスキー
音楽:ジョン・リッスン
1 Timothy Keller, Galatians for You (The Good Book Company, 2013).
3 http://www.jimmylarche.com/who-are-you-wearing-clothed-in-christ.
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