5月 7, 2025
C・S・ルイスはかつてこう言いました。「クリスチャンであるということは、神があなたの内にあるゆるしがたいものをゆるしてくださったように、あなたも他者の内にあるゆるしがたいものをゆるすということです。」 また、ゆるしとは、憤りの扉や憎しみの手錠を開け、恨みの鎖を断ち切る鍵であるとも言われています。
もし憤りや恨みから解放された人生を送ろうとするなら、その第一歩はゆるすことです。誰かを真にゆるすには、その人に対して心に抱いている悪意を手放すことを選ばなければなりません。難しいことかもしれませんが、そうした否定的な感情を心に根付かせるなら、それは大きく育って、あなた自身の人生に不幸をもたらすでしょう。
イエスは十字架から、根本的なゆるしの例を示してくださいました。鞭打たれ、あざけられ、十字架にかけられ、苦しみながら耐え難い死を迎えようとしたときでさえ、こう言われたのです。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(ルカ23:34)
他の人の行為によって、あなたがどんな傷を負い、気を害され、何かを失ったとしても、クリスチャンとして、私たちはゆるすように求められています。主の祈りの中で、主はこう祈るよう教えられました。「わたしたちに負債のある[罪を犯した]者をゆるしましたように、わたしたちの負債[罪]をもおゆるしください。」(マタイ6:12) そう祈られた後、主は続けてこう言われます。「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」(マタイ6:14–15)
ゆるしは神の愛から始まります。神の愛はあまりにも広大で無条件であるため、私たちが神のゆるしを受けることができるように、神は御自身の御子を私たちのために苦しませて死なせられました。神の愛は、すべての傷を癒すばかりか、私たちを傷つけた人々に神の愛とゆるしを示す力を与えてくださるのです。
時として、私たちは、他の人に、そして自分自身に与えることのできる最高の贈り物はゆるしであることを、少し思い出させてもらう必要があります。イエスが私たちの日々の罪をゆるしてくださったように、私たちもイエスの模範にならい、他の人にゆるしを与えることができるのです。—Country Living
有名なテストパイロットで航空ショーにもよく出演していたボブ・フーバーは、サンディエゴでの航空ショーからロサンゼルスの自宅に戻る途中でした。『Flight Observation』マガジンに書かれていたのですが、彼の飛行機は上空300フィートで両エンジンが突然停止したのです。巧みな操縦でなんとか着陸に成功しましたが、機体は大きな損傷を受けました。
緊急着陸後、フーバーは真っ先に、飛行機の燃料を点検しました。すると、彼が疑っていた通り、第二次世界大戦中に製造されたそのプロペラ機には、ガソリンではなくジェット燃料が給油されていたのです。空港に戻った彼は、飛行機を整備した整備士に会いたいと言いました。
その若者は自分がミスしたことで、苦しみに苛まれていました。フーバーが近づくと、彼の顔から涙が流れ落ちました。彼のせいで、非常に高価な飛行機が失われ、危うく3人の命も失われるところだったのです。フーバーの怒りは想像に難くありません。この誇り高く間違いなど起こさないパイロットが、このような不注意に対して放つであろう舌打ちが予想できるようでした。
しかし、フーバーはその整備士を叱ることなく、何の非難も口にしませんでした。それどころか、大きな腕をその男の肩に回し、こう言ったのです。「君が二度とこんなことはしないと確信している印に、明日、私のF-51を整備してほしい」と。—デール・カーネギー [1]
クリスチャンが直面する最も困難なことの一つは、私たちを深く傷つけた人々に真のゆるしを与えることでしょう。イエスが私たちに、敵を愛し、彼らをゆるすよう命じられても、イエスは自分がおっしゃっていることの意味をわかっているのかと、私たちは信じがたい気持ちになるものです。「イエスは私の父を知らない」とか、「イエスは私の傷の深さを理解していない」などと思ってしまいます。
しかし、イエスは理解しておられます。そして、理解しておられるからこそ、私たちにゆるすように命じておられるのです。イエスは、どんなに深い傷もイエスの血によって癒されることをご存知です。だからこそ私は、コーリー・テン・ブームが彼女の素晴らしい著書『The Hiding Place(邦題:わたしの隠れ場)』の中で、イエスのゆるしの愛と出会った時の物語が大好きなのです。
