7月 2, 2025
以前から、あることが気になっていました。ここしばらく、残念なことに私の情報源となっているソーシャルメディアにアクセスするたびに、頭を悩ませるようなことを見かけるのです。
ニュースでは、非常に多くの問題、場合によってはひどく醜いことが取り上げられています。あなたも今日、ニュースでそういった状況を目にしているかもしれません。そして私のように、苦しんでいる人々を思っての絶望と、苦しみや戦争、抑圧の加害者への怒りの間で揺れ動く自分に気づいているかもしれません。
このような状況についてのコメントを見ると、必ず、「とても悲しい!」とか「こんなことが起こるなんてひどい!」といった内容のものがあります。どちらのコメントにも同感ですが、私はそのようなコメントは少し無駄な気がしてなりません。「壊滅的な規模の問題があるのは嫌だ」と言ったところで、そのせいで人生が一変してしまった人々の助けになるのでしょうか。何の役にも立ちません。
では、私に何ができるのでしょう。大きな救急箱を抱えて紛争地帯に向かうのでしょうか。ホームレスの家族5世帯に家を開放するのでしょうか。いじめの卑劣さを暴露するビデオをYouTubeにアップするのでしょうか。世界を苦しめ、人々に害を及ぼしているこのような大規模の問題に、どうすれば実際に変化をもたらすことができるのでしょう。
これは人々が長い間疑問に思っていたことだと思います。特に、現代の通信技術のおかげで、世界中で何が起きているのかをつぶさに知ることができる今はなおさらでしょう。世界で起きている悪や苦しみに対して、私たちは何ができるのでしょう。このような巨大な問題状況において、どうすれば変化をもたらすことができるのでしょう。
知ろうとしないという方法を取る人たちもいます。ニュースを追わず、すべての問題を遮断するのです。また、ニュースを注意深く追いながらも、問題があまりに大きく、解決はおろかほんの少しの影響を与えることも不可能に思えて、希望を失う人もいます。
また、これは弱肉強食の世界なのだから、自分の利益だけ求めればいいと考える人もいます。そういった人は他人を踏みにじってもいいと考えます。誰かを踏みにじらなければ、誰かに踏みにじられるから。また、絶望のあまり、「自分には違いをもたらすためにできることなんて何もない。だから頑張っても無駄だ」と結論づける人もいます。しかし、そのような敗北主義的な態度は気を滅入らせ、いかなる変化も改善ももたらすことがありません。
慈善団体に寄付して、それで自分の役割を果たしたことにするという考え方もあります。それは良いことだし大切なこととも言えますが、だからといって、果たして、それで世界の状況や周りの人々のニーズに対する責任を免れることになるのでしょうか。
最近、この疑問についてじっくり考えていたのですが、そこで私は世界の運命や行く末について恐怖や無知や憂鬱の中で生きているのは嫌だと気づきました。また、困っている人々の苦境をただ無視するのも嫌です。
それで、世界の問題に関するキリスト教的な視点を求めて、私はイエスの生涯に目を向けました。昔のパレスチナでは、貧困、病気、苦しみ、戦争、抑圧、無関心など、今日の私たちが直面しているような多くの社会問題を抱えていました。
聖書はこう告げています。「[イエスは]群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた」(マタイ9:36)。イエスは憐れみをもって群衆をご覧になったのです。イエスはまた、イエスの助けを切望する人々を憐れみ、彼らをいやされました。「ひとりの重い皮膚病にかかった人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った、『みこころでしたら、きよめていただけるのですが』。イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『そうしてあげよう、きよくなれ』と言われた」(マルコ1:40–41)。
福音書の至るところで、イエスは周りの人々を助けられました。イエスは次々と人を癒し、励まし、祝福し、健やかにされました。また、真理、永遠の救い、永続する真の価値への道を指し示されました。そして、イエスが祝福し、癒し、健やかにされた人々の多くは、外に出て行って、その喜び、良き知らせ、祝福を他の人々に広めたのです。
井戸で主が話しかけられたサマリア人の女性の話で、彼女は自分の町に走って帰り、こう宣言しました。「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。 そして、この一人の女性の証によって、多くの人がイエスを見に行き、その結果、「この町からきた多くのサマリヤ人は、… イエスを信じた」のです(ヨハネ4:28–30, 39)。
その一人の女性との出会いによる波及効果がどこまで及んだのかは、誰にもわかりません。イエスがもたらした波及効果は今日も続いており、私たち一人ひとりにもその波及効果をもたらすための役割があります。あなたは自分自身で、戦争で荒廃した国に行って援助や人道支援を提供したり、貧しい人々を養うための慈善団体を設立したりするようには召されていないかもしれません。しかし、私たちは皆、自分のいる世界の片隅で光になるという役割を果たすよう求められています。
私たちはそれぞれ、暗い世界の中の明るい一区画になることができます。優しさと思いやりを示すことができます。人の永遠の運命を変える、イエスにあって救いの命を与えるメッセージを分かち合うことができます。 毎日を、神の愛と、福音という素晴らしく良い知らせとを伝える機会として活用しましょう。レジの店員さんに話しかけ、公園で子供に微笑みかけ、先生や警察官、郵便配達員や給仕の人にお礼を言いましょう。街角の貧しい人にも親切にしましょう。「あなたに求める者には与えてやり」なさいとあるように(ルカ6:30)。
さらに一歩進んで、惜しみなく与えましょう。自分の時間、リソース、心を他の人に捧げましょう。出会いの一つひとつを、神の光を輝かせてその人の一日を明るくし、希望をもたらし、神の愛の生きた手本となるための機会ととらえるのです。
あなたも私も、全世界に変化をもたらすことはできないかもしれませんが、私たちの周りの小さな世界に変化をもたらすことはできます。職場であれ、日々の活動であれ、近所や地域社会であれ、私たちは毎日関わる人々の人生に神の光と希望を輝かせるために、自分の役割を果たすことができるのです。私たちは、人々が神を知り、イエスを信じる信仰によって救いの賜物を受け取る機会を与えることができます。
世界には、神の介入を祈り求める以外に私自身では何もできないような大規模な問題が存在しますが、たいていの場合、目の前には、何らかの形で助けることができる人や物事が何かしらあるのです。そこで私は変化をもたらすことができ、そこで私は違いを生むことができます。そして、神の恵みによって、他の誰にもできないような方法で気にかけてくださる方の愛を示すことができるのです。私は周りの人々に、神の無条件の愛、ケア、憐れみを反映させることができます。
大きな手助けをする機会がある時には、私は大きな手助けをします。小さな手助けができるときには、小さな手助けをします。そして、どのように助けるかにかかわらず、私はイエスの言葉を忘れません。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ25:40)。
神の愛を周りの人々に反映させ、良き知らせを分け合い、神の憐れみ、愛、優しさをできる限りの人々に示すため、私たち一人ひとりが自分の分を果たすことができますように。
若者向けのキリスト教的人格形成リソース「Just1Thing」ポッドキャストより、一部変更
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