柔和さはなぜ重要なのか

9月 6, 2025

Why Meekness Matters
June 18, 2024

引用文集

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イエスは言われました、「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう」(マタイ5:5)。「柔和」と訳された言葉は、牡馬を制御する様子を表すために使われていました。馬がくつわと手綱で制御されている状態です。この馬は、権威に従うという選択をしています。それが柔和であり、力が制御されている状態なのです。

柔和さは弱さではありません。それは力が制御されている状態です。箴言の著者はこう述べています。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」(箴言16:32)。一方、柔和でない人は「城壁のない破れた城」に例えられています(箴言25:28)。柔和さは常にその力を適切に活用しますが、制御されていない感情はしばしば破壊的で、信者としてのあなたの生活にふさわしいものではありません。

アメリカ文化ではプライドが美徳として解釈し直されています。強者、美しい者、権力者、知者、特権者は、あらゆる機会を利用して自己を主張します。政治家は演説や議論でプライドを示し、エンターテイナーは映画やライフスタイルでプライドを美化します。教育者は自己肯定感を強調し、すべての子供を勝者とする(それが相応しいか否かに関わらず)ことでプライドを教え、偶像視されるスポーツ選手は偉大さへの道としてプライドを助長します。

おそらくアメリカで最も賞賛されていない性質は柔和さでしょう。しかし、史上最も偉大な人物は柔和で謙遜な方でした。「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)。イエスは最初の来臨において、神の力によって奉仕しながらも、柔和さを体現されました。イエスに従う者は、御霊に満たされた人生の実として、柔和さや「温和さ(gentleness)」[1] を表します(ガラテヤ5:22 英語欽定訳)。…

温和さは、私たちの主イエス・キリストの特徴です。イエスは常に神の栄光を擁護し、最終的に他の人たちのためにご自分を犠牲にしました(参照: 1ペテロ2:21–23)。批判され、中傷され、不当に扱われた時でも仕返しはしませんでした。ただ、神の栄光が汚され、神の真理が歪曲され、無視された時には、それに相応しい厳しい対応をしています。イエスは二度、力ずくで神殿を清め(マタイ21:12–17; ヨハネ2:14–15)、勇敢にもユダヤの宗教指導者の偽善を繰り返し非難しました(マタイ23:13–36; マルコ12:13–40; ヨハネ8:12–59)。

しかし、苦難の時期が来た時、イエスは父の御心に従い、偽善的な指導者たちの虐待と殺意を耐え忍びました。最後の最後まで柔和さを示されたのです。「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」(1ペテロ2:23)。

イエスは「柔和な人たちは、さいわいである」と言われましたが、私たちの文化では柔和さを称賛しません。それよりむしろ、自信に満ちた態度を称賛します。他者から物を手に入れることを称賛し、時には他者を搾取することさえ称賛します。あなたが最後に柔和さという美徳を称賛する映画を見たのはいつですか? …

これは聖書の教えとはどれほど異なるでしょうか。聖書は柔和さを称賛します。聖書の世界観では、最後の者が最初になります。与えることは受け取ることです。死ぬことは生きることです。失うことは見出すことです。最も小さな者が最も偉大な者です。柔和さは力です。私たちは、自分たちの文化から告げられることにではなく、神の真理によって生きていることで、幸せになれるべきなのです。—Christianity.com [2]

柔和な者への祝福

使徒ペテロはこう告げています。「みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである」(1ペテロ5:5)。また、詩篇37篇11節には、「柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる」と記されています。柔和で謙遜であることは、神に大きな喜びをもたらす性格特性です。なぜなら、それは真に栄光に値する方である神に栄光をもたらすからです。

聖書は、「モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」と教えています(民数記12:3)。モーセはその秘訣を知っていました。彼の力と油注ぎは神から来ていたのです。それは人間が奪えるものではありません。神がモーセを任命されたのであり、神がモーセを守り、神がモーセに召した役割を果たすのを可能にする方なのです。モーセは神が支配されていると信頼していたゆえに、温和で柔和で謙虚でいられたのでした。

イエスは、最大の柔和さを示しておられ、それは御霊の実の一つでもあります(ガラテヤ5:22–23 英語欽定訳)。イエスは言われました。「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」(マタイ11:29)。

イエスは、私たちが温和で柔和で謙虚であるのが難しいことをご存知だったので、地上での生涯においてご自分の行動を通じて模範を示されました。例えば、最後の晩餐では、私たちの贖いのために死なれる直前に、それぞれの弟子たちの足を洗われ、しもべの役目を引き受けられました(ヨハネ13:4–17)。また、弟子たちに「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」と告げられました(マルコ9:35)。

「みんなに仕える者となる」とは、他の人の必要を自分の必要よりも優先することです。しもべの心を持つことは、私たちに謙虚で柔和な態度をもたらします。この姿勢を持つ時、私たちは温和な者になります。それは、他の人よりも肉体的に強かったり、知的に優れていたり、影響力や特権を持っていたりしても、そもそも神がこれらの贈り物を与えてくださったことを覚えているからです。

人生において神をより意識する時、私たちは力を求めて神に頼り、神によって創造されたことを悟り、私たちの才能や能力は神からの贈り物であって、神の栄光と目的のために用いられるべきものであることを理解します。この気づきが、私たちを柔和さ、温和さ、謙虚さをもって行動するよう助けてくれるのです。—R・A・ワターソン

柔和な者とは?

