わたしたちの日ごとの食物を・・・

6月 18, 2025

Our Daily Bread
February 18, 2025

引用文集

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イエスが弟子たちに祈りを教えられたとき、求めるよう彼らに言われたことのうち、肉体的な必要についての祈りはただひとつ、「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」(マタイ6:11)だけでした。残りの部分はすべて神への賛美か、あるいは私たちが神を喜ばせ、神に仕えることができるようになるための霊的な賜物や祝福を求めるものです。物質的な供給を求める祈りが含まれていることは、私たちが自然界に生きており、神が私たちの肉体的な必要を満たしたいと願っておられることを表しています。しかし、それ以上に深い意味があるのです。

サマリアの女がヤコブの井戸でイエスに出会ったとき、イエスは彼女に肉体の生命を維持するものだけでは十分でないと言われました。「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろうしかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがない」(ヨハネ4:13–14)。イエスはいのちのパンであり水であり、私たちの人生においてイエスの存在は、肉体の食べ物や水以上に重要なのです。

食べ物や水が生命を維持するために毎日必要であるように、私たちは霊的な力もまた、毎日必要としています。神は、私たちが日々の食物を調達するために懸命に働くことを期待しているのと同じように、御言葉を読み、祈り、深く思い、瞑想して神とともに時間を過ごすことによって、霊的な食物を調達するために努力するよう期待しておられます。

感謝することに、神は私たちに必要なものを与えたいと願っておられます。そして最も重要なことに、神ご自身を与えたいと願っておられるのです。神は、すべての人が神の霊的食物を食べることを望んでおられます。ここで主の祈りに戻ると、イエスは弟子たちに、日々の必要を満たすために祈るだけでなく、「天から下ってきた生きたパン」(ヨハネ6:51)である主の御霊が日々の生活の中にいてくださるように祈るよう教えておられるのです。—ローナン・キーン

必要に気づく

私たちは、1世紀の人々とはまったく異なる状況の中に生きています。「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」。今、世界には、その日の食物が入ってくることを毎日切実に頼みにしている人々が何百万といます。彼らは次の食事がどこから来るのかわからず、その日暮らしをしているのです。

また、… そのような生活をしていない人たちも大勢います。少なくとも、私たちはそのような生活をしているようには思っていないのです。好きな食料品店に行けるし、棚には食料が並んでいます。世界中の多くの人々が大きな富と繁栄に囲まれている中で、私たちが「日ごとの食物を、きょうもお与えください」と祈ることの本当の意味は何なのでしょう。

たとえいたるところに食料品店があったとしても、私たちは神が必要なものを与えてくださることに依存しているゆえに、これは今でもパワフルな注意喚起であり、必要とされる祈りなのです。ここ数年、さまざまな激動、サプライチェーンの問題、COVID(新型コロナ)、そしてインフレが起きています。私たちは実際に空っぽの棚を目にしてきました。とても裕福な世界であっても、必要だと思うものがすぐになくなってしまいうるのを目の当たりにしてきました。ですから、私たちは本当に神に依存しているのです。

そして、イエスが「日ごとの食物」と言われたのは、もちろん単なるパンや単なる食べ物でさえなく、私たちが今日必要なものすべてを意味しています。イエスが「日ごとの食物を、きょうもお与えください」と祈るようにと言われたのは、とても教訓に富んでいます。本音を言えば、こう祈りたいところです。「今年一年の食物をお与えください。神様、私は年に一度、あなたのもとに行きます。一年間、私がちゃんと生活できるよう備えてくださいますか?」

それはイエスが私たちに望んでいる生き方ではありません。イエスは私たちに、主の慈しみは朝ごとに新しいことを思い出してほしいと願っておられます。だから私たちは毎朝、神が私たちに新しい憐れみ、新しい恵みを与えてくださることを期待し、祈る必要があるのです。神がイスラエルの民に荒野で生活させたのはそのためでした。こんなふうに言われたのです。「今日一日のために十分なマナを与えよう。だからそのやり方をごまかせると思ってはいけない。わたしを信じなさい。明日目を覚ませば、わたしがあなたに必要なものを与えるから」。

主の祈りはそのことを思い出させてくれます。そしてイエスは、私たちがそう祈り続けること、そして神が私たちに食べ物や食料だけでなく、私たちが神を喜ばせ、神のために日々生きるために必要なすべてを与えてくださることに気づくよう、私たちに命じておられるのです。ケビン・デヤング [1]

なぜ日ごとの食物なのか

イエスは、神が日々の食物[ほとんどの英訳聖書では「パン」]を与えてくださるよう祈るようにと教えておられます(マタイ6:11)。明らかに、イエスは弟子たちにパンのためだけに祈れと言われたわけではありません。しかし、パンはユダヤ人の主食であり、昔からずっとそうでした。さらに、パンは旧約聖書において、神の民に対する神の供給の強力な象徴でした。私たちは、イスラエルの民がエジプトから脱出した後、荒野にいたときに神がどのように世話してくださったかを覚えています。荒野での生活は困難で、やがて民は、美味しい食べ物があるエジプトに戻った方がよかったと愚痴をこぼすようになりました。