コーリー・テン・ブームは第二次世界大戦中、ナチスに抵抗して、自宅にユダヤ人をかくまいました。やがて彼女は捉えられ、強制収容所に送られて、そこで尊厳を奪われ、父親と姉(ベッツィー)の死を目の当たりにしました。そして、私たちの想像を超える苦しみを味わせられたのです。だからこそ、以下に引用する彼女のゆるしとの出会いは、注目すべき出来事なのです:
私がその元ナチス親衛隊員を見かけたのは、ミュンヘンにある教会の礼拝でのことでした。彼はかつて、レーベンスブリュック強制収容所の手続きセンターで、シャワーのドアの前に立って見張っていた人です。あの時以来、実際に刑務所にいた人に会ったのは、彼が初めてでした。すると突然、あの時の光景が目の前に広がったのです。嘲笑う男たちでいっぱいの部屋、山積みにされた衣服、ベッツィーの苦痛に打ちひしがれた顔......。
教会から人がいなくなった頃、彼はにこやかにお辞儀をしながら近づいてきました。「ご婦人、あなたのメッセージに感謝しています。あなたがおっしゃるように、主が私の罪を洗い流してくださったのだと思うと......」と彼は言いました。
彼は握手をしようと手を差し出してきました。ところが私は、ブルメンダールの人々にゆるすことの必要性をあれほど何度も説いてきたというのに、その手を脇に置いたままだったのです。怒りと復讐の思いが沸き起こりながらも、私はその思いの罪深さを見ました。イエス・キリストはこの男性のために死んでくださったのです。私はそれ以上何を求めるつもりなのでしょう。私は祈りました。主イエスよ、私をおゆるしください。そして、私がゆるせるようお助けください。私は微笑もうとし、手を挙げようともがきました。でも、できませんでした。何の感情も湧かないし、温もりや慈愛の輝きなど微塵も感じなかったのです。そしてまた、私は黙祷を捧げました。イエス様、私は彼をゆるすことができません。どうかあなたのゆるしを与えてください。
すると、私が彼の手を取ったとき、信じられないことが起こったのです。私の肩から腕や手を通って、私から彼へと電流が流れるかのようでした。そして私は、この世の癒しは、私たちの善意やゆるしにではなく、主のいつくしみとゆるしにかかっていることを知ったのです。主が敵を愛しなさいと命じられるとき、主はその命令とともに、愛そのものを与えてくださるのです。—『The Hiding Place』
ゆるすことは難しいかもしれませんが、私たちのゆるしにではなく、「ただ主のゆるしに、この世の癒しはかかっている」のです。私たちは、ゆるしによってイエスが世界に広げてくださる愛に参加する機会を与えられています。私たちがゆるしを実践するとき、キリストは私たちにゆるしに必要な愛を与えてくださいます。—マシュー・クロッカー [2]
恵みによって生きている人は、神に対する自分の罪と、自分に対する他の人の罪との間に、この広大なコントラストを見ます。その人自身が恵み深くゆるされているからこそ、他の人をゆるすのです。—ジェリー・ブリッジズ
ゆるしを実践することによって、私たちは、私たちが最も愛している方、そして私たちを永遠に、犠牲を払って愛してくださった方の生きた証人となる特権を得るのです。—ブライアン・チャペル
真に愛したいのなら、ゆるすことを学ばなければなりません。—マザー・テレサ
そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか。」 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。」—マタイ18:21–22
「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。」—マタイ5:43–45
互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。—エペソ4:32
天の父よ、私たちの心は、余すところなく完全にゆるそうとして、どれほど苦労していることでしょう。そのようなゆるしを、あなたが快く私たちに示してくださることを感謝します。私たちが自由にゆるし、恨みを捨て、あなたの道が最善であると信じる力を与えてください。イエスの御名によって、アーメン。—メレディス・ヒューストン・カー
2025年3月アンカーに掲載 朗読:ジョン・ローレンス
1 Dale Carnegie, How to Win Friends & Influence People (first published October 1, 1936).
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