9月 24, 2025
与えることについて話すのはわりと簡単ですが、実際に行うのは難しいものです。特に犠牲を伴う場合はそうでしょう。聖書の時代の例を見ても、また、現代の例からも、惜しみなく与えることに神が報いてくださるのは明らかです。マルコ12章41–44節の例がそれをはっきりと示しています。
イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」
きっと、その多くの金持ちの中には、神への誠実な愛からではなく、義務感から、または寄付の額の大きさを認められたいという見栄から、より多く与えた人もいるでしょう。それだけ与えても、彼らの豊かな富にあまり影響はなかったので、彼らにとって大きな犠牲ではありませんでした。一方、やもめは貧しかったというのに、持っていたすべてを与えました。犠牲的な心から捧げたのです。それゆえイエスは、このやもめについて特に話をしたのであり、その献金が称賛されたのでした。
もう一つの例として、エリヤとザレパテのやもめの話があります。神の預言者であったエリヤは主に導かれて、しばらく「ヨルダンの東にあるケリテ川のほとり」に留まっていました(列王上17:3)。必要な水は川にあり、食べ物は、主がカラスに命じて、毎日届けさせました。けれども干ばつがひどかったため、川の水は干上がってしまいました。すると主はエリヤにこう告げられたのです。
「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。そこで彼は立ってザレパテへ行ったが、町の門に着いたとき、ひとりのやもめ女が、その所でたきぎを拾っていた。彼はその女に声をかけて言った、「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」。彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼は彼女を呼んで言った、「手に一口のパンを持ってきてください」。
彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。
エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。(列王上17:9–15)
貧しいやもめには、エリヤの言葉を無視すべき理由がたくさんありました。なんといっても彼はまったく見知らぬ人で、その上、彼女と息子の最後の食事がなくなりかねない図々しい頼みごとをしてきたのですから。人生最後の食事を差し出すにはかなりの信仰を要したに違いありません。しかしながら彼女はそうしたのであり、その行為は大いに報われたのでした。
イエスに2匹の魚と5つのパンを与えた少年についてはどうでしょうか(ヨハネ6:5–13を参照)。昼食をあげてしまったら、自分は何を食べればよいのかと思ったことでしょう。けれども少年は幼子のようにイエスを信じてそうしたのであり、残りの群衆と共に十分な食事にありつけたのでした。
それほど自分の損にならないなら、与えるのは簡単でしょう。けれどもダビデ王は、「費用をかけずに主に捧げること」を拒みました(サムエル下24:24を参照)。
数年前、私はオベーションのギターが手に入るよう、具体的に祈りました。しかし、実際に手に入れてすぐ、私はそれを本当に必要としている別の人に与えるよう主が促しておられるように感じたのです。私はとても驚いてしまい、再びギターのためにお金を貯めることなんてできるだろうかと考えました。けれども、主が私に何を求めておられるのか、私の心に疑いの余地はありませんでした。
ギターをあげてから1週間後、楽器店を経営するミュージシャンの友人から、彼の通う教会で歌ってくれないかと頼まれました。演奏するギターがないことを告げると、友人は「問題ないよ。うちの店から持っていくから、それを使って」と言うのです。それがオベーションのギターだとわかったときには、感激しました!
礼拝が終わり、友人にお礼を言ってお別れしようと思っていると、彼はこう言ったのです。「ギターを忘れないでね。」
「え?」 私は驚きました。
すると、友人はこう言ったのです。「君が歌っているとき、主はそのギターを与えることで、君と宣教活動を祝福しなさいと言われたんだ。」
私は天にも昇る心地で教会を後にしました。
与えることで必ずしも物質的な祝福を得るわけではありませんが、報われないことはありません。時には目に見えないもので報われることもあります。
年老いた男性ジェイクの話をドラマ化したものを聞いたことがあります。彼は神に対するシンプルで強い信仰を持った人で、ハーモニカを吹くことができました。老人ホームに住んでいたのですが、ある日、姪夫婦から、一緒に住もうという手紙を受け取りました。旅費も同封されていて、ジェイクは大喜びでした。
それからまもなく、同じ施設に住むエドという男性が、孫娘が亡くなったという電報を受け取りました。それは悲しい知らせでしたが、さらに残念なことに、エドには葬式に参列するための旅費がなかったのです。ジェイクは姪から受け取ったお金をエドに渡しました。
そしてジェイクは、姪の家までヒッチハイクすることにしたのです。クレムという名の若い男性が乗せてくれました。途中で車が故障し、クレムは近くの町まで歩いて部品を買いに行きました。ジェイクが車に残され、ハーモニカを吹きながらクレムの帰りを待っていると、近所の優しい男性が車に気づき、ジェイクを食事に誘ってくれました。そして、ジェイクはその男性の家族と親しくなったのです。それから3日間、ジェイクはこの新しい友人家族と食事を共にし、主や祈りについて話をしました。
そしてついに、クレムが必要な部品を持って戻ってきました。再び運転を始めると、クレムは長い時間がかかったことを謝りました。部品が届くまで時間があったので、その間、酒を飲んでいたというのです。クレムは、彼の飲酒問題で妻と子供が家を出てしまったのですが、家族を取り戻したくて、妻のところに向かっていたそうです。けれども酒の力は強く、アルコールをやめられるかどうか自信がありませんでした。ジェイクはイエスといやしの力について話し、彼と共に祈ると、クレムは心新たになったように感じました。
ついに姪夫婦の家に着いたとき、ジェイクはこのような旅ができてよかったと思いました。お金を与えることで助けを必要とする友を助け、旅の途中で出会った人々に神について話すことができたのですから。エドに旅費を与えたのは良いことだと分かっていたし、それと引き換えに、もっと価値ある祝福を得ました。主に勝ち取られた魂です。
犠牲を払ってまで与える価値はあるのでしょうか。もちろんそうです。イエスはこう言われました。「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう」(ルカ6:38)。
与えることによって失うことはありません。即座に目に見える報いはないかもしれませんが、あなたが物惜しみせずに与えたことが自分自身や他人にもたらした物質的または精神的な祝福に気づき、与えてよかったと心から思える日が、いつかきっと来ることでしょう。
若者向けのキリスト教的人格形成リソース「Just1Thing」ポッドキャストより、一部変更
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