こうした不満に対して、神は「天からパンを降らせよう」と約束されました(出エジプト16:4)。翌朝、露が上がると、地面には「薄いうろこのようなものがあり」、それは「ちょうど地に結ぶ薄い霜のよう」でした。そして、「コエンドロの実のようで白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった」とあります。(出エジプト16:14, 31)。神が奇跡的に天からご自分の民を養われました。糧として、彼らにパンを与えたのでした。…

主の祈りにあるこの嘆願は、謙虚な依存の霊をもって神に近づき、必要なものを与え、日々を支えてくださるよう神に求めることを教えています。 私たちは、大きな富を求めることを許されているのではなく、神が与えてくださることを信じて、自分の必要を神に知らせるように勧められているのです。

もし、神の御手が見えないように思えたり、神の摂理が私たちの人生に介入していることに気づくことができないと感じるなら、それは私たちの祈り方に一因があるかもしれません。/p>私たちは大まかな祈り方をする傾向があります。おおまかに祈るとき、神の摂理の御手はおおまかな見え方しかしません。祈り、すなわち神との対話と交わりに入り、願いごとを神のみ前に置き、私たちの魂と必要を具体的に注ぎ出すとき、私たちは祈りに対する具体的な答えを見ることができます。私たちの父は、私たちが神のもとに行き、日々の食物を求めるよう招いておられます。そして神はそれを必ず与えてくださいます。—R・C・スプロール [2]

天の父に依存する

私たちは一瞬一瞬、父なる創造主が私たち、そして宇宙のその他の部分を存在させ続けてくださるよう(創造主の御心がなければ、何ものも存在し得ないから)、また、毎年、種を蒔き、収穫し、店頭に食料を並べるという自然のリズムを維持してくださることを頼みにしています(創世記8:22)。そして、このように依存していることを日頃から祈りの中で認めることは、私たちにとって正しいことです。特に、自然は自分の力で維持されていると思い込んできたこの時代が、今となっては神の実在について問題を抱えているのでなおさらです。

ある人は、自分の物質的な必要を求める祈りを低級な祈りと見なし、あたかも神が生活の物理的な側面には関心を持たず、私たちもそうであってはならないかのように言います。しかし … 最もありふれたものに至るまで、人間のすべての必要を供給する唯一かつ全能の源である神に助けを求める嘆願は、真理を表現しています。そして、私たち自身が自分の力で生きていることを否定することが私たちを謙虚にするように、私たちの依存を認めることは神を敬うことになるのです。

日々の食物のために祈ることは、(たとえば)罪の赦しのために祈るのと同じくらい必要であり、重要であることがわかるまでは、私たちの心も頭も正しい状態だと言えません。イエスが4,000人や5,000人を養われたことが示すように、神はご自分のしもべたちが必要な食物を得ることを本当に気にかけておられます。神は霊的な必要だけでなく、肉体的な必要にも同じだけ心を配っておられ、神にとってベーシックカテゴリーとは人間のニーズであって、その両方を含んでいるのです。…

イスラエルの民が日ごとにマナを集めるよう言われたように、私たちは日ごとにパンを求めるように告げられています。クリスチャンとしての生き方とは、常に神に依存して、一度に1日ずつ生きることです。また、私たちは必要なパンを求めるようにも言われており、それはつまり、贅沢品ではなく、なくてはならない必需品を供給してくださるように求めることです。この願いは貪欲を正当化するものではありません。さらに、祈るときには、求めたものを与えなかったという神の摂理的な応えによって、結局のところ、私たちがそれを本当に必要としていなかったと神が示される心の準備をしておかなければなりません。—J・I・パッカー [3]

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日々の食物を求めるというのは、肉体的な食物についてだけではありません。日ごとの食物を求めることは、肉体的な食物だけでなく、目に見えない必要を神に求めることでもあります。… イエスは御自身を「命のパン」と呼んでおられます(ヨハネ6:35)。「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネ1:4)。イエスは、「わたしがきたのは、… 命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10:10)と言われます。私たちは永遠に救われているだけでなく、今、神との修復された関係を経験するのです。私たちは日々神を求め、神は私たちを日々新たにされます(2コリント4:16)。また、枝は絶えずぶどうの木によって養われるのです(ヨハネ15:5)。

そう、神は私たちを肉体的に支え、この世での目に見えない必要を満たしてくださいます。それ以上に、神は私たちの霊的な必要を満たしてくださいます。神は私たちの霊的飢えを満たすパンです。神は私たちの心を支えてくださいます。私たちが日々のパンを神に求めるとき、私たちは、必要なすべてのものを与えてくださる唯一の方としての神を謙虚に認めていることになるのです。私たちは一日一日を、一歩ずつ生きています。私たちは、人生のあらゆる領域で、必要なときに必要なものを与えてくださる神への単純な信仰を行使しているのです。—GotQuestions.org [4]

2025年2月アンカーに掲載 朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ 音楽:マイケル・フォガティ


1 https://www.crossway.org/articles/what-does-it-mean-when-we-pray-give-us-this-day-our-daily-bread

2 https://www.ligonier.org/learn/articles/what-does-give-us-day-our-daily-bread-mean

3 J. I. Packer, Praying the Lord’s Prayer (Crossway, June 7, 2007).

4 https://www.gotquestions.org/daily-bread.html

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