6月 30, 2025
マタイによる福音書18章とルカによる福音書15章の両方に、九十九匹の羊の群れを残して、迷い出た一匹を探しに行く羊飼いのたとえ話が記されています。…「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」(マタイ18:12–14)
イエスの時代の人々は、羊飼いと羊の関係を理解していましたが、羊飼いが迷い出た一匹の羊を探しに行く意義は、私たちには理解しにくいことがあります。迷い出た一匹の羊を探すために、群れを置いて行くというのは、奇妙に思えるのです。…
神は、九十九匹を見捨てたりされません。彼らはすでに神の王国で安全に過ごし、神の天使に伴われ、神の聖霊に導かれているのです。(ローマ8:14; ヘブル13:5) しかし、主の心は、まだ群れに入っていない者のために痛みます。… 九十九匹が神にとって大切な存在だということに変わりありませんが、その迷える羊がいなければ、群れは揃っていないのです。そして良い羊飼いは、いつも迷える羊の後を追っておられます。—GotQuestions.org [1]
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時おり、母羊が自分の生んだ子羊を拒絶することがあります。その理由はさまざまです。そうなると、子羊を母羊のもとに戻しても、かわいそうなことに、母羊が子羊を蹴り飛ばすことさえあります。一度その子羊を拒絶したなら、母羊が気を変えることは決してありません。
そういう子羊はかなりうなだれ、心が砕かれてしまいます。「バマーラム(見捨てられた子羊)」と呼ばれています。羊飼いが介入しない限り、これらの子羊は拒絶されて孤独のまま、死んでしまうのです。
では、羊飼いが何をするか、分かりますか。
羊飼いは、その拒絶された子羊を家に連れ帰り、自らの手で餌をあげ、火のそばで温め、毛布でくるみ、子羊が羊飼いの心臓の鼓動を聞けるほど近くに抱き寄せます。そして、子羊が十分に強くなったら、羊の群れがいる野原に戻すのです。
しかしその羊は、母羊に拒絶されたとき、羊飼いがいかに自分を世話してくれたかを決して忘れません。羊飼いが群れを呼ぶとき、真っ先に駆け寄るのはどの羊だと思いますか。そう、母羊に捨てられていた羊です。その羊は、羊飼いの声を誰よりもよく知っているのです。
母羊に捨てられた子羊は、他の羊よりも愛されているわけではありません。ただ、自分を愛してくれている人をよく知っており、その愛を身をもって体験しているだけです。
私たちの多くは、拒絶されて傷ついたバマーラムですが、イエスは良い羊飼いです。イエスは私たちのすべての必要を満たし、心臓の鼓動が聞こえるほど近くに私たちを抱き寄せてくださいます。
私は、良い羊飼いである方に引き取られ、愛されているバマーラムなのです。ハレルヤ!—不詳
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「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており …。」 (ヨハネ10:27)
イエスは、ご自身の者たちを知っておられます。それはどういうことでしょうか。
ヨハネ10章3節は、ヨハネ10章27節とよく似ていて、こう書かれています。「羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。」
ですから、イエスが「わたしは彼らを知っている」と言われましたが、それは少なくとも、彼らの名前を知っているという意味になります。つまり、それぞれを個別に、また親しく知っておられるということです。彼らは名前を知られていない存在ではなく、群れの中に埋もれているわけでもありません。
ヨハネ10章14–15節からは、また別の洞察が得られます。「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」
イエスが天の父を知っているさまと、ご自分の羊たちを知っているさまとには、真の類似点があります。イエスは父の中にご自身の姿を見、また弟子たちの中にもご自身の姿を見ておられるのです。
イエスは弟子たちの中に、ある程度ですが、ご自身の性格の表れを見ておられます。羊たちが身に帯びているご自身の印を見ておられるのです。そして、それが、彼らをよりいっそう愛おしい存在とします。…
使徒パウロは、そのことを次のように表現しています。「神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。『主は自分の者たちを知る。』」(2テモテ2:19)
神の御子から個人的に、親しく、愛情をもって知られることが、どれほどとてつもない特権であるかは、いくら強調しても足りないほどです。それは、イエスのすべての羊に与えられる貴重な贈り物であり、その中には深い個人的な交わりと愛情、そして永遠の命の約束が入っているのです。—ジョン・パイパー [2]
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主はわたしの牧者であって、 —それは関係です。
わたしには乏しいことがない。 —それは供給です。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、 —それは休息です。
いこいのみぎわに伴われる。 —それは元気の回復です。
主はわたしの魂をいきかえらせ、 —それは霊の癒やしです。
み名のために … —それは目的です。
… わたしを正しい道に導かれる。 —それは導きです。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、… —それは苦難です。
… わざわいを恐れません。 —それは保護です。
あなたがわたしと共におられるからです。 —それは誠実さです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。 —それは規律です。
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、… —それは希望です。
わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。 —それは豊かさです。
わたしの生きているかぎりは 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。 —それは祝福です。
わたしは … 主の宮に住むでしょう。 —それは安全です。
… とこしえに … —それは永遠です。
—詩篇作者ダビデによる詩篇23篇に、不詳の作者がコメントを付加したもの
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あなたはわたしの目に尊い存在である。髪の毛さえも、一本残らず数えられている。わたしはあなたの心と考えを知っている。わたしがすぐそばにいることを、あなたに知ってほしい。苦難のときには、いつでも助けとなろう。ひとりぼっちだなどと思ったり感じたりしないでほしい。わたしはいつもあなたと共におり、わたしの霊があなたを助けるのだから。
心配や悩みは脇において、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたに抱いている愛は計り知れず、終わりも限りもなく、永遠だ。しっかりとわたしを見つめなさい。わたしはいつもあなたと共におり、あなたの右の手を握っていることを、心に留めて安心しなさい。
わたしと一緒に時間を過ごせば、あなたは元気を取り戻し、力づけられ、インスピレーションを受ける。わたしは心の打ちひしがれた人に寄り添い、霊が砕かれた者を救い出す。わたしがあなたに対して抱いている愛を信じなさい。あなたの道にある障害物を見て、落ち込んだり、速度を緩めたり、立ち止まったりしてはいけない。わたしを見上げなさい。わたしは決してあなたを失望させないし、見捨てることなどない。
あなたの心を、わたしの愛と喜びと平安で満たしなさい。あなたは永遠にわたしのものであり、わたしの愛からあなたを引き離せるものは何もないのだ。—イエス
2025年2月アンカーに掲載 朗読:ルーベン・ルチェフスキー 音楽:ジョン・リッスン
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