キリストに似た者となる

8月 22, 2025

Growing in Christlikeness
July 31, 2025

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 9:23
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神の救いの計画において、御子なる神が人間となり、罪のない生涯を送り、人類の罪のために十字架で命を捧げられました。[1] その生涯と死の両方によって、私たちの救いを可能としてくださったのです。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」(2コリント5:21)

新約聖書の随所に、イエスが罪のない生涯を送られたことが書かれています。「彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。」(1ヨハネ3:5)(こちらも参照: 1ペテロ2:22) 福音書には、ご自身の聖性についてイエスが証言されています。来る日も来る日も共に生活していた弟子たちの前で、イエスはパリサイ人たちに対して次のように挑まれました。「あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責めうるのか。」(ヨハネ8:46)

イエスは罪を犯さなかっただけではなく、神の御心に完全に従っておられました。イエスはこう言われました。「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」(ヨハネ6:38)(こちらも参照: ヨハネ4:34

言うまでもなく、私たちはイエスのように罪なき存在ではなく、そうなることもありえません。しかし、救いは私たちを「キリストにある」者とするので、主の聖と義も私たちに帰されるのです。主の聖なる生涯と十字架での死のゆえに、神は私たちの罪をキリストに転嫁*し、つまり帰し、イエスの義を私たちに転嫁されました。[*転嫁:神学用語で、正義や罪を他の人に代わりに負わせること。]

究極の聖である神の御前に行くことができるのは、私たちがキリストを通して聖とされたからです。イエスが私たちの罪のために死なれたので、私たちは神の家族の一員であるし、父との関係を持ち始めることができるのです。(ヨハネ1:12) これは全て、神の恵みゆえです。しかし、私たちと神との関係の質は、私たちにかかっています。

キリストのようになることは、本質的に、神との関係に関わってきます。イエスの完璧さは、私たちが人生において到達できるようなものではありませんが、それを模範とし、理想として、できるだけそれに近づこうとすることができます。イエスは父の御心を行うためにこの世に来て、私たちが従うべき手本を示されました。もし私たちが主の手本に従っているなら、父の御心を行いたいという願いが、自分の思考や行動や性格を導く原則となっているはずです。

神の御心とは、この場合、特定の決断(どの職業に就く、誰と結婚する、など)についての神の御心を求めるということではなく、聖書にあらわされた神の御心を行うということ、主がご自身の子らに明確に指示されたことを積極的に行おうということです。その一つが、パウロが語ったように、罪を脱ぎ捨て、新しき人を着ることです。(コロサイ3:5–10) 神の恵みにより、また聖霊の助けを得て、私たちはより聖なる生き方、神の御心によりかなった生き方をすることができますが、それを行う責任は私たちにあります。

キリストに似た者となることにおいて、漸進的に成長していくこと、つまり聖化は、私たちがクリスチャンであると言うだけで起こるわけではありません。神の恵みにより、「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった」わけですが(コロサイ1:13)、それと同時に、「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません」とも書かれています。(ローマ6:12 新共同訳) 私たちは罪の王国と、それが私たちに対して持っている支配力とから解放されましたが、今もその攻撃は受けています。内在する罪(私たちの内に宿っている罪)は支配の座から引き降ろされ、もはや私たちに対して以前のような支配力を持ってはいませんが、今もそこにとどまっており、私たちは頻繁にそれに立ち向かい、克服する必要があるのです。

私たちは救われて神の家族の一員となっており、私たちの罪が、私たちを神の子どもでなくすことはありませんが、私たちと神との関係に影響は与えます。ダビデは、他の人々を傷つけるような罪を犯した後、神の憐れみと赦しを求めて、このように祈っています。「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。」(詩篇51:4) 罪を犯す時、それがどんな罪であれ、究極的には神に対して犯しているのです。

罪とは性格的な弱点以上のものであり、私たちの人生においてただ働きかける必要のあること以上のものです。罪とは、神とその御心から離れ去るという個人的な行動、神に逆らって取る行動です。言うまでもなく、罪の中には、意識的に神に逆らおうと決断したものではなく、気づいていなかったり、気を許したりしたために犯したものがあります。それも罪には違いなく、赦しを求める必要はありますが、罪を犯そうという意識的な決断をする時や、その行動が神の御心に逆らっていると認識しながらそう決断する時とは、異なります。

今日の多くのクリスチャンは、ほとんどの罪をそれほど深刻に取らない傾向があります。当然、殺人などの凶悪犯罪であれば、それは明らかに深刻なものであるとみなしますが、ここそこでつく嘘や、自慢、うわさ話などの「ちょっとした」ものについては、多くの時、かなり違った見方をします。私たちは特定の罪を頭の中で、これは容認できるもの、あるいは少なくとも完全に容認できないわけではないものと分類しがちです。けれども、私たちの人生を神の教えにかなったものとすることを目指すのであれば、特定の罪を容認できるものと分類する余地はありません。自分の罪について、個人的な責任を負うのをいとわずにいる必要があります。

私たちには、罪を克服するのを助けてくれる神の素晴らしい恵みがあるのは確かだし、そもそも「ただ恵みによって」救われるのではあるものの、クリスチャン人生において成長を遂げるには行動が必要とされます。私たちの人生における罪に対して行動に出るという考え方は、「努力してもがく」ことでも、自分を完璧なものとしようというキャンペーンでもないし、完璧に達することをゴールとするものでもありません。私たちの人生における罪に対して積極的に立ち向かう目的は、神との関係や、神に近づいてそこにとどまりたいという願いに関するものです。

書簡のあちこちに、行動に出ることの必要性が書かれています。「地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。」(コロサイ3:5) 「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて … 競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。」(へブル12:1) 「しみも傷もない者として … 神に見出していただけるように努力しなさい。」(2ペテロ3:14 新改訳2017)

これを実践するにはまず、キリストに似た者となることは自分にとって大切であると確信することであり、正しい道徳的決断を下していくことによって、その目的に向けて努力する気持ちでいることです。そのためには、聖書が罪について教えていることを信じ、それに従い、また当てはめるという個人的な確信を持ち、その確信にしたがって行動することが必要となります。これは、内なる葛藤を生みます。私たちの霊的価値観と信念が、私たちの「堕落した」人間性や神の教えにもとるこの世の価値観と衝突するからです。そうなった場合、私たちは聖霊の助けにより、聖書の教えることに従うことを選択します。そうするのが難しかったり、私たちのしたいことに反していたりする時でも。

これこそ、キリストに似た者となりたいという願いにおいて肝心な点です。根本的に言って、キリストに似た者となることは、何が善であり、正しいのか、何が過ちであり罪深いのかという点について、イエスと同じように信じることによってもたらされます。よりイエスのようになるための礎は、私たちの霊が変えられることであり、それによって、外面的な行動が内なる自分を映し出すようになるのです。そのためには、しっかりとした意図を持って、神の性質にあずかることを追求しなくてはなりません。

聖霊は、私たちの漸進的聖化において役割を果たしてくださいます。私たちは独力でしているわけではありません。私たちの内に宿っておられる御霊のおかげで、私たちは神の性格に倣うことができるのです。「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18 新改訳2017)

初版は2016年9月 2025年7月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー


1 本記事は、ジェリー・ブリッジズの著書『The Pursuit of Holiness』(NavPress, 2006)からのキーポイントをもとに書かれています。

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