山上の説教の始まりに、イエスは「至福の教え(八福)」と呼ばれる一連の言葉を述べられました。第三の教えは、「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう」です(マタイ5:5)。イエスの言葉は、詩篇37篇11節の「柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる」を思い出させます。…

[英語訳聖書の]この節で「祝福されている(blessed)」と訳されているギリシャ語は、「さいわい(幸せ)だ」とも訳せます。つまり、柔和な人は喜びを得るということです。この祝福は神の視点から見たもので、私たちの視点ではありません。それは霊的な繁栄であり、必ずしも現世的な幸せではありません。

また、「柔和」の意味を理解する必要もあります。「柔和」と訳されているギリシャ語は「プラエイス」であり、それは柔和さ、霊の温和さ、または謙虚さを意味します。… 柔和さは、神と他の人々に対する謙虚さです。… 柔和さの手本は、イエス・キリストの謙虚さです。… 「神のかたち」そのものであったイエスは、何でも望むことをする権利があったにもかかわらず、私たちのために「十字架の死に至るまで」従順でした(ピリピ2:6–8)。これが柔和さの究極の形です。…

これは常識に反するように思えるかもしれませんが、イエスの約束は今も変わりません。柔和な人は幸せになり、祝福されるのです。—GotQuestions.org [3]

職場における柔和さ

至福の教えの三つ目は、職場で多くの人を困惑させます。その一因は、柔和さが何を意味するかを理解していないからでしょう。多くの人は、この言葉が、「弱い」、「おとなしい」、「勇気がない」という意味だと思い込んでいます。しかし、聖書が教える柔和さとは、「力が制御された状態」です。旧約聖書で、モーセは地上でもっとも柔和な人と描写されています(民数記12:3)。イエスはご自分を「柔和で心のへりくだった者」と表現されましたが(マタイ11:28–29)、これは神殿を清める際の激しい行動と矛盾していません(マタイ21:12–13)。

力が神に制御された状態とは、二つのことを意味します。(1)自己評価を過大に膨らませないこと、(2)自己主張を控えることです。パウロはローマ12章3節で、最初の点を完璧に捉えています。「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く[冷静に]評価すべきです」(新共同訳)。

柔和な人は、自分を神の僕と見なし、過大に評価したりしません。柔和であるとは、常に自分を最も良く見せようと努めることをしないで、自分の強みと限界をありのまま受け入れることです。だからといって、それは自分の強みや能力を否定すべきだという意味ではありません。

イエスはメシヤであるかどうか尋ねられた時、こう答えられました。「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである」(マタイ11:4–6)。イエスは誇大妄想も劣等感もなく、のちにパウロが「冷静に評価」(ローマ12:3 英語NRSV訳)と表現したような、奉仕の心を持っていました。…

堕落した世界では、攻撃的で自己宣伝に熱心な者が成功するように見えます。… 職場では、傲慢で力のある者が勝つように思えますが、結局彼らは敗北します。そういった人が、人間関係で勝つことはないのです。傲慢で自己中心的な友人を欲しがる人は誰もいません。権力に飢えた人々は、往々にして孤独です。また、彼らは経済的安定でも勝利しません。世界を手に入れたと思っているかもしれませんが、世界が彼らを手に入れているのです。お金が増えるほど、経済的な安定を感じられなくなります。

一方、イエスは「柔和な者は地を受けつぐ」と述べました。私たちが見てきたように、この地は天の御国の場所となりました。私たちは天の御国を、ここにあるものとは全く異なる場所(黄金の道、真珠の門、丘の頂上の邸宅)である、いわゆる「天国」として考えがちです。しかし、神が約束された御国は、新しい天と新しい地なのです(黙示録21:1)。自分の力を神に服従させる人は、地上に到来する完璧な王国を受け継ぐでしょう。—Theology of Work, Bible Commentary [4]

2024年6月アンカーに掲載 朗読:ジェリー・パラディーノ 音楽:マイケル・ドーリー


1 訳注: 日本語訳聖書では、「親切」や「慈愛」と訳されています。

2 https://www.christianity.com/jesus/life-of-jesus/teaching-and-messages/who-are-the-meek.html

3 https://www.gotquestions.org/blessed-are-the-meek.html

4 https://www.theologyofwork.org/new-testament/matthew/the-kingdom-of-heaven-at-work-in-us-matthew-5-7/the-beatitudes-matthew-51-12/blessed-are-the-meek-for-they-will-inherit-the-earth-matthew-55/

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